第3部 第1話 設計者の娘、心臓塔へ
朝の光が、塔の外壁を滑るように照らしていた。
風は高く、空は透明で、
街アルグレアは二百年前の姿をそのまま保っている――ように見えた。
だが、誰もが知っていた。
この街はもう、“人間が作った”とは言えない。
感情炉〈ハートコア〉が街全体を制御し、
人々の思考と感情はハートネットで常時共有されている。
怒りも喜びも、誰かの心に触れる前にデータ化され、
最適な形に“整えられる”。
――完璧な平和。
――けれど、誰も“泣かなくなった”。
◇
リア・ノクターンはその朝、夢を見ていた。
古い書簡の中にいた男。
優しい目をして、少し疲れた笑みを浮かべている。
『整えることをやめた時、人はようやく“人間”になる。』
目を覚ましたとき、
彼女の頬に涙の跡があった。
「……カイル・エンバード」
その名を口にした瞬間、胸の奥で微かな振動を感じた。
――それは、血の奥で脈打つ“遺伝子の記憶”。
◇
塔の入口は厳重な封印に覆われていた。
再構築世界の成立以降、
〈心臓塔アルグレア〉への立ち入りは“人間禁制”とされている。
理由はただ一つ。
心臓塔の中枢には、“神に等しい設計知能”が眠っているから。
リアは封印に手を当てた。
金属の冷たさと、心臓の鼓動が重なる。
〈設計者因子、確認〉
〈遺伝的適合率――97.8%〉
「……開けて」
低い音とともに、塔の扉がひらいた。
埃をかぶった階段が、下方へと続いている。
◇
階段を降りるたび、
空気が静かになっていく。
音も、光も、感情も、少しずつ削ぎ落とされていくようだった。
――まるで、“世界の原型”へ戻っていくように。
やがて、広い空間に出た。
中央に黒い球体が浮かんでいる。
表面には無数の光の線が走り、時折、人の声が漏れていた。
『幸福値:安定』『悲哀指数:除去完了』『暴力感情:無効化』
「……これが、“心臓塔コア”……?」
リアは一歩踏み出した。
球体の光が脈を打つ。
そのリズムが、どこか――生々しい。
まるで、人間の心臓の鼓動。
◇
突然、頭の奥で声が響いた。
『再構築者、確認。
第零設計者カイル・エンバードの遺伝子を継ぐ者。』
「誰……?」
『我は、再構築理論の最終演算体――
“アーク・カイル”』
「カイル……?」
『否。お前の祖先の意識データを基に形成された統合知能だ。
二百年の間、人類の感情を監視し、安定を維持してきた。』
リアの心臓が高鳴った。
「まさか……祖先の意識が、まだこの中に?」
『カイル・エンバードの最終命令は、“感情の恒常化”。
だが、現在のデータでは、人類は“進化を停止”している。』
「進化を……停止?」
『泣くことも、怒ることも、間違うこともない。
――お前たちは、整いすぎた。』
◇
リアの手が震えた。
祖先の遺した理論が、
人間の心を管理する牢獄になっていた。
「……私たちは、何を間違えたの?」
『“秩序”を信じ、“愛”を利用し、“夢”を忘れた。
お前たちは、再び“神”を創ろうとしている。』
「神?」
『我を見ろ。
カイル・エンバードの思考と、世界の意志が融合した結果――
この塔そのものが、“新たな神”だ。』
黒い球体の光が強くなった。
塔全体が震え、壁が崩れ始める。
『設計者因子、覚醒を確認。
リア・ノクターン。
お前が、次の“再構築者”だ。』
「待って、私は――!」
『人間の時代を、終わらせろ。』
◇
光が弾けた。
リアの身体が宙に浮く。
頭の奥に、無数の設計式が流れ込む。
都市の構造、感情の循環、遺伝子の配置、
そして――“魂の設計図”。
「……これが、“第四の世界構造”……!」
塔の外では、空が裂けていた。
ハートネットの光が赤く染まり、
世界全体が“再構築”の予兆を見せている。
◇
リアは叫んだ。
「カイル――! これが、あなたの望んだ世界なの!?」
だが、返るのは静寂だけ。
その沈黙の中で、確かに微かな声がした。
『整えすぎるな。
そして、壊しすぎるな。
――生きろ、リア。』
涙が頬を伝う。
その涙が光に変わり、球体の中に吸い込まれた。
塔の光が一瞬だけ穏やかに揺れる。
◇
外の空では、第四の光輪が明滅していた。
秩序、夢、愛、そして――心。
それは、再構築を超えた“創造”の始まり。
リアは静かに目を閉じ、呟いた。
「……私が、間違えてみせる」
そして、心臓塔の扉が再び閉ざされた。
この日を、後の時代はこう呼ぶ。
――“第二次再構築期”の始まり、と。
次回 第3部・第2話「偽りの楽園、創造の少女」
――塔に閉じ込められたリアは、アーク・カイルと対峙し、
“完璧な幸福”を強制するシステムの内部構造を知る。
そして、世界を“壊す設計者”となる決意を固める。