僕の人生と、ヒグラシの一生
それからというもの、僕はよく駄菓子屋に足を運ぶようになった。県立茉莉花高校の裏手に、似たようなアパートの建ち並ぶ上り坂があるのだが、そこの中腹に、僕がよく足を運ぶようになった駄菓子屋がある。
一見すれば、その家屋が駄菓子屋を営んでいるということは分かるだろう。それほどその駄菓子屋はいかにもな駄菓子屋で、特に学校帰りの――平日の五時前になると、近くの小学生が必ず二、三人以上屯していた。
今日も例に漏れず、軒下の青いベンチに腰を下ろした僕を不思議そうに見る小学生三人組が、駄菓子屋に入って行った。
一本も樹木のないような住宅地だが、蝉の鳴き声は聞こえる。まだ夕方と形容するには青すぎる空の下に、ヒグラシの声が人々の住まう複雑なコンクリートを縫うようにして届いた。
「――これね、マジでうまいよ」
「オレ炭酸飲まない派だから――」
少年たちの声も聞こえる。
僕にもかつて、あのような時分があったと思うと、あのときの僕はいったいどこに消えてしまったのだろうかという疑問が、いつも浮かぶ。
どこかに置いてきたわけがないし、意図的に捨てた憶えもまったくない。いつの間にか、僕はいつの間にかあのときの自分と変わってしまったのかもしれない。
「行こうぜ」
「はやくしろー」
また別な声も聞こえた。
もうひとりを、急かしているようだ。すでに外に出てきたふたりが、未だ会計を済ませていない彼を呼んでいる。名前も知らない、彼を。
僕はかつて、どちら側の人間だったのだろうと思うと、いつも呼ばれる側だったように感じる。友人と違って、大胆かつ豪胆なことはできなかったし、かといって臆病だとか内気だったとは考えられない。
けれどいつだって、僕は友達を待たせる側の人間だったはずだ。
「ありがとうございました……」
照れたように、頭を下げた(僕の視界には映らなかったが)彼が、そこそこの量が入ったビニール袋を持って、外に出てくる。
どうやら彼と僕は違う人間のようだ。
「おし、行くか」
ひとりの少年が言う。
「ミチル、ありがとな」
ひとりの少年が言う。
日が落ちるよりも早く、彼ら小学生三人組が坂を下り始めて、その後ろ姿が窺えなくなったころ。それまでに数十分も必要なかったが、駄菓子屋の奥から、腰が若干曲がった老婆が僕の隣に立った。
「ヒグラシがうるさいねぇ……」
僕とお婆さんは、同じヒグラシの声を聴いていた。
とても、蝉とは思えないくらい、きれいな鳴き声だと思う。第一僕は蝉が嫌いだ。飛ぶから嫌いだ。大きいから嫌いだ。うるさいから嫌いだ。
でも、ヒグラシは僕にとって蝉じゃなかった。
足繫くこの駄菓子屋に通っていた弟の気持ちも、分かる気がした。弟も、虫は基本的に苦手だったけれど、きっとヒグラシの声は好きだったのだろう。
「毎年、こうなんですか?」
僕が座っているベンチは、ただの石垣と向かい合っているだけで、僕がベンチに座っているからといって何か特別な景色が覗けるわけでない。石垣の向こうには、アパートがあるだけで、誰のか知れない洗濯物が干されているのが、見えてしまうだけだ。
僕の質問に、お婆さんは頷いて答えた。
「夏は、毎日こんなだよ。田舎に比べればマシなもんだけども、うるさいのに変わりはないね」
ヒグラシだけは鳴いていた。
夏至はとっくに過ぎているから、徐々に徐々にだけど、日が落ちるのも早くなってくるはずだ。けれどまだ八月に居る僕たちは、それから数十分しても日の入りを拝むことはできなかった。
ずっと鳴き続けていたヒグラシが、ふと鳴き止む。思いがけない静寂が訪れた。
「あんた、学校はどうしてるんだい?」
お婆さんが訊く。そして続ける。
