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作者: 久里大和

 私はその日、私が生まれてからは病と痴呆でいつも白く濁りきりだった祖父の両眼が、マイアミ・サウスビーチのように碧く透きとおり、燦然と輝くのをはじめてみた。

 その日はたしか、ひどい雨風で、一歩も外に出られなかった。当時はスマートフォンどころかインターネットもなかったから、むべなるかな、九つになったばかりの遊び盛りの私は灰色の空を恨みがましく睨みつけながら、ふてくされていた。そして、早々に睨みつけることすら飽きた私は、家じゅうのものをひっくり返し、カンカンに怒った母親は、祖父に私の面倒を見るように言いつけ掃除を再開した。今思えば母親に、そして彼女を怒らせた幼い自身に、拍手を贈りたい。そのときの祖父の話ほど、私の印象に残ったものはないから。


 祖父は他の大勢の大人がそうするように、私の暇潰しのために安っぽい、手垢がついた冒険譚なぞ使いはしなかった。むしろまだティーンエイジャーにもならない子供には難しすぎる話をした。にもかかわらず彼の話は当時の私の心を鷲づかみにし、今ではこうしてすっかり胸の内に錨を下ろしているわけだから、年齢によって相手を見くびらないというのは、世間が思っているよりよっぽど大切なことなのかもしれない。


 祖父はそこが彼の定位置である安楽椅子に座り、いい加減狭いというのに膝の間に私を押し込み、そしてゆっくりと口を開いた。

「──あれは、そうだな、日本やドイツとの戦争が終わって幾分か経ったころだが、わしは少し嫌なことがあって、酒場でひとり吞んでいた。しばらくちびちびやっていたら、誰かが隣の席に座った。酒場はお世辞にも混んでいるとは言い難かったから、わざとだとすぐわかったよ。それで、黄色い顔の男、つまり隣の席の誰かさんは、こちらを向いてわしと目を合わせた。そのときだ、別に奴さんは親しみ深く笑ったわけでもないのに、どういうわけか、わしはその表情になにかを感じ、同時にあらがいがたく惹きつけられた。それまでのちっぽけな憂鬱はなりを潜めてしまった。彼は安酒をひと瓶頼むと、下手くそな英語でわしに話しかけてきた。


『ひとりかい』

『みてのとおりさ』

『浮かない顔をしているけど』

『ああ、ちょっとね。でもなぜかいま収まったよ』

『そいつはよかった。たぶんあれだな、俺がとっておきの物語を抱えているのを本能的に感じ取ったんだろうな』

『吟遊詩人の押売りかい。ずいぶんな自信だな。そこまで言うなら、ちょっと聞いてみようじゃないか。もしおもしろかったら、その酒代はこっち持ちだ』

『よし、交渉成立だな。じゃあ一席、付き合ってくれ』


 わしらはグラスをぶつけ、一杯あおった。


『あるところに農家があった。それもただの農家じゃない、ばかでかい土地と何人もの小作人を抱える、俗に言う豪農だ。そして今から三十年ほど前、そこに兄弟が生まれた。実際はもっといたんだが、話の肝となるのは上の二人だけだ。こいつらをそれぞれタロウ、ジロウと呼ぶことにする。え?ああ、故郷(くに)じゃよくある名前なんだよ。


 そう、それで、兄のタロウはいろんなことに首を突っ込む性格だった。学校の友達なんかが目新しいことを始めると、すぐに俺もやりたい、やらせてくれとせがむんだ。周りも最初はそう長くは続かないだろうとたかをくくっているんだが、一度始めたことはある程度まで、必ず根気強く取り組むんだから、なかなか殊勝なもんだよな。友達の方が先に飽きるなんてことも、少なくなかった。


 対してジロウは、引っ込み思案な性格だった。というより、たぶん興味がなかったんだろうな。誰が何をやっていても。でも本だけはよく読んでいて、本で読んだことにはまれに、そして気まぐれに興味を示した。……うん、ジロウに関してはこんなもんかな。


 兄弟は対照的ながらもほどほどに仲良く、無事に育ち、いよいよもうすぐ一人前というところまできた。そんな折、事件というほどのものでもないけれど、家族の中で軽い議論が生じた。


 そろそろタロウが後を継ぐべきじゃないのか。


 いや、まだだ。タロウには大学を卒業させてから家業を継がせる。それに、大学に入れば数年は徴兵を免れることができる。


 ここまでは問題なかった。


 ジロウはどうする。


 ジロウは別に行かなくたっていいだろう。


 しかし、学業の成績はタロウよりもいいぞ。


 後継ぎでもないのに大学に行かせるのか。そりゃできないこともないが、うちもそう余裕があるわけではない。しかも、タロウは大学で学びたがっているが、ジロウはその気が露ほどもないようだ。希望すらしていないのに、わざわざ学費を納めてやらなくてもいいだろう。


