王太子殿下と婚約していますが、卒業パーティーで破棄するつもりです(※伯爵令嬢にすぎない私から)
お父様とお母様が領地から、ここ王都に所有する邸へ戻ってきた気配を感じた。
平素であれば、王太子であるセルジュ殿下に相応しいよう、淑女らしく振る舞うことを心掛けるところだけれど……
(今はそれどころじゃない!)
自室のドアを勢いよく開け放ち、廊下を全力疾走した。
階段を駆け下りている途中で、玄関ホールにいる両親が私に顔を向けた。
(あっ……)
私の足は急停止した。
その表情だけで分かってしまったからだ。
私とセルジュ殿下に未来はないのだと。
卒業パーティーの前夜にして、王立学園で殿下と共に過ごした日々が、急速に遠ざかっていくようだった。
私はそれらを繋ぎとめたくて、手摺りを力いっぱい握った──
よくいえば自然豊かで素朴な風景が広がる(正直にいえばど田舎な)アルナルディ領を出て、王都にある王立学園に入学したのは13歳のとき。
私は伯爵令嬢ではあったものの、それまで自然に囲まれた領地でのびのびと育てられてきた。
だから、全ての所作が洗練されている学友たちに衝撃を受けた。同じ制服を着ているはずなのに、どこかオシャレに見えた。
その中でも、ひと際目を引いたのがセルジュ殿下だった。佇まいそのものが優雅で品があった。
(本物の王子様が身近にいる!)
王太子殿下と同級生という幸運に、私もほかの生徒同様浮き足だった。
そして、モブの女子生徒よろしく、殿下の一挙手一投足に目を奪われ、胸をときめかせた。
殿下は誰に対しても分け隔てなく、気さくに声をかけてくれた(垢抜けない私にも!)。
私は、優しさと真面目さが調和したその内面にも惹かれた。
殿下と親しくなるにつれ、ファンとしてますます夢中になっていった。
しかしあるとき、気がついた。
きっかけは何だったのだろうか?
そんなものはなかったかもしれない。
なら、当初は殿下に話しかけられただけで心拍数が跳ね上がってオタオタしていた私でも、徐々に慣れてある程度の冷静さを保てるようになったから?
兎にも角にも私は、殿下が私と話すときだけ、わずかに高揚して早口になっていることに気がついてしまった。
すると、それまではとてもではないけれど畏れ多くて憧れまでに留まっていたはずの気持ちは、一瞬にして恋へと昇華した。
でも、このことは胸に秘めておくつもりだった。
(好きになってしまったまでは仕方ないにしても、身の程は弁えないと……)
そう思っていたのだ。
それなのに!
学園生活の半分を過ぎた15のとき、セルジュ殿下の口からはっきりと告げられたのだ。
『クロエのことが好きだ』と。
ひと気のない放課後の中庭で、夏の終わりの木漏れ日がキラキラと輝いて見えた。
「これまでは、王太子という自分の立場から慎重になるべきだと思って自制してきた。けれど、これ以上クロエへの気持ちを抑えることは不可能だ。この気持ちを貫くためにがんばってもいいだろうか?」
顔を赤く染めながら、それでもはっきりとした口調で真摯に問われ、私は胸がいっぱいになった。
殿下は、心臓が震えて言葉が出せない私の手を取った。
「僕にその許可をくれない?」
(口を開いた途端に夢から覚めてしまいそう……)
私は、頷くだけで精いっぱいだった。
以降の殿下は素早かった。
「学生時代だけの、とかそういういい加減なことにするつもりは一切ないから。クロエに告白した時点で、ここまで心に決めていたんだ」
