第6話 歪んだ秩序、消えた笑顔
朝の王都は、時計のように正確だった。
市場の露店は同じ幅で並び、客は無言で等間隔に進み、値切りの声は一度も起きない。
吟遊詩人の歌はテンポが狂わず、子どもの追いかけっこは転ばない。
――誰も失敗しない代わりに、誰も笑わない。
「……音が死んでる」
カイルは市場の真ん中で足を止めた。
小さな男の子がリンゴを落とした。転がった実は、道の端の「果実一時置き場」のパネルに沿って正しい角度で止まる。
彼は拾い上げ、母親の手引きで規定のゴミ箱に捨てた。
泣きもしないし、誤魔化し笑いもしない。
「整いすぎだ」
「お前の権限のせいか?」
背からエリオスの声。
カイルは首を振る。
「違う。俺の“自動”は抑えてある。――外から、押してきてる」
視界の端に、薄い銀の線が見えた。
屋根から屋根へ、路地から路地へ、空から地へ――世界の表面をなぞるように走る“整列の糸”。
神殿で聞いた声が、耳の奥で微かに反響する。
〈秩序は乱れを嫌う。乱れは死を呼ぶ。だから、整えよ〉
(誰の声だ……神殿の精霊じゃない。もっと、硬い)
エリオスが顎で示す。
「見ろ、中央広場だ」
広場には「秩序礼賛会」の白い旗がはためいていた。
新興の市民団体。合言葉は「怪我をしない世界へ」。
配っている小冊子の表紙には、整った街並みと“泣いていない子ども”の絵。
「受ける言葉だな」
「受けやすい、だな。――安全と引き換えに、余白が消える」
◇
宰相府の会議室。
宰相はこめかみを押さえ、卓上の報告書をめくった。
「市場の喧嘩、ゼロ。盗難、ゼロ。迷子、ゼロ」
「一見良いこと尽くめですが……」と書記官。
「祭りの希望調査、参加希望“ゼロ”だ」
沈黙。
エリオスが腕を組んだ。
「怪我をしない祭りに、意味はあるのか」
「だから祭りじゃなく“式典”にしましょう、という意見が多数でな」宰相が苦笑する。
「式典にしても、拍手のタイミングまで“自動整列”されるんじゃ台無しだ」
カイルは地図を広げた。
王都の上空に、薄い円の模様。
みるみる濃くなっていく。
「来るぞ――」
窓外の空に、円環の紋章が浮かんだ。
石畳の目地、屋根の棟線、街路樹の並びが、紋章の刻みに同期する。
人々の足取りが自然に揃い、会議室の窓のカーテンまで“同じ揺れ幅”で揺れた。
〈告示〉
〈秩序核 市域試験運転を開始〉
〈混乱は悪。偶然は危険。誤差は削除〉
声は、頭の中に直接落ちた。
機械のように無機質で、祈りの余地がない。
神殿の精霊の柔らかさは微塵もない。
「……神じゃない」
カイルは呟いた。
「秩序そのものの意思だ」
◇
最初の異常は、小さな酒場で起きた。
酔客がジョッキを倒そうとして――倒れない。
机の“傾き”がゼロに修正され、液面の揺れは帳消しになり、泡は縁でぴたりと止まる。
笑いが、起きない。
次の異常は、音楽隊で。
若い楽師がテンポを走らせた瞬間、空間の拍が彼を引き戻し、音はメトロノームのように整う。
遊びが、消える。
そして広場で。
子どもたちが石蹴りを始め――石は必ず“落ちるべき穴”に落ちた。
歓声が、出ない。
笑顔が、消えた。
◇
「秩序核を止める」
カイルの声は固かった。
「位置は?」エリオス。
「上空の紋章が示す中心――王城の真上、鐘塔だ」
二人は塔へ駆けた。
階段を踏む足音まで、揃ってしまうのが気持ち悪い。
途中、巡回の兵が道を開けるタイミングも“最短”で、誰一人、衝突しない。
「剣で切れるか?」
「切れない。これは“配列”だ。――ノイズが要る」
「ノイズ?」
「秩序が嫌う、不規則。笑い、ズレ、失敗」
鐘塔の最上部に出ると、空に巨大な円環が回っていた。
薄い銀の板の裏――世界の“設計図”が、むき出しになっている。
〈整列開始〉
〈市民の歩幅を揃えます〉
〈商談の合意時間を統一します〉
〈家庭の食事時間を――〉
「やめろ!」
カイルは空に線を描いた。
ランダム。
角度も長さも違う線を、あえて雑に撒き散らす。
風が乱れ、鳩が一斉に飛び立つ――はずだった。
だが、乱れは丸められ、整列へ吸収される。
「くそ……」
エリオスが剣を抜く。
「俺の番だな」
彼は鐘の縄を掴み、深く息を吸った。
「――外す」
鐘を、わざと外したタイミングで鳴らす。
早すぎず、遅すぎず、“気持ち悪いズレ”。
ゴォン、と半拍子ズレた音が王都に落ち、次の打撃はさらにズレ、三撃目でわざと空振り。
街のリズムがよろめき、秩序核の輪郭がわずかに滲む。
「いいぞ、もっとズラせ!」
「剣より難しいな、これ!」
鐘の不協和音に合わせ、カイルは線を下手に引いた。
最短ではなく回り道、均等ではなく偏り、真っ直ぐではなく斜め。
計算された“下手さ”が重なり、円環にノイズ模様が走る。
〈警告:乱れ〉
〈修正開始〉
円環の下――空間に裂け目が立ち、白銀の影が降りた。
