期待されなかった僕たちは
僕の生まれた王国は、大陸の北寄りに位置している。生家であるブラント伯爵家の領地はその南側にある。
気候に恵まれた土地は農産畜産ともに向いており、ここ数十年は自然災害に見舞われることも少なかったお陰で、そこそこ潤っていた。
僕、テオドルは現当主の長男だ。だが、跡継ぎではない。
政略結婚だった子爵家出身の母は僕を産んだ後、体調を崩して寝たきりになってしまった。伯爵家当主の父は療養のためと言って、離れに母と僕を移した。
赤子を母親と引き離すのは可哀そうだ、という建前だったらしい。世話係もそれなりに配置されて不自由はなかったようだ。三年後に母は亡くなった。
しばらくして父は再婚した。紹介された二歳の男の子は、義母の連れ子ではなく、僕の腹違いの弟だという。
住み慣れた離れの方が落ち着くでしょうから、と義母が言い、その後も僕は離れで暮らした。
六歳になった時、家庭教師が来て、読み書き計算の基本を習った。対して弟には何人もの専門教師が付き、みっちり扱かれていた。
物心ついてからは、弟を跡継ぎにしたい義母の差し金だと理解したが、子供心にはみっちり扱かれないほうがいいに決まっている。少なくとも僕はそう考えた。離れで育ったため、領主の息子だとか貴族だとかいう意識が少なかったせいかもしれない。
本館に行かない限り自由が許されていた僕は、時間を持て余して領地を駆けずり回った。身体を動かすのが好きだったので、領民の子供に混じって木の枝で打ち合いをしたり、遊び仲間が親の畑の手伝いに駆り出されれば一緒になって泥にまみれたり。
十歳になった時、父親に呼ばれた。
「お前は将来、弟の下で領地をまとめる仕事をしてもらう。
そのために、今後は私の仕事を手伝いなさい」
とりあえず面倒な実務、主に見回りだとか陳情の聞き取りをしろ、ということだった。だが、領民と話をするのは何とかなっても、読み書き計算だけでは書類も作れない。子供の教育を義母に任せていた父は、僕の教育内容を把握していなかった。
見かねた家宰が、自分の仕事の合間を縫って必要なことを教えてくれた。書類作成の基本や金勘定など、実務的なことを日々、覚えた。
仕事は、指示書が離れへ届けられた。義母が僕と顔を合わせたくないせいだ。
数年が過ぎ、弟の婚約者探しをするという名目で、伯爵一家(僕を除く)が一年の半分くらいを王都で過ごすようになった。その間は、領主代理として働いた。父たちの目が無いのをいいことに、家宰からは更に扱かれた。だが、扱かれた後は、いつも料理長が美味しい菓子を出してくれた。
時々は街へ出て、友達とも遊んだ。皆、家業の手伝いを始めていて、時間はあまり取れなかったけれど。
本館の使用人たちは、僕に協力的だった。
雇用主は領主である父なので、表立って僕に肩入れすることは無い。物心ついてから、僕は離れで一人暮らしをしている。使用人は食事を運んだり、掃除をしに来たり、と本館から通ってくるのだ。だが、僕の任された仕事に必要な資料をそっと置いていってくれたり、祝われることのないはずの誕生日の夕食にはケーキが添えられていたりと、いろいろ気遣いを受けていた。
お陰で、僕の領主代理はうまく行き、父がやるよりも領の経済が上向いた。
伯爵一家(僕を除く)は、なぜ懐が潤っているのかと考えてみることも無く、王都生活を優雅に満喫していた。
使用人たち共々、真面目に働きながらも伸び伸び過ごしていたが、いつまでも、とはいかない。非常に残念だが、その年も、父と義母と弟が王都から帰って来る日が来た。
非常に珍しいことに、彼等が帰ってすぐ、本館へ来るようにとの呼び出しがあった。王都から帰ってきても土産をくれたことなど一度もない。まあ、僕にとって都合のいいことなど起こるわけがないと、諦観して出頭する。
執務室ではなく応接室に呼び出され、更にはソファに座るよう促される。目の前に出された紅茶の湯気に驚いていると、機嫌良さげな父が切り出した。
「留守番、ご苦労だったな。よくやってくれたようだ。
家宰からも聞いている」
「ありがとうございます」
今年、僕が特別な働きをしたわけではない。だが、褒められたのは初めてだ。
「今回、王家から縁談を勧められたのだが」
弟には王家から直々に縁結びの声がかかったのか? それで父の機嫌が良いのか?
「エーギルには少々、不釣り合いかと思って、お前の相手としてお受けした」
「……」
訳が分からない。王家から勧められた縁談を、なぜ、跡を継がせる気もない使用人もどきの僕に?