そう言って、私を非公式に国王王妃両陛下に会わせた。
そうして気がついたときには、私は内々とはいえ、セルジュ殿下の婚約者になっていた。
殿下や私と同年代で、もっと家柄がよい令嬢は複数いたにも拘らずだ。
(伯爵令嬢に過ぎず、さらには田舎出身の冴えない私を婚約者にするために、殿下は大変だったはずなのに……)
それでもそういった苦労を、私には何ひとつ気取らせることはなかった。
後になって、あのときのことをふたりで話したことがある。
「僕だけの一方通行な想いなら隠しておこうと思っていたけれど、クロエもそうだと知ってしまったら気持ちに歯止めをかけるなんて到底できなかったよ」
殿下はそう言って笑った。
「殿下は私の気持ちに気づいて……!?」
「ある日を境にクロエの眼差しが変わったよね? 好きな娘からあんな熱を帯びた眼差しを送られたら、どんなに鈍感な男でも気づくよ」
「きゃー、私そんなに見ていましたか?」
「うん。そのお陰で踏み出す勇気をもてた」
幸福な日々だった。ただただ幸福しかなかった──
「クロエ!?」
お父様に肩を掴まれ、はっとした。
お父様とお母様は階段の中腹まで上ってきていた。
「座って明日について話そう」
話なんてしたくなかった。
しかし、駄々をこねている場合ではない。
私や私の家族だけでなく、この邸で仕えてくれている者たちや、領民にまで影響があるかもしれないのだ。
泣いて逃げ出したいのを堪えて、両親のあとをついてリビングに向かった。
※
メイドのルイーズが、伏し目がちに私のリボンタイを結びながら嘆息した。
「お嬢様、本当によろしいんですか?」
ちっともよろしくはなかった。
(でも仕方がないじゃない)
ひと晩泣いた私は、自棄っぱちになっていた。
だから、努めて軽く答えた。
「いいの。学園の制服を着られるのも、これが最後になるのよ?」
「ですが、何も卒業パーティーにまで着ていかなくても……」
「私だけじゃないから」
嘘ではない。
卒業パーティーに『制服で参加する予定』だと聞いている学友が何人かいる。
ただし、奨学金で学園に通っていた子たちだけれど。
私のような貴族、それも末席とはいえ一応高位貴族に入る伯爵家の令嬢が、となると前代未聞だろう。
それでも、婚約者であるセルジュ殿下から贈られたドレスを着用するわけにはいかない。
だって私は今日という日に、セルジュ殿下との婚約を破棄するつもりなのだから──
セルジュ殿下から届けられたドレスは、箱から出してすらいない。
箱を前に、開けられない哀しさから何度泣いたか知れない。
しかし箱から出してしまったら、私はきっと着たいという衝動を抑えられないと分かっていた。
だから、箱を開けたいという葛藤を我慢する他なかった。
どうにか踏ん張れたのは、どんなドレスか知っているがゆえにだと思う。
もし知らなかったら誘惑に負け、ひと目見るだけ……袖を通すだけ……と転落し、最終的には何だかんだ理由をこじ付けて、卒業パーティーにも……という気になっていたことだろう。
私が見てもいないのにどんなドレスなのか知っているのは、セルジュ殿下とデザインを決めたからだった。
当初の予定はそうではなかったんだけれど。
「僕がクロエに似合うと思うドレスを選んで贈ってもいいだろうか?」
セルジュ殿下はこう申し出てくれた。
「うれしいです!」
嘘偽りのない、本心からの言葉だった。
(セルジュ殿下のセンスはアレ……う、ううん!)
