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3.代償

 のっぺりとしたピンク色の皮膚を持つ、巨大な化け物。はじめに連想したのは、蛆虫だった。目のない顔に、糸を引く粘液に満ちた大きな口がぽっかりと浮かんでいる。

 人間の手を模したような耳は、シルエットだけ見れば先ほど六道が取り出したウーパールーパーの石像に似ているかもしれない。

 

「……っ!」

 

 悲鳴を上げそうになった途端、唐突に背後から口元を手で覆われた。暴れようにも、羽交い締めにされているせいで、ろくに手足を動かすこともできない。

 しい、と息の音だけで紡がれる言葉が耳元で聞こえた。

 仰ぎ見ると、面倒臭そうな顔をした六道と目が合った。虫でも見るような冷たい目をして、六道は責めるように狭霧を睨んでいた。

 その目を見た途端に、ふっと狭霧は正気に返る。

 そうだ。何があっても声を出してはいけないと言われていた。あの得体の知れない化け物は、目がないからこちらを見ないだけだ。下手に音を立てて注意を引けば、どんな目に遭うか分かったものではない。

 息をすることさえ憚られる緊張感の中、巨大な化け物は、兄とアヤの体を一口で飲み込んだ。味わうように咀嚼して、ごくりと満足そうに飲み下す。

 顔を見ることさえできないまま、ふたりは暗い口の中へと消えていく。

 獲物を探すように墓穴を嗅いだ化け物は、ほかに死体がないことを確かめると、またあのズズ、という気味の悪い轟音を立てながら、土の中へと潜っていった。

 やがて、化け物などどこにもいなかったかのように、平和な森の賑やかさが戻ってくる。


「振り返っちゃダメだよって、だから言ったのに」

 

 嘲るような声が聞こえた。六道の手が離れると同時に、狭霧は尻もちをついて座り込む。膝が笑って、立つこともできなくなっていた。

 

「あ、……あれは……なんですか」

「神様。人のエゴと業を好んで食らう、悪食の神様さ」

「エゴ……?」

「狭霧さんはお兄さんの名誉を守りたかった。お兄さんとアヤさんは、君を守りたかったのかもしれないし、手に入れたかったのかもしれないね。みんながみんな、他人のことなんて何にも気にしちゃいない。……まあ、もう隠されてしまったから関係ないか」

「どういう、意味ですか」


 死体は消えた。この男にもあの化け物にも、これ以上深入りするべきではない。分かっているのに、聞かずにはいられなかった。自分が何か、取り返しのつかないことをしてしまったような気がしたからだ。

 六道を見上げる。月を背に立つ六道は、震える狭霧を見て、憐れむように目を細めた。


「アヤさんの背中には刺青があったよ。びっしり大きな刺青なんて、普通の高校生が彫るものなのかな」


 それはどういう意味なのだ。

 兄はアヤに嫉妬して別れろと言っていたのではないのか。本当に狭霧のためを思って忠告していただけだったのか。

 信じてくれるなら何があっても助けると、どんな気持ちでアヤは狭霧にその言葉をくれていたのか。


「ああでも、お兄さんもお兄さんだ。忘れてくれって、白々しいよね。目の前で死なれて、忘れられるわけがない。君はお兄さんのことを、きっと生涯引きずるだろう。自分の気持ちひとつ受け止めてもらうこともできない関係なら、その方がずっといいのかもしれないね」

 

 六道の言葉には、煮詰めた毒のような悪意があった。

 本当にすべてが事故だったのか。衝動の上での結果だったのか。

 思えばこの怪しいグリムカバーという会社の話を聞いたのだって、両親が心中したとき、隠してくれる業者がいればよかったのにと兄と兄の友人と一緒に話をしていた流れでのことではなかったか。

 兄の真意もアヤの素性も、今となってはもう何も分からない。知っているのは死んでしまった当人たちだけだ。六道の言葉の真偽を確かめようにも、死体はすでに消えてしまった。隠されてしまったのだ。優しい顔をした大切なふたりには、もう二度と会うことはない。

 そこまで考えたところで、愕然とした。


「あ、ああぁ……!」


 思い出せない。

 つい数分前まで見ていたはずのふたりの顔が、どう頑張っても思い出せないのだ。交わした言葉や行った場所は覚えているのに、記憶の中のふたりの姿だけが、ひどく曖昧になっていた。

 慌てて自分のスマホを取り出し、写真を探る。けれど、兄と撮った写真もアヤと撮った写真も、自分の顔ははっきりと見えるのに、ふたりの顔がぼやけて見えない。どの写真を見ても、変わらなかった。

 

「な、なに。なんで? 兄さんの顔もアヤの顔も、どうして思い出せないんだよ……!」

「隠しちゃったからだよ」


 何でもないことのように六道は言う。

 

「だから聞いたじゃないか。『本当にいいんだね?』って。見て見ぬふりには、それ相応の報いがあるに決まってる」

 

 嘲りと憐れみの混じった声で呟いたきり、六道は何も言わなくなった。

 帰り道のことは、ろくに覚えていない。

 兄のこと。アヤのこと。神様と呼ばれたおぞましい化け物のこと。これからのこと。

 色んなことが一度に起こりすぎて、何から考えればいいのかも分からなかった。

 気づけば車は家に着いていて、不気味なくらい元通りになった家の中で、狭霧は六道と向き合っていた。


「君、これからどうするの?」

「どうするって……?」

 

