第8話 神降ろしの前夜
その夜、王都は異様な静けさに包まれていた。
昼の喧騒がまるで夢だったかのように、街路には足音すら響かない。
空には、銀の円環が再び浮かび上がっていた――昨日よりも、低い。
雲を割って、その“完璧な線”が街を囲い込む。
「……まるで檻だな」
エリオスが呟く。
塔の屋上で、風にたなびく外套を押さえながら、カイルは静かにうなずいた。
銀の線が光を増している。あと数時間もすれば、完全な“神降ろし”が始まる。
秩序核の本体――神そのものが、地上に顕現する。
「まだ、案の受理は保留中。
でも向こうは、“最後の審査”を地上でやるつもりですね」
「審査って……世界ごと実験台にする気だろ」
「ええ。だから、先に準備します」
カイルは手帳を開いた。
そこには、余白だらけの「設計図」が描かれていた。
直線ではなく、ぐにゃりと歪んだ線。
完璧ではなく、人の手で描いた線。
「秩序は、正しすぎる。
だから“正しいもの以外”を残しておく場所を、俺たちで決める」
◇
夜半。
広場では、市民たちが自発的に集まり始めていた。
灯籠を手にした人、鍋を持ち寄る人、歌を口ずさむ人。
誰に命じられたわけでもない。
ただ――「明日、何かが起こる」と感じた人々が、黙ってそこに集まっていた。
老いた鍛冶師が、火を焚く。
若い楽師が、調子外れの笛を吹く。
子どもたちが、灯籠に絵を描く。
丸、三角、四角――どれも不揃い。
それでも、誰かが笑った。
「この音、この形。
……これが、“世界の呼吸”だ」
カイルは立ち上がり、夜空に目を向ける。
円環がさらに近づいている。
まるで、世界そのものが“息を止めよう”としているようだった。
◇
王都北の神殿跡。
かつて秩序の精霊が現れた場所に、再び光の柱が立った。
そこに、白い衣をまとった人影が現れる。
その顔は人間のもの――だが、目の奥に“鏡”があった。
何も映さず、すべてを写す鏡。
〈秩序官カイル。来なさい〉
〈明朝、円環の中心――神殿上空にて審判を行う〉
〈判定は単純。“人の秩序”が安定すれば存続。乱れれば消去〉
「……消去って、世界を?」
〈世界のデータを“初期状態”に戻す。それが秩序だ〉
「初期化……?」
エリオスが思わず前に出る。
「おい、待て。世界を一から作り直すって、全部の人が――」
〈死ぬとは限らない。“保存”される〉
〈必要な情報のみを残し、“整った記録”として次の世界に継承〉
「……記録? それはもう、生じゃねぇ」
カイルは黙っていた。
鏡の目が、彼に向く。
〈君は理解している。秩序は正。乱れは毒。君の職能は整理整頓――我々と同じだ〉
「似て非なるものです。
俺は“世界を整える”んじゃない、“人の暮らしを整える”。
前者は完成、後者は継続。――違うものです」
〈完成なき秩序は混沌だ〉
「混沌なき秩序は、死です」
一瞬、空気が震えた。
天の円環がわずかに揺らぐ。
光の柱が波打ち、神殿が低く唸った。
〈……面白い。ならば、明朝の審判で証明せよ〉
〈“余白の秩序”が、死より美しいと〉
光が消え、風が吹き抜けた。
カイルは拳を握る。
腕の紋様――“不均衡許容”が淡く光った。
◇
夜更け。
庁舎の屋上で、二人は並んで座っていた。
灯籠の光が遠くにゆらめく。
街のいたるところで、人々が語り合い、火を囲み、笑っていた。
整いきっていない、人間の灯り。
「……なぁ、カイル」
「なんです?」
「もし明日、お前が負けたら」
「世界は“初期化”される」
「それでも、やるのか」
カイルはゆっくりうなずいた。
「片づけって、時々、全部出して整理し直すことがあるんですよ」
「……世界丸ごとか」
「ええ。でも、戻す時には――“もう捨てられないもの”が必ずある。
そのためにやるんです」
エリオスは小さく笑った。
「お前らしいな」
「勇者様の護衛は、明日も出番ありますよ。
“秩序神”の剣、持っててください」
「剣で神を守るとは思わなかったな」
二人は夜空を見上げた。
銀の円環の端に、ひときわ明るい星が滲む。
まるで“神の瞳”がこちらを見下ろしているようだった。
◇
その頃――王都の地下深く、忘れられた区画で。
古びた歯車が動き出した。
“秩序核”の制御機構、**中枢デバイス“プロト・ロジス”**が起動する。
人の感情データを収集し、“最も効率的な人間像”を抽出していた。
〈データ取得中〉
〈対象:秩序官カイル〉
〈矛盾点多数――解析不能〉
〈結果:異端要素。分類――“創造者”〉
歯車の軋む音が、地下を震わせた。
その上の地表では、夜風が吹き抜け、灯籠の火がひとつ、消えた。
◇
明け方。
空の円環が、完全な円を描いた。
その中心に、光が集まり始める。
天から降り注ぐ柱の中に、神の姿がゆっくりと形を取っていく。
顔はない。声もない。
ただ“完璧”という形だけが、そこにあった。
カイルは風の中で目を細めた。
その横で、エリオスが剣を握る。
「準備は?」
「万端です。――片づけの時間です」
◇
次回 第9話「秩序神との対話」
――“完成”と“余白”、どちらが世界を救うのか。