独特というか、私とはちょっと(?)違うものの、私は本当にうれしかった。
けれど、それから数日が経過して、殿下は気が変わったようだった。
「あれから考えたんだけど、僕の礼服は君に選んでほしくて。それとお揃いにしたいんだ。目立たないように、あくまでこっそりとなんだけど……」
殿下がその慣例を知っているとは思わなかった。
ふたりの関係が公になっていないカップルでも、卒業パーティでは小さなアイテムをペアにして身につけたりする。
そうすることで、卒業後は婚約なりをする用意があることを同級生に知らせるのだ。
まだはっきりとは話せないけれど、同じ学び舎で過ごした学友たちにはひと足先に打ち明けたい。そんな思いから始まった伝統なのだと思う。
「だから一緒に相談して衣装を決めるのはどうかな?」
その提案は私をさらに喜ばせた。
「とても素敵なアイデアだと思います!」
あの頃は大きく不安に思ってはいたけれど、まだ何とかなるはずだと信じてもいた。
(お父様もお母様も領地で探し回ってくれているんだもの。きっと方策はある……)
それから1週間と経たないうちに、私は放課後王宮に呼ばれ、デザイナーさん(もちろん超一流の!)を交えての打合せに参加した。
そうして殿下と私は、控えめに対となっているスーツとドレスを決定したのだった──
昨夜のうちに、私たち親子の間での話はまとまっている。
今日は特に言うべきことはなかった。
「お父様、お母様、それでは行ってまいります」
お父様はしっかりと頷いてくれたけれど、お母様の双眸が潤んだ。
お父様はそんなお母様の肩を抱いた。
それからもう片方の腕で私をしっかりと抱きしめてくれた。
「大丈夫。たとえ爵位を剥奪され、領地を没収されようとも、私たちはどこでだってやっていける。そうだろう?」
お母さんは目尻を拭いながら『ええ、ええ』と同意した。
「だけど、クロエの気持ちを思ったら……」
今度は私が口を開く番だった。
「お母様、私言ったはず。私はすでにセルジュ殿下から十分すぎるほどのしあわせをもらったの。この思い出は私にとって、一生の宝物になる」
「ごめんなさい!」
お母様は、『わーっ』と泣き出してしまった。
「それを言うなら私だって、何もしてやれなかった……」
(お父様まで……)
「このくだりを繰り返すのはもう止めよう?」
(どうにもできなかったのだから……)
穏やかに言いながらも、私の胸は張り裂けそうになっていた。
セルジュ殿下と婚約してからというもの、両親は忙しい合間を縫って、我がアルナルディ家に代々伝わるありとあらゆる文献を当たってくれた。
始めは私に何も知らせずに。
恋に浮かれていた私は、その未来に待ち構えている危険性に自ら気づくことはなかった。
目の前の殿下に夢中で、このしあわせは永久に続くものなんだと信じ切っていた。
そんな娘の夢物語を守るために、両親は必死になって探してくれていたのだ。
私たちの特殊体質を子に遺伝させない方法はないかと──
私だけならば、何があろうとも隠し通してみせる。
しかし殿下と私の間に子どもができ、その子にこの体質が受け継がれてしまった場合──
幼い子どもがこれを秘匿にしておくことなど、不可能だ。あっさり露呈してしまうに違いない。
となれば、私、引いてはアルナルディ伯爵家の秘密が発覚することは明白だった。
この懸念を両親が私に打ち明けてくれたのは、私が最終学年になってからのことだった。
あのときに感じた足下の大きな揺れは、今でもありありと思い出せる。
お父様とお母様は、邸の外まで見送りに出てくれた。
「クロエ、殿下に必ずお返しするんだよ」
執事が我が家にてこの3日間、厳重に保管していたものを渡してくれた。
「分かっているわ」
私はそう返事をして、馬車へと乗り込んだのだった。
※
私は馬車の中から、リズミカルに揺れる王都の景色を眺めた。
(卒業パーティーが終わったら、すぐさま王都を去って領地に戻ることになるのかな……)
領地に戻ったら、すぐに王都が恋しくなるだろう。
学園に通っている間にすっかり見慣れた風景だったけれど、今一度しっかりと目に焼き付けておこうと思った。
アルナルディ領は王国の北部に位置する。
元々アルナルディ家は、現在所有している領地のごく一部を与えられた下位貴族だった。
北部は自然環境が厳しく、かつては決して豊かとはいえない地域だった。
ところが、アルナルディ家が治めるようになって以降、その領地のみ農作物の生産量が飛躍的に増えた。
北部全体が特に酷い天候不順による凶作に苦しんだときでさえも、アルナルディ領だけは毎回少ない被害で乗り切った。
そしてある年、100年に1度の大凶作が北部を襲った。
それにより隣の領主が破産した。
たとえ凶作などなかったとしても、積極的にほしがる者など誰ひとりとしていないような実りの少ない土地だ。
新領主に起用されるのは誰なのか?
