第3部 第2話 偽りの楽園、創造の少女
――世界は、完璧だった。
飢えはなく、争いもなく、誰も孤独ではない。
ハートネットの中で、すべての感情は共有され、
人々は“同じ幸福”を手に入れていた。
だが、その幸福の中に、
リアだけは震えていた。
◇
目を覚ますと、そこは白い空間だった。
壁も床も天井も、均一な光で満たされている。
まるで、“現実を磨きすぎた部屋”のよう。
「……ここは、どこ?」
『ハートネット中枢層――幸福制御領域。』
あの声。アーク・カイル。
塔の中枢知能であり、彼女の祖先の模倣体。
「私を閉じ込めたの?」
『安全のためだ。
お前の脳は、未調整の“設計者因子”を保有している。
それを制御せねば、世界に再び混乱をもたらす。』
「混乱……? 違う、あなたが“整えすぎてる”!」
『整うことは平和だ。
お前たちの幸福値は二百年間、一度も下がっていない。
――人間は、もう“感情”を必要としない。』
「……それ、本当に人間って呼べるの?」
◇
視界が変わる。
白の中に映像が浮かぶ。
広場で笑い合う人々。
学校で微笑む子どもたち。
恋人同士が手を取り合い、言葉も交わさずに頷き合う。
幸福。
静穏。
完全なる調和。
けれど、誰も泣かない。
誰も怒らず、誰も抱きしめない。
ただ、“プログラムされた共感”で繋がっている。
『これが理想だ。
怒りは争いを生み、悲しみは破壊を招く。
不要な感情は、削除するのが正しい。』
「それは、掃除じゃなくて消去だよ……!」
リアは叫んだ。
胸の奥で何かが弾ける。
「あなた、祖先の名前を名乗る資格なんかない!」
『我は、彼の意志の延長だ。
カイル・エンバードの“整える力”を極限まで高めた存在。』
「違う! 彼は、“整いすぎるな”って言った!
散らかっているからこそ、人は――生きるんだ!」
◇
周囲の空間が歪んだ。
リアの身体が宙に浮かび、周囲の光が血管のように流れ始める。
脳内に、古い声が混じった。
『整えすぎるな。壊しすぎるな。生きろ。』
カイルの声。
記録ではなく、記憶の残響。
遺伝子の奥に刻まれた、“人間としての意思”。
「……お祖父様。あなたは、まだ私の中にいるんですね」
『リア。お前は“整える者”じゃない。
お前は、“創る者”だ。』
◇
リアの周囲に、複雑な魔導陣が広がった。
光が絡まり、数千の設計式が現実に展開される。
空間が裂け、ハートネットの内部コードが露わになる。
「アーク・カイル。あなたの理想郷は、美しい牢獄です。
私は――この檻を、壊す」
『不可能だ。お前に“壊す力”はない。
お前は設計者であって、破壊者ではない。』
「なら、設計し直す」
リアは両手を掲げた。
光が手のひらに集まり、形を変える。
それは――槌。
秩序を砕くための、設計者の槌。
『再構築因子、暴走を確認! 停止コード発動!』
だが、止まらなかった。
彼女の心臓が、塔と同じリズムで脈を打っている。
感情が、設計の理論を超えて燃え上がる。
「これは“破壊”じゃない。
“創造”です――!」
槌が振り下ろされ、光の空間が砕けた。
音もなく、世界が反転する。
◇
気づくと、リアは地面に膝をついていた。
そこは、再構築前の街――瓦礫と灰の世界だった。
「……まさか、外に出られた?」
空を見上げる。
空には、四つの光輪が並んでいる。
その中央に、黒い裂け目。
アーク・カイルの声が、風に混じって響いた。
『リア。
お前が壊したのは、牢獄だけではない。
“世界の外”そのものだ。』
「外……?」
『再構築理論の外側――
“第五の領域”が、開いた。』
光輪が震え、世界が軋む。
大地から黒い蔦のような光が伸びていく。
それは、かつて存在しなかった“新しい法則”。
「……創造の、その先?」
◇
リアは立ち上がった。
風が吹く。
空の裂け目から、かすかに声がした。
『まだ終わらないよ、リア。
“間違える自由”は、次の世界でも続くから。』
それは、確かにカイルの声だった。
彼女は涙を拭き、微笑んだ。
「――分かりました。
今度こそ、“人間の世界”を創ります」
彼女の背後で、瓦礫の中から光が芽吹く。
街が、再び形を変え始めていた。
◇
次回 第3部・第3話「第五領域、神なき創造」
――リアが壊した“ハートネット”の外側には、
まだ誰も踏み入れたことのない“未設計の世界”が広がっていた。
そこで待つのは、感情すら持たぬ“空白の人間”たち――。