第2部 第3話 概念の海、そして再構築
――音が、消えた。
目を開けた瞬間、そこには“世界”がなかった。
空も、地も、時間も。
ただ、無数の色が溶け合う海が広がっている。
それは液体のようでもあり、光そのものでもあった。
カイルは、浮いていた。
自分の体があるのかすら分からない。
だが、意識だけが“在る”。
「……ここが、“自由律”の中か」
声を出しても、空気が震えない。
代わりに、波紋のような光が周囲に広がる。
感情がそのまま“現実を変える”空間。
ここでは理屈も物理も意味を持たない。
――概念の海。
人々の心が作り出した“自由”の極地。
〈ようこそ、アーキテクト〉
声が響いた。
音ではなく、思考そのものが形を持って届く。
〈あなたは秩序を壊し、自由を作った。
ならば、この“すべての自由”を整えなさい〉
「……その言い方、まるで試験官ですね」
〈ここは試験だ。人の心が、どれほど自分を保てるか〉
カイルは笑った。
「なるほど。“心の片づけ”ってことか」
◇
足場もない空間を進むと、光の塊が浮かんでいた。
それぞれの中には、人の記憶がある。
誰かの笑顔。
誰かの怒り。
誰かの諦め。
そのすべてが、秩序なき形で漂っていた。
――これが、「自由すぎる心」か。
カイルは手を伸ばした。
一つの光が反応し、彼の掌に触れる。
すると、映像が流れ込む。
戦争で倒れた兵士。
後悔する母。
泣き続ける子ども。
〈悲しみは不要。削除しますか?〉
海の声が問う。
〈痛みを消せば、心は軽くなる〉
カイルは、静かに首を振った。
「悲しみを消したら、“優しさ”の形がなくなる。
だから、残します」
〈理解不能。非効率〉
「それでいい」
光の塊が淡く輝き、彼の後ろに浮かび上がった。
それは“残された感情”の記録。
――心を構成する、欠けてはいけない一片。
◇
さらに進むと、光の海がゆらぎ、人影が現れた。
リサだった。
だが、彼女の輪郭は崩れかけていた。
髪も瞳も、色を失い、半透明になっている。
「……あなたも、来たんですね」
「あなたを迎えに来ました」
「もう、遅いですよ。この世界は“選ばない自由”を完成させる」
リサの周囲で光が渦を巻く。
その中に、無数の人の心が閉じ込められている。
誰もが穏やかに眠り、夢を見ている。
痛みも争いもない。
けれど、そこには生の動きがなかった。
「……これが、あなたの理想?」
「そう。もう誰も苦しまない世界」
「でも、笑う人も泣く人もいない」
「だから、静かで美しい」
「静かは、死と同じですよ」
カイルはそっとリサに手を伸ばす。
「あなたは、“選ばれなかった神”。
でも、神じゃなくていい。人に戻ってもいい」
リサはゆっくり首を振る。
「戻る場所なんて――」
「ありますよ」
カイルは微笑んだ。
「誰かが、あなたを思い出す限り。
“記憶”は散らかっても、消えませんから」
その言葉に、リサの瞳がかすかに震えた。
光の海がざわめく。
〈異常値検出〉
〈個体“リサ”に揺らぎ発生〉
「……やめてください。これ以上、私を――」
「整えるんじゃない。あなたを、そのままにしておくんです」
カイルの周囲に光の粒が集まる。
秩序でも、自由でもない。
――“選択を保留する空間”。
それは、彼だけが持つ“余白の力”。
◇
海が波打つ。
リサの身体から光が抜け、断片が砕ける。
塔の暴走を起こした“自由律のコア”が露出した。
それは、純粋な願いの形――
**「誰も傷つけたくない」**というたった一つの思い。
カイルはその核を両手で包み込む。
冷たくも温かい、矛盾の塊。
「あなたの自由は、やさしすぎた。
だから、壊すんじゃなく――折りたたんで持って帰ります」
〈折りたたむ……?〉
「全部は無理でも、“必要な部分”だけ整理できるんですよ」
光が静まり、世界が再構築される。
秩序と自由の間に、わずかな“余白”が生まれる。
そこに、リサの意識がそっと落ちていった。
「……ありがとう、カイルさん」
「いえ、これは片づけの途中です」
「次は、あなた自身を……整えてくださいね」
リサの身体が光に変わり、消えていった。
残ったのは、淡い欠片ひとつ。
彼女の祈りの名残だった。
◇
次の瞬間、光の海が崩壊を始める。
全方位から、概念そのものが砕けていく。
〈環境維持不能〉
〈強制帰還プロトコル発動〉
「戻る時間ですね」
カイルはポケットに欠片をしまい、微笑んだ。
「……片づけ、ひとまず終了」
光が走り、世界が反転する。
◇
――目を開けると、そこは王都の塔の上だった。
崩れかけた天井から朝の光が差し込む。
エリオスが駆け寄る。
「生きてたか!」
「はい。まぁ、少し夢を見てました」
「夢?」
「自由の夢、です。甘くて危険で……でも、綺麗でしたよ」
カイルはポケットの中の欠片を見つめた。
それは静かに輝き、まるで“心臓の鼓動”のように脈打っている。
「この世界はまだ、整っても壊れてもいない。
だから――まだ、片づけの途中です」
◇
次回 第2部・第4話「再構築都市、目覚め」
――カイルが持ち帰った“自由律の欠片”が、王都の人々の心に影響を及ぼす。