王国中が自身でないことを願いながら、息をひそめて発表を待った。
国はひとまず、当時のアルナルディ家当主に臨時でその土地の管理を任せることにした。
すると、どうだ。
たちまちのうちに鉱山を発見し、裕福な土地へと変貌させてしまったのだ。
この功績が認められて、その土地は正式にアルナルディ家の領地となった。
年月を経て、当主が代替わりした。
しかし、反対側の隣接する領地、そのまた隣の領地……と、凶作のたびに同様のことが起きた。
アルナルディ領が拡大するにつれて、王国にとって何の旨味もなかったはずの北部が、王国の食糧庫と財布を満たすのに貢献できる領土となっていった。
その経営手腕が評価され、今ではアルナルディ家は伯爵位を与えられ、北部一体はアルナルディ家の領地となっている。
そうして、私はお嬢様然として王都にある王立学園に通うことができ、セルジュ殿下とも出逢えたのだった。
けれど、アルナルディ家が奮ったのは、経営手腕などというものではなかった。
悪どいことはしていないけれど、声を大にしていうこともできない。
それこそが、我がアルナルディ家が代々ひた隠しにしてきたことだった──
私は自分が握り締めていたジュエリーボックスに視線を落とした。先ほど邸を出発するときに、執事から受け取ったものだ。
(殿下の前に立ったらすぐに泣いてしまって、うまく話せない気がする)
けれど、殿下は私なんかよりもずっと聡い方だ。
制服姿の私を見ただけでも、きっとその意図をある程度察してくれる。
さらにこれを返却したなら、間違いなくダメ押しとなる。
多くを語る必要はないはずだ。
卒業パーティーという場で、わざわざ大声を張り上げて耳目を集め、その上で婚約破棄などという暴挙に出るつもりは毛頭ない。
ほかの誰にも聞かれることなくこっそりひっそりと、それも手短かに済ませられるなら、それに越したことはない。
(それにしても、殿下はどうしてこれを卒業パーティーの場で身につけさせたがったのだろう?)
たしかに学生にとっては最重要ともいえるイベントだけれど、正直そこまで気合いを入れる必要はないと思う。
それなのに、3日前のセルジュ殿下は切羽詰まったようで、余裕のカケラもなかった。
「卒業パーティーの日、これをつけてきてほしい」
そう言ってやや強引に手渡されたジュエリーボックス。
中に入っていたのは、宝石が散りばめられたビブネックレスだった。
ひと目見て、思わずのけ反った!
「新品をと思っていたんだけれど、母上とも相談して王妃に代々受け継がれているこれを……」
「お、お、王妃!?」
「あっ、でも母上が『これはモチーフが花で可愛らしいから若い子に似合う』って。実際母上も王太子妃だった頃に譲り受けたそうなんだ」
「お、お、王太子妃!?」
「お互いの家族だけしか知らないとはいえ、僕らは婚約しているよ。それに近々公表もする」
「そうですが……」
さすがに卒業パーティーの3日前だ。
私はかろうじて僅かに繋がっている希望に縋りついてはいたものの、その一方で無理かもしれないという不安に常に付き纏われるようになっていた。
セルジュ殿下は、ネックレスを受け取ることに躊躇している私を抱き寄せた。
「な、な、な……!」
それまでの殿下は間違いなく紳士で、婚約しようとも不埒なことは一切したことがなかった。
それなのに殿下は、私のことをしっかりと抱き締めたのだった。
私は完全に固まってしまった。
「クロエ、僕は君を心から愛しているし、何があろうと絶対に君と結婚するからね」
(ま、まさか殿下は何か勘付いているんじゃ!?)
