2.トコヨノカミ
できる限り感情を排して、狭霧は己が知る限りの事情を淡々と語っていく。
「兄は――俺のことを愛していたと言いました。家族でも兄弟でもなく、性的な対象として。だから俺が恋人を作るなんて、許せなかったんだと思います。考えてみれば、今までの彼女は全員兄に取られてきました。俺は馬鹿でしたから、兄がわざとそうしているなんて気づかなくて……誰も彼も、兄に近づくために俺と付き合ったんだろうなって、そんな風に思っていました。俺なんて足元にも及ばないくらい、兄さんは完璧な人だったから」
「お兄さん、イケメンだもんね」
話を聞いているのかいないのかも分からぬ短い相槌が飛んでくる。その適当さが、今だけはありがたかった。
小さく頷き、狭霧は物言わぬ女の死体へ目を向ける。
「でも、この子は――アヤだけは違ったんです」
狭霧を好いてくれた、優しい子だった。狭霧が兄の話をするたびに、少し困った顔をして、『お兄さんと少し距離が近すぎるんじゃない』と笑って嗜めてくれるところが好きだった。狭霧には狭霧にしかない素敵なところがたくさんあると、何度もまっすぐに伝えてくれた。
――私は狭霧くんが好きなの。お兄さんがどれだけすごい人でも関係ない。色んなこと、一緒にしようよ。狭霧くんといたら、何があっても幸せでいられる気がするの。私、狭霧くんのためならなんでもするよ。私のことを信じてくれるなら、何があったって私が助けてあげる。
アヤの声を思い出すと、同時に兄の声も思い出された。
――お前は色んなことが苦手で、他人に迷惑ばかり掛けてしまう困った弟だけれど、俺の大事な弟だ。他人なんて信じるな。お前は馬鹿だから騙そうとするやつはたくさん寄ってくるだろうけど、お前の良さが分からないやつらなんて放っておいたらいい。大丈夫。俺はずっとそばにいるよ。何があっても味方だよ。
どちらも毎日のように聞いていた人たちの声なのに、もう二度と聞けないだなんて、悪い冗談にも程がある。
「……何度兄が近づいても、アヤは兄に靡きませんでした。それどころか、兄を嫌っていたような気すらします。兄はアヤの家庭の状況が気に入らなかったみたいで、何度も遠回しに別れるようにと言われました。それでも俺たちは別れませんでした。多分、それがいけなかったんでしょう」
あのとき兄の言うことを聞いていたら、こんなことにはならなかったのだろうか。
考えても空しくなるだけだと分かっていても、考えずにはいられない。罪悪感に声を詰まらせながらも、狭霧は淡々と語り続けた。
「兄は……強硬手段に出ました。どういう手段を使ったのかまでは分かりませんけど、俺が出掛けている間に、アヤを家に呼び出したんです」
「ははあ。で、襲おうとして殺しちゃった?」
話の先を読んだ六道は、合点が行ったとばかりに指を鳴らす。
「いざ殺そうとすると人間ってなかなか死なないけど、死んでほしくないときに限って死ぬもんねえ。うっかり殺しちゃった罪悪感に堪えられなくて、お兄さんも自殺しちゃった?」
そこまで言ったところで、六道は違和感に気づいたらしい。「あれ?」と言って、苛立ちを煽るわざとらしい仕草で首を傾げた。
「でも、それならどうして君はお兄さんの頭を砕いたんだい」
「止めようとしたからです。……いえ、違いますね。俺がパニックになったときに何をするのかなんて、兄さんにはお見通しだったはずですから、兄がそう望んだんでしょう」
六道が設置した石像のまわりには、おもちゃのような玉串が飾られていた。蒸し暑い風に揺られる紙垂を見るともなしに見ながら、狭霧は問われるがまま、話し続ける。
「俺が駆けつけたときにはもう、アヤは死んでいました。でも死んでいるかそうでないかなんて、見ただけじゃ分からないじゃないですか。アヤの上に乗っている兄を見て、俺は咄嗟に、近くにあった金槌を投げつけました。普段だったらそんなもの、置きっぱなしになんて絶対しません。だからあれは、兄さんが用意したんでしょう」