 何も考えられなくて、おうむ返しに言葉を返す。

 六道は偽物臭い笑みの中に、ほんのわずかな憐れみを覗かせた。

 

「高校二年だっけ。進学するの? それとも就職? 何も証拠は残ってないはずだけど、他人の目って怖いものだよ。ここは引き払った方がいいかもね。ああでもお金、もう残ってないか」

 

 どうでもいい。


「君も死ぬつもり?」

 

 それもいいかもしれない。

 答えないまま俯いていると、六道は呆れたようにため息を吐いて、ポケットから何かを取り出した。

 

「命は大切にしなよ。自分にできる償いはするって言ってたじゃない。都合の悪いことを見ないフリで隠したのは君だ。それならせめて、最後まで自分勝手に生きないと、隠されちゃった人たちが可哀想だろ」

 

 狭霧の手を強引に取って、六道は何かを握らせた。何のつもりかと手を開いて、直後に狭霧は息を呑む。

 小ぶりなピアスと、トンボ玉。兄とアヤが、いつも身に着けていたものだ。


「……どうして? 何も残らないって……」

 

 声が無様に掠れた。

 肩をすくめた六道は、ごくごく軽い調子で呟く。

 

「これくらいのお目溢しはしてくださるだろう、多分」

 

 呆然としながら、手のひらに置かれたふたりの形見に目を落とす。

 流すまいと思っていたのに、ふたりがいつも着けていたそれらを目にした途端、涙が堪えきれなくなった。


「ぅ……っ、ああぁ……!」

「あらら」


 困り果てた様子の六道は、ぽりぽりと頬をかいて、ポケットティッシュを差し出した。

 裏面には、ポップなフォントで株式会社グリムカバーの広告が印刷されている。ウーパールーパーを模したキャラクターは、まさかとは思うがあの化け物をイメージしてのものなのだろうか。

 

「まあなんだ、そう思い詰めずに頑張りなよ。時間が経っても忘れられないことは忘れられないけど、割り切ることだけは上手になるからさ」

「なんで、……っく、分かるんですか」


 涙混じりに問いかけると、六道は苦いものでも食べたような顔をして、重々しい声で答えた。


「俺にも、君と同じくらいの年の弟がいたからね。だから、少し分かる」

「弟……?」

「ああ。もういないし、顔も思い出せないけどね」

 

 吐き捨てるように六道は言う。その一瞬だけ、六道の瞳には重苦しい痛みが滲んだように見えた。それまでの軽薄な印象とは真逆に、この男もまた根深い後悔を抱えているのだと、すぐに分かった。

 ――同じだ。

 直感的にそう思った。

 目の前の男は、兄の顔もアヤの顔も思い出せない、狭霧と同じなのだ。

 けれど詳しい事情を尋ねるより前に、ちらついたその感情を、六道はパッと自分の中へと隠してしまう。胡散臭い微笑みで覆い隠して、それ以上問いかけることを許してくれない。

 

「お金がいるなら、うちはバイトも募集してるよ。その気があれば連絡しておいで。スタッフになれば、従業員特典で死体処理は無料になるし」

「……嫌な特典ですね」

「良い特典じゃない? 死にたくなったら、働きにおいでよ。神様はどんな人でも、死ねばきれいに隠してくれるから」

 

 一緒に墓穴を掘ろう、と本気か冗談かも分からぬ口調で囁いて、六道はくるりと身を翻す。

 来たときと同じく胡散臭い笑みを張り付けながら、六道は優雅に一礼した。

 

「それでは、このたびは株式会社グリムカバーへのご依頼、誠にありがとうございました」


 またのご利用をお待ちしておりますと嘯いて、六道は扉の向こうへと姿を消した。

 ひとり残された狭霧は、静かな部屋をぐるりと見渡した。

 血の跡なんてどこにもない。死体もなければ、汚れた衣服も凶器も見当たらない。ここだけを見ていると、まるで今夜、何も起きていなかったかのようだ。

 悪い夢であってくれたら、どれだけよかったことか。

 けれど、手のひらに残る兄とアヤの形見は、夢に逃げることさえ許してくれない。ふたりを死に追いやったのは狭霧であり、ふたりの死をなかったことにしたのもまた、狭霧自身だ。

 どうせ真相からも死からも目を逸らしてしまうなら、このどうしようもない気持ちも全部、なかったことにできないだろうか。床の上で蹲りながら、益体もないことを考える。

 あの胡散臭い男のように、軽薄な笑みできれいに心を隠してしまえば、少しは楽になるのだろうか。愛する兄とアヤの顔は輪郭すらも思い出せないのに、今日会っただけの六道の顔ははっきりと覚えているのだから、ふざけた話だ。

 六道の表情を思い出しながら、狭霧はぎこちなく口角を上げて、目を細める。ただの気休めかもしれないけれど、なんでもないフリをすると、少しだけ楽になった気がした。

 ふたりの形見を握り込む。そっと手のひらの中に隠して、誰にも見られないように仕舞い込む。

 痛いくらいに静かな部屋の中、狭霧はひとり蹲り続けた。

 空が白む。無慈悲に朝日が昇っていく。

 今日も明日も、昇り続ける。

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