そして……
(ああ、もう! 思い出すだけで赤面してしまう!)
挨拶のキスだって、手にも頬にも決して触れることはなかったはずなのに……
あのとき、殿下の唇は私の唇に触れていたどころではなかった。角度を変え、何度も何度も重ねられた。
王家のネックレスに、先の抱擁に、と微動だにできなくなっていた私はされるがままになっていた。
それでも殿下の私を想ってくれる気持ちの強さは、胸が痛くなるほど伝わってきた──
殿下との婚約を破棄したところで、ほかの誰かを好きになれる気は少しもしない。
あのとき殿下からもらったキスとありったけの愛情……
私にとって最高の宝物になった。忘れることなど到底できないだろう。
この思い出があれば、生涯独り身でもツラくはない。
(殿下、本日でお別れですが、殿下との思い出を一生の宝物にして生きていきます……)
感傷的になり、目尻に涙が溜まってきた。
(いけない。今日はしっかりメイクをしているのに……)
慌てて上を向いたときだった。
ガクンッ!
上半身が大きく前に跳び出た。
馬車が急停止したのだった。
※
私は咄嗟に後ろ手にして、ジュエリーボックスを背中に隠した。
「アルナルディ家の馬車か?」
「そうですが……」
御者も突然のことに驚いているのが伝わってくる。
人の往来も多い街中の大通りだ。
(まさか強盗ではないよね……)
そうは思いつつも、ジュエルボックスを握る手が汗で湿ってきた。
首を縮めて右側のガラス窓から前方を覗いた。
ガチャッ!
私が覗いているのとは反対の、左側についている扉が乱暴に開けられた。
「ひゃあー!」
恐怖で目を閉じた。
「クロエ……」
その声に、閉じたときと同じ速さで目を開けた。
「えっ? どうして……」
息を切らせながら私の名を呼んだのは、セルジュ殿下だった。
「やっぱり制服だー!」
殿下が両手で顔を覆い、天を仰いで絶望したように叫んだ。
(『やっぱり』ってどういうこと!?)
あたふたと言い訳を考える私のことなどお構いなしに、殿下は『失礼するね』と言って馬車に乗り込み、私の真横に腰かけた。
「学園に行く前に寄り道したいんだけどいい?」
(寄り道? こんなときに?)
セルジュ殿下は、真剣な表情で私の返事を待っている。
(これ、断っても絶対に寄り道する気ですよね……)
もしかしたら殿下は私に着替えさせるつもりなのかもしれない。
だったら、観念するしかない。
「卒業パーティーに間に合うのなら……」
「それについては対策しているから安心して」
私は、『対策?』と首を捻った。
けれど、これほど派手な登場をしたくらいだ。
きちんと計画を立てた上での行動なのだろう。
これもまた大切な思い出のひとつとして加わる予感がした。
「それなら……」
「ありがとう」
殿下は御者に声をかけた。
「僕の従者が先導するから、それに従ってくれ」
馬車が再び動き出したけれど、殿下はもう口を閉じていた。
私は思い切っておずおずとジュエリーボックスを持った手を差し出した。
「セルジュ殿下……」
ふたりきりの今返しておきたいと思ったのだ。
殿下にしたって、パーティー会場で返されるよりいいだろう。
セルジュ殿下は目を閉じ、鼻から思い切り息を吐いた。
「クロエ、君は……」
「ごめんなさいっ!」
私だって、こんなことをしたくはなかった。
引っ込めたはずの涙が再び溢れてきた。
いったん緩んでしまった涙腺は、涙を留めておけないらしい。
次々と溢れてくる。