アヤと兄の間にどんなやり取りがあったのかは分からない。けれど多分、兄もアヤを殺すつもりなんてなかったはずだ。意図せずアヤを殺めてしまった兄は、死ぬしかないと思ったのだろう。だから狭霧に自分を殺させようとしたのではないだろうか。
「避ければいいのに、兄は金槌をわざわざ頭で受けました。なんでそんなことをするのか分からなくて、俺は慌てて兄の近くに行きました。そうしたら兄さん、俺に何て言ったと思います?」
話しているうちに、声に涙が混じっていく。
ほんの数時間前まで、兄はたしかに生きていたのに。
「『やっぱり死ねないか。嫌なことさせてごめんな。全部忘れてくれ』って笑ったんです。なんでこんなことになったんだろうって俺がパニックになってるうちに、兄さんはもう全部、準備を済ませていて……俺の目の前で首を吊りました」
――ごめんな。愛してる。お前のこと、独り占めしたかっただけなんだ。気持ち悪くてごめんな。お前の彼女、殺してごめん。幸せに。
唇の動きも声の調子も引きつった頬の動きも、すべて目の奥に焼き付いている。
カーテンレールの軋む音。ロープが立てるぎちぎちという音。笑って飛んだ、兄が漏らした最後の呻き声。
耳にこびりついて離れない音を忘れたくて、狭霧は早口に話し続けた。
「助けようと思ったのに、どうしたらいいか分からなくてっ、ぁ……アヤの腹に刺さってた包丁を、使わせてもらったんです。でも、ロープを切ったときには、兄の息も心臓も、とっくに止まっていました」
ふうん、と六道が皮肉気に唇の端を上げる。
「で、今に至ると。狭霧さんはさあ、どうして救急車じゃなくて俺を呼んだの。心肺停止してすぐなら、もしかしたら助かるかもしれなかったのに」
「兄が助かったとして、アヤは間違いなく助からないでしょう。そうなれば兄は殺人犯です。弟を愛した挙句にその恋人を殺す、狂人になってしまいます」
「その通りなんじゃないの」
「違います!」
不愉快な言葉を、狭霧は語気を荒げて遮った。
「兄さんは完璧な人でした。誰にでも優しくて何でもできる、俺の憧れの人でした。狂人だなんて、兄はそんな人じゃありません。全部、何かの間違いです。親が死んだときだって、俺は兄さんがいたから生きてこられたんです。俺を想ってくれていたことだって――」
うまい言葉が見つからず、狭霧はもどかしい思いで口ごもる。
そんな狭霧に、六道は感情の読めない薄笑いを向けた。
「お兄さんから告白されたら、君も応えていた? それでめでたしめでたしだって?」
「まさか」
問いかけられた狭霧は、考える間もなく首を横に振る。
「気持ち悪い。兄にそういう目で見られていたなんて、今でも信じられません。それもきっと、何かの間違いです」
「ああ、そう。君はそう思いたいんだね」
六道は呆れたようにそう言って、憐れむように死体を見た。
「狭霧さんは大好きだったお兄さんの名誉を守りたいわけだ。でも、彼女のことはいいの? そこで死んでる君の彼女にだって、家族も友だちもいるだろうに。ある日突然親しい人を奪われて、恨む人さえ見つからない人たちの気持ち、ちゃんと考えた? 死体を消したところで、状況を考えたら、疑われるのはまず間違いなく君だよ」
「それは……っ」
六道の言葉は、痛いくらいに正論だった。
アヤのことを思うと、引き絞られるように胸が痛む。
兄とは距離を置くべきだと、アヤは何度も忠告してくれた。ふたりきりの家族にしたって、兄はあまりに狭霧に対して過保護だった。兄がアヤをよく思っていないことだって気づいていたし、アヤもアヤで、兄に対して敵対心をむき出しにしていると分かっていた。