「朝からずっと、ここに座ってるもんだから」
正直に話すべきか、迷った。以前も、懐疑的な目で見られたことはあったけれど、直截訊いてくることはなかった。だから、ひとまず安堵して今の今まで居たわけだけれど、正直に、話すべきだろうか。
……沈黙が長かったのか、
「あたしはねぇ、高校なんて行ったこともないから分からないけども――」
ヒグラシが、遮った。お婆さんはそこで、言い淀んで、浅い溜息を吐くとレジの方まで戻ったらしかった。
いたずらにヒグラシが鳴き続けるだけの、一時間を経て、僕はようやく腰を上げた。帰宅するには、坂を上らなければならなかった。しかし僕は、無意識に坂を下っていた。
やっぱり、お婆さんの話を最後まで聞くべきだったか、と思って、踵を返そうとしたけれど、そのとき僕の目に映った幼いときに見たような坂道を進まなければならないのかと億劫になって、僕は止めたのだった。
家に着いたのは、遠回りをしたせいで夕方ごろだったけれど、それでもめげずにヒグラシは鳴いていた。鳴き続けていた。
蝉の命は儚いと聞いたことがある。僅か一週間だとか。その間に、あれもこれも、何もかもを行うには、少し短すぎると思う。少なくとも長い一生とは思えない。
対して、僕の生涯は、いくらか長すぎる。ざっと七十年くらい生きるとしても、その間に、あれもこれも、何もかもを行うには、少し短すぎると思う。もし僕が蝉ならば、七十年という人生――もとい蝉生はあまりにも長い。もし蝉が僕ならば、与えられた一週間という時間はあまりにも短い。
どうしても、バランスが悪いように感じてしまう。もう少し、ちょうどいい命の長さはないのだろうか、と、ふと疑問に思ったところで、僕は眠りについた。
今日も平日だ。
いつものように、駄菓子屋へと足を運んだのだが、いつもならシャッターが開いている時間なのに、開いていなかった。張り紙が、シャッターにあった。
『母が倒れたので、しばらくの間休業します』
幅の太いペンで、縦に書かれている。
軒下の青いベンチは、健在だった。僕はそこに、腰を下ろして、タイミングよく鳴き始めたヒグラシの声に、耳を傾けた。
ここのお婆さんは、もう帰ってこないのだろうか。彼女の過ごした何十年という人生は、どれほど長く、短かったのだろうか。弟の過ごした十一年は、短かったように思える。
突然幕が下ろされて、きっと驚く間すらなかった弟の一生は、長いと言うにはあまりにも薄い気がした。短いとするには些か長い年月を過ごしたように思えるけれど、僕にはどうしても長いと形容するのが憚られた。
けれど、僕は腑に落ちなかった。どちらにせよ、どちらにしても、大したことではないのかもしれないし、そうすることによって何かを得よう、知ろう、繫げようと考えているわけでもない。
しかし、それからというもの、僕はよく駄菓子屋に足を運ぶようになった。弟が足繫くこの駄菓子屋に通っていたという情報は、他でもない、倒れてしまったお婆さんが言っていた(らしい)のだ。
それを人伝に聞いた僕は、弟の人生がどんなものであったか、理解できるとは思っていなかったけれど、少しでも知りたくて、駄菓子屋に足を運ぶようになった。
弟の人生というものを、少しだけ、僕なりに解釈するとすれば、それはヒグラシと似ているのかもしれなかった。
弟の過ごした十一年は、確かに短い。けれど、七十年は長すぎる。ヒグラシも同じで、十一年も生きるのは長すぎるけれど、一週間は確かに短い。
――夏の間を生き続けたヒグラシが鳴き止んで、ちょっとした静けさが青空の下に訪れた。しばらく待っていたけれど、再び鳴き始めることはなかった。