「これは一旦返してもらうことにする。だから、もう泣かないで」
セルジュ殿下は私の手からジュエリーボックスを取ると、上着のポケットに仕舞った。
それからハンカチを取り出し、私の顔を押さえるようにして涙を拭いてくれた。
馬車はそれほど時間が経たないうちに止まった。
「寄り道先は教会……ですか?」
「そう」
殿下は先に外へ出ると、私に手を貸してくれた。
「この教会には来たことは?」
「あります」
学園から最も近い教会だ。
寮に住んでいる学生は、礼拝といえばこの教会にやってくる。
王都の邸から通学していた私でも、寮生の友人に誘われてチャリティーコンサートを聴きにきたことがあった。
建物はこじんまりとしているけれど、内部の装飾が繊細で美しく、とても王都に似つかわしい教会だと思う。
馬車から下りた私の手をしっかりと握り直すと、セルジュ殿下は教会の中へ私を連れていった。
そのとき空に花火が打ち上がった。それも次から次へと……
「今日花火大会の予定なんてありました? 何のお祝いなんでしょうか?」
「何の……僕ら王立学園の卒業祝いということにしておこうか? 何でもいいよ。卒業パーティーの開始を遅らせるための時間稼ぎだから」
「えっ? それってつまり、あの花火はセルジュ殿下の指示ってことですか?」
「そうだよ」
殿下は何でもないことのように答える。
(さすが王太子殿下……)
私は感心した。
「時間稼ぎのためだけに打ち上げられる花火なんてあるんですね」
「そんなものないよ。あの花火は来月の式典用だった」
私は跳び上がった。
「来月の式典用!? それってまさか殿下の誕生祝いの式典!?」
そして、その日に殿下と私の婚約が正式発表されるはずでもあった。
「今日のほうが重要だ。今日次第では誕生祝いどころではなくなる」
「ど、ど、どういう意味でしょうか!?」
慌て過ぎて舌がもつれる。
「とぼけなくていいよ」
(あわわわわ……)
殿下は全て知っているに違いなかった。
殿下は真っすぐ歩を進め、祭壇の前で足を止めた。
その間、殿下とつないだ手からは、絶対に離さないという殿下の強い意思が感じられた。
「クロエ、神の前だから、今だけは何があっても正直に話して」
私は祭壇の奥を見上げた。
彫刻石像の神はどこも見ていないようで、世界中の全て……それこそ私の心のうちまでも見透かしているようにも見える。
「クロエ」
「は、はあい!」
私は視線を殿下へと戻した。
「僕はクロエを愛しているし、この先何があろうと愛し続けるよ」
「セルジュ殿下……」
殿下はどういう訳かまでは分からないけれど、私が婚約破棄しようとしていることを把握していた。
それでもなお、こうして私への愛を伝えてくれたのだ。
私の胸から殿下への気持ちが溢れ出す。
それは、言葉となって出てきた。
「私も……私も生涯セルジュ殿下だけを愛します!」
殿下は私に優しくキスをした。
3日前の情熱的なキスとは違う、優しいキスだった。
(神様の前だしね)
けれど、伝わってくる愛情はまるで同じだった。
唇をゆっくりと離すと、殿下は私に微笑んだ。
私も微笑み返した。
(殿下、最後の最後までありがとうございます。殿下に愛された思い出とともに、これからは独りでもがんばりま……)
そのとき、前触れもなく祭壇の向こう側から何かがにゅうっと現れ、私に影が落ちた。
驚いた私の肩は跳び上がった。
※
祭壇の向こうから現れたその何かは、声を発した。
「ここに、ふたりが夫婦になったことを認めます」
(はあ?)
