落蕾
「お会計、五六七円になります」
春陽の候、長袖にさえ汗ばむほどの昼下がり。
午前の仕事が片付き、少し遅めの昼休憩を取ろうと、会社の近くのコンビニエンスストアでご飯を買っていた。
今日も今日とてコンビニ飯。
節約のために具なしの塩むすびと、レジ横のホットショーケースの唐揚げ棒、そして乾いた喉を潤すための五百ミリリットルのお茶。
五年前に就職した会社は、典型的なブラック企業だった。
未だ昇進の見込みは無く、給料も仕事量に全く見合っていない。
それでも、転職する勇気は持てず、まるで家畜のように会社の言いなりとなる日々を送っている。
「あ、クレジットカードで」
ポケットから財布を取り出そうとした時、入り口の自動扉が開き、外から学生らしき集団が入ってきた。
「この間の体験入部、新入生に可愛い子いたか?」
一人の学生が「がはは」と笑いながら話すのを、他の学生も楽しんでいる。
ここは大学が近く、昼間や夜は、そこら中の店が学生たちで埋め尽くされる。
「ありがとうございました。またお越しくださいませ」
会計を済ませ、その場を後にしようとした時、先ほどの集団の中にいた一人の学生に、ふと目が留まった。
その学生は、他の学生とは違う雰囲気を纏い、というよりはむしろ、他の学生を蔑んでいるような、舐めた態度で後ろから眺めていた。
うわあ、自分にすごいが自信ありそう。
そう思いながら、ちらちらと見ていると、不意にその学生と目が合ってしまった。
焦って咄嗟に目を逸らし、急いで外に出た。
春の暖かい風が頬を撫でる。
ついこの間までは風に揺られた桜が、夢の光景のように舞っていたのに、跡形もなく消え去り、深い緑の葉を芽吹かせた木が僕の頭上で、風に揺られ日差しを遮っている。
もう、桜が散ったのか。
社会人になってから、充実した生活が送れていないのは、仕方のないことだが、少し寂しさを感じる。
ふとさっきの学生が頭をよぎる。
そういえば、僕にもあんな時があったかも。
風に靡く木の葉を見て、少し昔の出来事を思い出した。
「朝陽、この間の面接どうだった?」
颯真が箸を鳴らしながら、どこか楽しげに聞いた。
「いやあ、グループ面接きつかったわ。毎回違う順番で当てられたんだけど、あんまり話しすぎると印象悪いと思って短くまとめたらさ、次のやつは一生語っててさ、なんか俺の話が薄いみたいになって。あと面接官もさ、意地の悪い質問とか、嫌なコメントしてきてさ、もうマジで空気最悪だった」
そう言う朝陽も、不貞腐れた顔をしながら、口調はどこか楽しげだった。
「ああ、わかるわ。まあでもグループ面接した後に個人面接してみ? まじで気が楽だから」
大学四年生に進級し、就職活動を始めた二人は、会う度にその話ばかりするようになり、少し嫌気がさしていた。
「友樹は、なんかやってんのか?」
颯真が唐揚げを口に運びながら、僕にそう聞いた。
「いや、俺は大学院に行く」
ビールジョッキの取手に手をかけ、少し躊躇いながらも、自慢げに話す二人に対抗するようにそう呟いた。
すると二人は料理へ伸ばす箸を止め、驚いた顔でこちらを見てきた。
「院に行くのか? 何しに行くんだよ」
朝陽が顔を顰めながらそう聞いた。
当然だ、理系の学部ならまだしも、教員を目指すわけでもないのに、文系の大学院に行くなんて、理解できないだろう。
「まあ、ちょっと興味のある分野があって」
嘘。
昔から絵を描くことが好きで、これで生きていけるのだろうかという着想は、次第に願望に変わっていった。
けれど世の中はそんなに甘くなく、僕の才能が認められることはなかった。
それでもいつかは大物になるんだと、信じて疑わなかった。
時は無情にも進み続け、気がつけば大学生も後半に差し掛かった。
要するに、まだそれにかける時間が欲しいという、大学院に行きたい理由としては、極めて乏かった。
「ふうん、そうなんだな。でも大学院って二年だろ。そんな時間あったら、就職して金稼いだほうが良くね?」
もっともな意見に返す言葉が見つからない。
それでも悟られないように、笑って過ごした。
その後も就職活動の話が続いた。
二人の盛り上がりに入れる隙はなく、いや入りたいとは思っていないが、ただ自分を宥めるように、遠い目で見つめていた。
大丈夫、僕はこんな薄っぺらい奴らとは違う。
有名になって、花のような人生を送るのだと、根拠のない自信が、酒と共に全身に巡っていた。
あれから五年。
結局夏にあわてて就職活動を始め、今の会社に勤めることになった。
自分は人よりも優れているんだという思い込みは、時折、人生においての焦りを感じさせる。
みんなとは違うのだと、自分にはこれしかないのだと。
その錯覚はやがて不安へと変化し、その重圧に耐えきれなくなって、逃げ出したのだ。
夢を持つことも、追いかけることも怖くなり、いつの日からか、人生そんなものだろうと、片付けるようになってしまった。
大物になってやると、心の中で調子に乗っていた時代が、恥ずかしくなるほどに。
もしあの時、めげずに夢を追い続けていたら、どういう人生を歩んでいただろうか。
もしかしたら、満足のいく日常を送れていたのかもしれない。
雲が太陽を遮り、少し冷たい風が木の葉を騒がせる。
僕には勇気がなかった。
全てを捧げる覚悟も、手が届くまでもがき続けることも、できない気がした。
大人になったと言えば聞こえはいいが、結局僕はそれまでの人間だったということだ。
胸が少し痛む。
今更悔やんだって仕方ないのに。
満足のいく人生を送れる人なんて、きっと一握りだ。
みんなどこかで挫折や諦めを経験する。
季節がくれば木々は花を咲かせ、若葉を芽吹くように、僕にも春が来ると信じたかった。
自分に自信がなければ、生きる気力さえも、失ってしまう気がして、怖かったのだ。
けれど、生きていれば、そんなことはかすり傷にも及ばないことに気が付く。
それは少し寂しいようで、ほっとしている自分がいるのも事実だ。
嫌気がさすほどに青く染まる空を、地上から見上げることしかできない自分に、今日もまた、虚しさを感じた。