 そうか、それもそうだな。


 かくして本人たち抜きで行われた保護者たちの話し合いは、しかし、本人たちの耳にも届いていた。なんのことはない、盗み聞きである。

 タロウはこれを聴いて、渋い顔をした。ジロウは特に顔色を変えなかった。というより、普段から表情が乏しいのだった。兄弟は襖が音をたてないようにそっと盗聴を切り上げて、別室に腰を落ち着け、話し合った。



『聞いたかジロウ、おまえ、大学行かせてもらえなさそうだぞ』

『そりゃ聞いてるよ、兄さん。でも別に構わないけどな。父さんがおっしゃった通り、家督を継ぐわけじゃないし』

『でも、おまえ、俺より勉強ができるじゃないか。おまえのほうが能力が高いのに、それを活かせないなんて、道理に合わない。それに、徴兵のことも気に入らない。あれじゃあ、まるで、俺は死んじゃいけないがおまえなら、その、どっちでもいいみたいな言い草だ。どうかしてるよ』

『でもさ、兄さん。もし僕が父さんたちに直談判してさ、仮に召集令状じゃなくて合格通知を受け取ったとして、次に徴兵のお鉢が回ってくるのは弟たちだよ。……ああ、いや、これは言い訳だな。というより()()()か。僕はね、兄さん。大学に行こうが軍に行こうが、心底どっちでもいいんだ。どちらかの面倒ごとを終わらせて、いい具合の働き口を見つけて、いい具合の相手と結婚して、その余暇で本が読めれば』

『……そうか。それならせめて、俺はいいところに入学できるよう、頑張るよ』


 タロウは感激していた。ジロウはそんな兄に戸惑っていた。彼にしてみれば、本心を正直に語っただけの説得力もなにもない言葉に、どういうわけか兄が心動かされたように見えたのだから。


 その日からタロウはそれまで手をつけていた一切の趣味を放棄し、机にかじりついた。ジロウはそんな兄にいくらか面喰いつつも、尊敬する兄を応援した。そしてそれらの甲斐あってか、タロウは地元でかなり上等な部類に入る大学に合格した。彼が一番最初に合格を報告したのは、もちろんジロウである。普段は感情表現にいまひとつ欠けたところのあるジロウも、このときばかりは素直に喜び、祝福した。そんな兄弟を、家族もほほえましく思った。


 このときが、彼ら兄弟の関係における絶頂期だった。


 タロウは数日後、下宿舎に向かうため家を出た。地元とはいっても、家から通うには大学は遠すぎた。タロウはジロウに別れを告げた。


 じゃあな。元気でな。


 うん、兄さんこそ。体に気をつけて。


 兄弟が次に会うのは、国が在学徴集延期臨時特例を発表した際、タロウが家に挨拶をしに来たときだった。いわゆる学徒出陣のことだ。


『兄さん、新聞で読んだけどあれってどういうこと』

『どういうこともなにも、言葉通りだ。国が危機に迫っている時分に、悠長に学問をやっていられないってことだ』

『そんなこと言ったって、あんなに苦労して入学したんじゃないか。それを徴集って……あんまりだ』

『散るか帰るかわからんが、従軍しているあいだは休学扱いにしてくれるらしいから、もし帰ってきたとしても大丈夫さ』

『散るっだって。冗談じゃない。そうだ兄さんは、この家の後継ぎじゃないか。死んじまったらどうしようもない。どうにかならないのか』

『どうにかって、同世代の中にはもう立派に歩兵をやっている奴があるのに俺だけ逃げるなんてできないだろう。もしものときは、ジロウ、頼む。おまえはまだ若い。兵にとられる年齢になるまでに、戦争が終わるかもしれない。いや、俺がきっと終わらせてみせる』

『ちょっと兄さん、頭を冷やしなよ。兄さん一人の活躍じゃ戦況をひっくり返せない。僕に跡が継げるわけないじゃないか』

『なんだと、おまえいま、国がどんな時局に立っているかわからないのか。いや、賢いおまえならわかるだろう。ただでさえばかでかいアメリカに戦争を仕掛けているんだ、そのうえ弱気になんてなったら勝てる戦も勝てないぞ』

『僕はただ事実を言っているだけだよ。兵士一人でなにかが変わることなんてない。後継ぎに関して言えば、僕は経営手腕があるわけじゃないし、人づきあいがうまいとは口が裂けても言えないし、それに大学も行かない。兄さん、兄さんが家を継がなくちゃだめだ』