それなのに、自分は何もしてこなかった。見て見ぬふりをし続けた結果、こんなことになってしまったのだと思うと、悔やんでも悔やみきれない。
「……俺のことはどうでもいい。アヤのご遺族には、俺にできる償いを全部します。だから、早くふたりの死体を隠してください。誰にも見つからないように。お願いします」
「いいね。自分勝手で意味不明。最高だ」
俯く狭霧の横で、くつくつと喉を鳴らす音が聞こえた。狐のような目を爛々と輝かせて、満足そうに六道は笑っていた。
「これなら神様にもご満足いただけるだろう。生まれた死体をなかったことにしたいだなんて身勝手に過ぎることを望むなら、それ相応のドラマは必要だからね」
作業帽子をかぶり直して、六道は念押しするように問いかける。
「本当にいいんだね? お兄さんの死体も彼女の死体も、隠してしまえば全部消える。影も形も、遺品も骨も、何も残らないよ」
「……構いません。お願いします」
「オッケー! じゃあ、仕上げに君の服も脱いでもらおう。死人の血がついているものは、危ないからね」
そう言われても、着替えなんて持っていない。困惑する狭霧に、六道は浴衣によく似た検査服を渡してくれた。
「着替えたら、うしろを向いて。振り返っちゃいけないよ。俺が良いと言うまで、何があっても絶対に声を出さないで」
何をする気なのかと訝しみながらも、狭霧は六道に言われるがままに浴衣へ着替えて、背を向ける。
気づけば、あんなにもうるさかった夜の森は、怖いくらいに静かになっていた。静寂を切り裂くように、パン、と手を叩く音が響く。
「かけまくしもかしこきとこよのかみよ もろもろのまがごと つみ けがれあらむをばはらいたまえ きよめたまえともうすことをきこしめせと かしこみかしこみももうす」
先ほどまでとは打って変わった真面目な声で、六道が朗々と祝詞を捧げる。ともすれば状況を忘れて聞き入ってしまいそうになるほど、澄んだ真摯な声だった。
間もなくして、ズズ、と地響きのような重々しい音が響き始める。
「お納めください」
恭しい言葉とともに、衣擦れの音が聞こえた。
ぐちゃり、ぐちゃりと、泥を捏ねるようなおぞましい音が耳を汚していく。この世のものではない化け物が笑う声というのは、きっとこんな音がするのではないだろうか。
次いで感じたのは、吐き気を催すような臭気だった。
何かが腐ったような匂い。血の匂い。煙の匂い。何の匂いかも分からない混ざり合った匂いが、むわっと背後から漂ってくる。
「……ぅ、ぐっ」
たまらずえずきかけたところを、狭霧は辛うじて口を押さえることで堪えた。
声を出してはいけないと、事前に六道に言われていたからではない。背後にいる何かの注意を引いてはいけないと、本能が警鐘を鳴らしていたからだ。
全身の産毛が逆立っていた。心臓の音が、うるさいくらいに耳の奥に響いている。
背後からは、ギィイ、ギィイと、黒板を爪で引っ掻いているかのような不快な音が、断続的に聞こえてきていた。笑っているようにも聞こえるし、言葉のようにも聞こえる、不思議な音だ。
何が起きているのだろう。
ぽたり、ぽたりと冷や汗が伝い落ちていく。がたがたと情けないくらいに全身が震えていた。隣に兄がいたなら、みっともないから背筋を伸ばせと叱られるに違いない。アヤだって、しっかりしてと眉を顰めることだろう。
ああでも、もうふたりはどこにもいないのだ。死んでしまった。うしろにいるのは、ただのふたりの抜け殻だ。
その抜け殻にしたって、このままではきれいさっぱり隠されてしまう。
――何に?
考えた瞬間、確かめなければならないという、説明できないくらい強烈な衝動が湧き上がってきた。
最後にふたりの顔が見たい。見なければいけない。
振り返るべきではないと分かっているのに、止められない。
振り返ると、そこにいたのは化け物だった。