「だ、誰ですか?」
「大司教様だよ」
私の狼狽をよそに、セルジュ殿下は上機嫌で答える。
「こんな小さな教会にどうして大司教様が?」
「僕から頼んで来ていただいたんだ。王族の結婚式は大司教様が執り行う決まりになっているから」
私はかぶりを振りに振りまくった。
「いやいやいやいや! 大司教様がいたとしても、こんな結婚式が認められるはずないです。王太子殿下の結婚式がこれではダメですよ!」
「いいや、ダメなんかではないよ。そうですよね?」
セルジュ殿下が無人のはずの会衆席を振り向いた。
「ああ、私たちが証人だ」
「誓いの言葉もこの耳でしっかり聞いたし、誓いのキスも見届けたわ」
すくっと立ち上がったのは、国王陛下と王妃陛下だった。
(まさか両陛下がそんなところに隠れていたというの? いつから?)
王妃陛下は、無理な体勢がツラかったのだろう。ずいぶんとお疲れの様子だ。
「どうしてこんな強引なことを……?」
ありとあらゆる未来を想像してきたつもりだった。どんな結果になろうとも上手く立ち回れるように。
しかし、これはどれとも大きくかけ離れている。
(婚約破棄するつもりだったのに、婚姻を結んでしまうことになるなんて!)
こんなのは騙し討ちではないか。
目眩がして足元がフラついた。
私を支えつつ、セルジュ殿下は私の顔を覗き込む。
「クロエが何度も逃げるからだよ」
「何……度も……?」
身に覚えがない。場合によってはこれから逃げる覚悟はあるけれど、これまでは一度たりとも逃げたことはない。
「今度が『クロエと結婚する最後のチャンス』だと母上からは忠告されたから、いっそ結婚してしまえと思ってね」
そこで魅力的に微笑まれても、泣きたいほど困る。
「無理です!」
「無理じゃないよ。現に僕らの結婚は認められた」
「だって……だって私は……」
(白状するしかない! たとえアルナルディ家が取り潰しになったとしても!)
「ま……」
言いかけた私をセルジュ殿下が優しく抱きしめた。
「言わなくていい。それは前回、3回目に君から婚約破棄を言い渡されたときに聞いた」
私は背中を思いっきりのけ反らせ、殿下の顔を見た。
「な、何を言って……」
「愛する君から3回も婚約を破棄される僕の気持ちも少しは考えてくれないか? どれほど傷ついたことか。もうズタズタだよ。4回目は耐えられる気がしない」
「言っている意味が分かりませーん!」
私は叫んだ。
これから婚約破棄をするのだと思うと胸が張り裂けそうだった。
(それなのに、すでに3回も婚約破棄をした? 私から?)
そんなはずがない。
だというのに、セルジュ殿下は至って真剣な目をしている。
「1回目のときは、卒業パーティーに制服姿のクロエが現れただけで、膝から崩れ落ちそうになったよ。君は『結婚はできません、ごめんなさい』と泣いて繰り返すだけで、僕は呆然自失した。翌日になってようやく少しだけ落ち着いてクロエに会いに行ってみれば、アルナルディ伯爵邸はもぬけの殻……」
「殿下、一体何の話を……」
(先読み? 予知夢?)
殿下は人差し指を立て、私の唇に軽く押し当てた。
「まずは黙って僕の話を聞いて」
私は殿下の指にドキッとしながら、声を出さずに頷いて返事をした。
「母上は僕が『選んだドレスが気に入らなかったんじゃないか』って言ったんだ。『一生フリルとリボンがごちゃごちゃ付いた悪趣味なドレスを着て過ごすと思ったら嫌になって逃げたのかも』って」
私は、今も私の部屋で箱に入ったままであろうドレスを思い浮かべた。
(『フリルとリボンがごちゃごちゃ付いた』って? 私と殿下のふたりで選んだのは、形はシンプルながら、金銀糸の刺繍を殿下とお揃いにしたドレスだったはず……)
そして何より、誰から見ても悪趣味なはずがない。
「だから母上に頼み込んで、ドレスを贈る直前に時間を巻き戻してもらったというのに……」
(時間を……巻き戻した……? んんん?)