『そうも言っていられないだろうこのご時世じゃ。それにおまえなら俺のところか、それよりももっと上の大学にも入れるだろう』

『入学して一年も経たないうちに軍に引っこ抜かれちゃ世話ないけどね』

『おい、どういう意味だそれは。俺が……俺たちがおまえらのために、国のために剣を執ろうっていうのを、おまえは侮辱するっていうのか』

『侮辱しているつもりはない。ただ兄さんが後を継がなくちゃだめだってことだ。それに、ますますどうなっていくかわからないときに、父さんが大学に行かせてくれるとは思えない』

『事情を説明すればなんとかなるだろう』

『兄さんが死ぬかもしれないからその予備としてに大学に行かせてくれってか。……あんまりふざけるなよ!』

『な、なんだその口の利き方は!』

『僕に兄さんの代わりは務まらない! 僕には兄さんほどの熱量も才能も好奇心も、何もかも()()んだ! 勉強にしたって、むかしからわずかばかり人より力があったというだけで、別に好きでも何でもない。ただそれよりほかに人から認められそうになかったからいきおいやってきたというだけだ。それを、兄さんは、僕をさも勉強家みたいに! そりゃ、いい気分になって大学を考えてみたこともあったさ。でも、所詮妄想なんだよ。しかも、その妄想がきれるときには、決まって鬱屈とした、最悪の気分になるんだ。おまえはからっぽなのに、どうしてそこまで調子に乗れる? 仮に大学に進んだとして、生粋の研究者たちの間でおまえに何ができる? ひとに認められないからって、自信過剰になって自分で自分を認めたところで、おまえに残るものはあるのか? あるとしたら、それは人の尊厳を失った畜生の姿ぐらいなものだろうな。

なあ、兄さん、頼むからやめてくれよ、僕はほんとにからっぽなんだ。洞穴に実際にはありもしない金塊を投げ入れて、それを金脈だとなんだと祭り上げるなよ。いいかい、兄さんが僕に対してやっている、いや、これまでやってきたことはぺてんも同然なんだ!だから僕はふざけるなと言った! 』


 その日、タロウは父親と二人きりで酒を呑んだ。しばらく言い争う声が聞こえたが、十分ほどでどちらからということもなく途絶えた。翌朝、ジロウは父親に、大学に行きたいのか、と問いかけた。ジロウはいつになく虚ろな表情で、いいえ、行きたくありませんと答えた。父親はそうかと返し、タロウを見送るからおまえも来なさいと言った。


 ジロウは行かなかった。


 ──それで、結局前日の晩の大げんかが今生の別れになったわけさ。タロウは帰らなかったし、ジロウは大学には行かずに、けれど家を継がないわけにはいかなかったから、そこそこの中学、いや高等学校になったんだっけか、を卒業して家の長となった。どうだ、俺がとっておきというのもうなずける悲劇だろう』


 わしはしばらく声が出なかった。咽喉を潤そうとして、グラスが空になっていることに気がつき、慌てて注いで一気に呑み干し、息を一つついて、それからやっと声を発した。

『おまえ、それは本当に物語なんだろうな?』

『……』

『おい』

『……さすが旦那、実はこの話には続きがある。さあ武勲をたてるぞと息巻いて戦場に躍り出たタロウは、みごとに敵兵につかまって、捕虜となった。あっけないものだった。自決しようとしても弟の顔がちらついて死ぬに死にきれず、結局収容所行の船に乗せられた。しかし、なんとびっくり、ちょうど戦争が終わった! そのどさくさに紛れて逃げ出したのさ、タロウは。ここでほんとのほんとに話はおしまいだ』

『その、タロウとかって奴の行方は、場末の酒場で酒をひっかけてるってオチじゃないだろうな』

『さあな、話はおしまいだ。さて、忘れたわけじゃないだろうな、おもしろかったか、おもしろくなかったか? 約束は守るもんだぞ』

『わかった、分かったからそんなに慌てるなよ。払うよ。でも、そのまえにひとついいか』

『毎度あり。で、なんだよ、ひとつって』

『わしの兄貴はどうしようもないバカでな、むかしほいほい軍人になって死んだよ。しっかり国から死亡届も来たから、ありえないことだが、兄貴がもし生きているのなら乞食になっていたって、わしは会いたいと思ってるよ』

 わしがそう言うと、奢りで上機嫌になっていた奴さんは押し黙った。そして切れ長の目を一層細くして、なにごとかつぶやくと、わしに別れを告げて席をたった。


 さあ、掃除は終わったかな」


 気がついたら、ばらばらという雨音は止んでいた。と、記憶しているが、その後天気がどう転んだかは、不思議なほどに覚えていない。


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