第2部 第6話 感情の街、夢を紡ぐ工房
アルグレア再構築から三ヶ月。
かつての“欲望の都”は、いまや“感情の街”と呼ばれていた。
街路には歌声が満ち、路地には絵描きが集まり、
香辛料と詩が同じ値段で取引されていた。
――秩序が消え、自由が整えられ、ようやく人々は“作る”ことを覚えたのだ。
「思ったより、綺麗に散らかってますね」
カイルは微笑みながら工房通りを歩く。
通りの両側には、木工、ガラス、言葉、音楽――
“形にならない作品”を売る小店が軒を連ねていた。
「で、どこが目的の場所だ?」
エリオスが後ろから問う。
「“夢を紡ぐ工房”――新しい職能です。
感情を素材として扱う、次世代の職人たちですよ」
「感情を……素材に?」
「ええ。悲しみを糸に、喜びを染料にする。
彼らは、人の心から“夢”を織るんです」
◇
工房〈ノクターン〉。
扉を開けた瞬間、柔らかな音が響いた。
それは風鈴とも、心臓の鼓動ともつかない音。
奥では、一人の女性が糸車を回していた。
白い布に、淡い光が流れ込んでいく。
それは“夢の断片”――人々の眠りから採取された感情エネルギーだ。
「ようこそ。設計者様ですね」
彼女は振り返った。
瞳は琥珀、声は春の雨のように柔らかい。
名を――メリア。
「あなたの理論に惹かれました。
“余白の秩序”……私たち夢職人は、それを“感情の秩序”と呼んでいます」
カイルは軽く笑って頷いた。
「あなたたちは、感情を壊さずに扱える。
秩序官の時には考えられなかったことです」
「壊さないためには、まず“触れない”ことです。
夢を織るには、少しだけ距離が必要なんです」
その言葉が、なぜか胸に残った。
◇
メリアの案内で、工房の奥へ。
壁一面に吊るされた布には、無数の光の糸が走っていた。
それぞれが“誰かの夢”。
笑い声の残り香。
涙の色。
未練の形。
「……全部、記憶ですか?」
「はい。けれど、それを作品にすることで、人は“忘れる勇気”を持てるんです」
「忘れる勇気……」
「忘れるって、逃げることじゃありません。
心に残しておくと、動けなくなる。
だから、夢にして手放すんです」
その言葉に、カイルの胸の奥が揺れた。
思い出す――リサの最後の笑顔。
“あなた自身も、整えてくださいね。”
彼女の声が蘇る。
「……俺も、そろそろ片づけ時かもしれませんね」
「心を、ですか?」
「ええ。壊した神々と、壊れた世界の記録。
整理整頓のまま、置きっぱなしでして」
メリアはそっと微笑んだ。
「では、お手伝いしましょう。
あなたの心を、ひとつの夢に織って差し上げます」
◇
夜。
工房の灯が揺れる。
メリアの指先が糸車を回すたび、カイルの胸の奥から光が生まれた。
幼少の記憶。
追放の日の怒り。
初めて“整える”力を持った日の誇り。
そして、あの日――神を壊した寂しさ。
「……それが、あなたの夢の糸です」
メリアが糸を束ね、布に織り込む。
布の上で、光がひとつの形を描いた。
――歪な円。
半分だけ満たされた輪。
秩序神が去った夜、空に残った“半円の月”。
「これが、あなたの夢」
「……綺麗だな」
「未完成です。
完成させるのは、あなた自身ですよ」
メリアの指が、彼の手に触れた。
温かかった。
その瞬間、カイルの中の“整理整頓”が、ほんの少しだけ乱れた。
◇
翌朝。
街では新しい流行が始まっていた。
“夢布”――人々の夢を織り込んだ布を身にまとう文化。
それは単なる装飾ではない。
感情を共有し、他者を理解するための装い。
だが、同時に“副作用”も始まっていた。
他人の夢を身につけた者が、他人の感情に“染まる”現象。
それは、街全体を静かに侵食していった。
◇
庁舎の屋上で、エリオスが報告を読む。
「“夢を見すぎて、現実に戻れない”奴が増えてる」
「予想より早いですね……」
「また神の二番煎じか?」
「いいえ。今度の神は、人の“優しさ”そのものです。
――夢を通じて共感しすぎて、個が溶けていく」
カイルは胸ポケットから、リサの欠片を取り出した。
光は静かに明滅していた。
「リサ、今度は“夢”が人を縛り始めました。
……それでも、俺は整えます」
◇
夜、工房ノクターン。
メリアは織機の前で立ち尽くしていた。
布が――泣いていた。
織り込んだ夢の糸が震え、嗚咽のような音を立てている。
「……あなた、まだ眠っていないのね」
メリアは目を閉じた。
布の奥から聞こえる声は、誰かの祈りのようでもあり、悲鳴のようでもあった。
その中心に、微かに光る“影”があった。
それはリサに似ていた。
◇
次回 第2部・第7話「夢を喰らう街」
――“夢布”の流行が、街の人々を繋ぐと同時に溶かしていく。
カイルは“心の共有”の危うさに気づき、メリアと共に“夢の底”へ潜る。