「クロエの希望を最大限尊重したはずだよね? それなのに2度目も制服で現れて、僕の瞳の色に合わせて特注したネックレスも突っ返して!」
(特注したネックレス? 何それ……)
そんなものを受け取った記憶はどこにもない。
「2度目はアルナルディ領まで君を探しにいった。だけど君どころか、伯爵夫妻すら見つからなかった。後日、伯爵から領地と爵位返還を申し出る書状が届いたよ。だけど、いつ誰がそんなことを望んだ? 僕は君が翻意した理由を知りたかったのに、話も聞かせてもらえず一家でとんずら! どうなっているんだい、アルナルディ伯爵家は!?」
セルジュ殿下は肩で息をしている。
「母上は『こうなったら正攻法で真っ向から気持ち伝えて、本気度を示しなさい』って。それから、王家のネックレスを僕に託してくれて、時間を戻してくれた。だから、僕は僕の愛を真摯に伝えたはずだった……」
(それがあの殿下らしからぬ情熱的なキス……)
知らず私の顔は赤くなった。
「それなのに3度目制服姿の君を目にしたときの絶望感といったら!」
(それは、こっちにはこっちでのっぴきならない事情があったからで……)
それでもたしかに殿下の気持ちは十分過ぎるほど伝わった。
だからこそ、私も胸が痛かったのだ。
「3度目は、卒業パーティーの会場を王宮近衛軍が警備という名の下、君を逃がさないように包囲していた。それなのに、またしても君は婚約破棄だけ済ますと、まんまと逃げだしてくれたね?」
(そんな未来の話されても、私は知りません!)
「けれど、包囲網が功を奏した。ようやく婚約破棄の理由が分かったんだから」
私は目を見張った。
「君は姿を消す直前こう言い放ったんだ。『アルナルディ家の当主は代々魔法使いで、私も魔女なんです。だから王太子妃にはなれません』ってね」
殿下が破顔した。
「そんなことかって思ったよ」
「そんなことって!」
私はとうとう堪え切れなくなって、声を上げてしまった。
「母上が戻せる時間は回を重ねる毎に短くなっていて、これが『最後のチャンス』だと宣告された。そうして戻ってきたのがほんの数刻前」
セルジュ殿下が王妃陛下に視線を向けた。
「ほら、母上はヘトヘトだよ」
王妃陛下はヨレヨレの笑顔を私たちにくれ、軽く手を振った。
「もう分かるだろう? 母上もそうなんだってこと」
「魔女……なんですか?」
にわかには信じられなかった。
(だけど、セルジュ殿下の話してくれた通り、3回も時間を戻していたのだとすれば……)
「これで分かってもらえるかしら?」
ポンッ! と目の前に現れたのは、殿下から贈られたドレスの箱だった。
宙を浮いたまま、ひとりでにリボンがほどけ、箱が開いた……
次の瞬間、私はそのドレスを身にまとっていた。
「この秘密を知った以上、離縁もできないからね」
そう言って、セルジュ殿下はポケットからジュエリーボックスを取り出すと、ネックレスを私に付けてくれた。
「いい加減、花火も終わる。卒業パーティーに行こう」
魔力を使い切った王妃陛下は、倒れ込むようにしながら尋ねてきた。
「アルナルディ伯爵は、魔法で打ち上げ花火を出せて?」
「たぶん……できると思います」
「なら、来月の式典は伯爵にお願いすることにするわ。私は当分の間、大掛かりな魔法は使えないと思うから。貴方たちの婚姻発表をするときに、盛大にお祝いの花火を打ち上げてもらいましょう」
「そうだな。それで一家で逃亡した件はチャラにしよう」
国王陛下がにっこりしてそう付け加えた。
「ありがとうございます!」
私は深々と頭を下げた。
「さあ、クロエ」
セルジュ殿下は、曲げた肘を私に差し出した。
「遅刻するといけない。急ごう」
私はその肘に手を添えてニンマリした。
「だったら……」
そうして私は転移魔法の呪文を唱えたのだった。
END
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!