長衣、仮面、規則的に羽ばたく翼。
整列天使。秩序核の代理人。
〈秩序官カイル。権限を返納せよ〉
〈君の“不均衡許容”は、都市最適の敵対因子〉
エリオスが一歩出る。
「護衛任務につき、勝手はさせん」
〈勇者エリオス。あなたの役割は“余剰戦力の削除”。現在の最適には不要〉
「削除、だと?」
白銀の指先が弾くように動き、鐘塔の床の継ぎ目が完璧な角度で割れた。
エリオスは即座に跳躍し、剣で足場を“雑に”切り落とし、崩落をズラす。
落ちた石は規則を外れ、秩序核の調整に無駄を生ませた。
「雑こそ、命綱だ!」
カイルは天使の前に立つ。
「返納はしない。これは“人の余白”のための権限だ」
〈余白は事故。事故は痛み。痛みは悪〉
「痛みがあるから、助ける手が生まれる」
〈感情は不規則要素。削除対象〉
仮面の奥で、青白い光が瞬いた。
天使の翼が、同じ間隔で広がる。
広場から笑いの気配がさらに薄れる。
(時間がない。街の“音”が消える)
カイルは深く息を吸った。
秩序権限を胸の内で開く。
均し、揃え、削るためではない。
残すために。
「――不均衡許容、全開」
世界の線に、“余白”のパラメータが注ぎ込まれる。
同じ長さの道に、わざと曲がり角。
同じ高さの屋根に、わざと欠け。
同じ音の鐘に、わざと沈黙。
間が戻る。
〈警告:最適度低下〉
〈都市効率 -18%〉
〈幸福指標――変化なし〉
天使の光が揺れた。
数値に現れない“何か”が、街に戻ったからだ。
露店で、親父がわざと値を吹っ掛け、客が笑いながら叩き、隣の子が転んで、母親が笑って抱き起こす。
拍手のタイミングが少しズレ、歌の音程が時々外れ、楽しい。
エリオスが剣を肩に担ぎ、息を吐いた。
「最適じゃないほうが、強い時もある」
〈結論:交渉〉
天使の声色が、僅かに落ち着いた。
〈条件提示。三日以内に“都市秩序案”を提出せよ。人の余白を含む最適を示せば、核は後退する〉
〈不提出の場合、王都は“完全整列”へ移行――永久式典都市とする〉
永久式典――絶えず式次第に沿って動く街。
祭りは全て“演目”になり、笑いは台本の外へ出られない。
「三日……」
カイルは拳を握った。
「やってやる。――人の混沌を、秩序に編み込む」
〈付言。秩序官の“人間性”監視は継続〉
天使が仮面越しにエリオスを見る。
〈護衛勇者。あなたの役割は、彼の“ズレ”を守ること〉
「任せろ」
光が収束し、円環は薄れた。
街の空気に、ようやく雑談が戻る。
小走りする足音、行列を抜ける子の笑い声、鍋から跳ねるスープ、音の粒。
◇
宰相府に戻ると、机が二つ運び込まれていた。
一つは図面でぎっしり。もう一つは何もない“真っ白”の机。
カイルは後者の前に座る。
「図面は?」と宰相。
「後で。先に、声を集めます」
カイルは窓を開け、議場を広場に向けて開く。
子ども、職人、旅人、楽師、気難しい学者、商人、衛兵――
順番に、話してもらう。
困っていること、好きな不便、嫌いな不自由。
書記官が慌てふためき、エリオスが人の流れの“渋滞”を剣で割って通行路を作る。
「勇者の剣、役に立つだろ」
「……道具だな。片づけ道具」
二人は笑い、机に声を積む。
整えすぎず、散らかしすぎず。
人の段取りで街を編む。
日が傾き、灯が灯る頃。
遠くの路地から、小さな歌が聞こえた。
音程が外れ、リズムがズレ、でも、嬉しそうな歌。
カイルの手が止まる。
笑っている自分に気づいた。
(これが、答えになる)
◇
夜更け。
鐘塔の上、風が冷たい。
カイルは書き上げた“都市秩序案”の一枚目を握りしめ、空を見上げた。
うっすらと円環が戻りつつある。三日は短い。
それでも――。
「人のズレを、秩序にする。
“正しさ”の前に挨拶。
最短の手前に寄り道。
均等の隣に贔屓。
計画の末尾にハプニング」
背で、足音。
振り向かずにわかる。
エリオスだ。
「監視任務だ」
「ご苦労さま。……なぁ、エリオス」
「なんだ」
「お前がつけるズレは、気持ちいいな」
勇者は少し黙り、やがて鼻で笑った。
「褒め言葉として、受け取っておく」
遠くで、夜警の笛が少し外れて鳴った。
それが、心地よかった。
◇
その時――王都の北門が、月光の下で完璧に閉じた。
門扉の合わせ目は直線。隙間はゼロ。
外からの旅商人が、声を上げる。
「おい、開けてくれ!」
返事は、同じ間隔の反響だけ。
空に、冷たい声が落ちた。
〈試験運転:段階二〉
〈“夜間完全整列”を開始〉
〈朝まで自由移動を停止――笑顔、保留〉
笑顔を、保留?
背筋が凍る言葉の選び方だった。
カイルは拳を握りしめる。
明日、あさって、そして三日目。
時間が、整えられる前に――人の時間を取り戻す。
次回 第7話「三日の設計図」
――“余白の秩序”で、神の円環を折り畳め。