「お相手は侯爵家のご令嬢アグネス様よ。王太子殿下の婚約者候補だった方ですけど、最終的に選ばれなかったのですって」
「顔も頭も一番だったのに、高慢過ぎて王太子殿下に嫌われたって話だよ。
最初は僕にどうかって言われたけど、兄がまだ婚約していないのでって断ったら、じゃあ、兄さんでもいいってさ」
弟は笑っていた。義母も、いかにも意地の悪い笑いだ。
「そんな立派なお嬢様に来ていただいても、十分にお迎えできませんからね。
貴方が離れで何とかしてちょうだい」
本館で無理なものを離れで? 意味不明である。
「断れない縁談だから、頼むぞ」
言いたいことは言ったらしく、さっさと離れへ戻るよう促された。とりあえず、出された紅茶を飲み切って席を立つ。
離れで書類仕事をしていると、一家と共に王都へ行っていた従僕の一人が訪ねてきた。件のご令嬢の情報を補足してくれるらしい。
それによれば、ストランド侯爵家の長女アグネス嬢は、ずば抜けた美貌はもとより教養、作法、あらゆることに長けており、王太子殿下の婚約者候補としては筆頭と思われていた。だが、選ばれなかった。
『彼女はたいへん素晴らしい女性だとは思うが、私はもう少し寄り添いあえる人を望む』
公式ではないはずの王太子殿下の言葉が噂となって伝わるほど、敵視されていたとか。敵視? 対抗馬の公爵家令嬢あたりか?
人づきあいが悪く、お茶会に招待しても来ることがない、と貴族夫人の間でも評判は今一つ。きっと、他の貴族女性など見下しているに違いない、と噂されているとか。
「本当に、高慢な女性なのかな?
だとしたら、こんな田舎の伯爵領では不満だらけなのでは?」
「テオドル様、差し出がましいこととは思いますが」
従僕は言った。
「ブラント伯爵家の長男テオドル様は落ち着きがなく、とても社交界に出せるような人物ではない。よって、次男のエーギル様を跡継ぎにせざるを得ない、などと噂されています。
実際は、こうして立派に領主のお仕事をされているのに、です。
ということは、ご令嬢も噂通りの人物とは限らないかと」
従僕の言うことはもっともだ。噂は、一方の偏った意見に過ぎない。悪くすれば、故意に作られた人物像かもしれない。どのみち、断れない縁談だ。僕は大人しく、ご令嬢の到着を待つことにした。
二週間後、彼女がやって来た。
王太子殿下の婚約者候補だった侯爵家の令嬢だ。馬車が列をなして来るかと思えば、たったの一台。しかも、貸し馬車を乗り継いできたらしく、荷物を下ろすと馬車はさっさと戻っていく。侍女も無く、お供はメイドが一人だけ。
簡素な服を着ているが、所作の美しさは流石だと思った。そして噂通りの美少女。見惚れていて、馬車から降りる手助けを忘れていた。
「すみません、田舎者で気が利かず……」
「いいえ。お出迎え、ありがとうございます」
にっこり笑う彼女は、どこにも高慢の面影が無い。
「ようこそ。長旅でお疲れでしょう。狭い家ですが、お入りください」
荷物は彼女のメイドに任せ、談話室に案内してお茶を出した。
「まあ、お茶を淹れるのがお上手ですのね。美味しいですわ」
「ありがとう。その、多少は僕の状況をご存じかと思いますが……」
「他人の話は、善意で語っているのか、それとも悪意でなのかわかりませんから、聞き流しておりました」
賢い人のようだ。それとも、噂で苦労をしたのか。
僕は、この伯爵家での自分の立場を説明した。跡継ぎにはなれないこと、そのくせ、領主の仕事はほぼ丸投げされていること。そして、王都に住んでいた侯爵家の令嬢に相応しい十分なもてなしが出来ないこと。
「わたくし、高位貴族としての振る舞いには誰にも負けない自信がございます。でも、自分の身の回りのことは一人で出来ません。
少し時間がかかるかもしれませんが、一人で出来ることを増やしていきますわ」
「ご不自由をおかけして申し訳ないです」
「いえ、貴方がわたくしを受け入れてくださらなければ、平民として放逐されたかもしれません。そうなっていたら、一日生き延びるのも不可能でしたもの」
ごくあっさりと、すごいことを言う。だが、その現状把握は正しい。
侯爵家の令嬢が、こんな田舎までメイド一人だけを供にしてやってきたのだ。その苦労話も、追々聞かせてもらおう。
本館から、いつものように夕食が運ばれた。料理長の気遣いで、女の子が喜びそうな特別なデザートが付いている。
「お口に合いますか?」
「ええ、とても美味しいですわ」
「本当に?」
お世辞を疑うと、彼女は屈託なく笑う。
「わたくし、流行のドレスを着るために、食事を制限されておりましたの」
「え?」
「ですから、こんなに品数の多い夕食は久しぶりですわ。
それに、デザートまで付いて。なんて可愛いのかしら」
どんな生活をしていたのか、と訝しむ顔の俺に応えて、彼女は自身のことを語り始めた。
食堂から談話室に移動すると、彼女のメイドがお茶を出してくれる。
侯爵家の長女として生まれた彼女だったが、母親は産後間もなく儚くなった。妻を愛していた侯爵にはショックが大きすぎた。そのせいで日毎に妻に似ていく美しい娘を遠ざけるようになったという。
更に、後妻に入った女性が継娘の美貌を妬み、母親らしく接することはなかった。王太子殿下の婚約者候補に彼女の名が上がると、家から追い出す好機とばかり、よい母親を装って山ほどの教育係をつけた。彼女はそれから、寝る暇も削られて淑女教育を詰め込まれたそうだ。
茶会などの社交に出る暇もないほどだったのだろう。やはり、噂は当てにならない。
「結局、王太子殿下の婚約者には公爵家のご令嬢が選ばれましたの。
発表の席で義母が『殿下のお相手に相応しくなるため努力した娘です。他の殿方との縁談があっても、承諾するかどうか……』などと大げさに嘆きまして。
黙って見ていましたら、王家から打診すれば断れないだろう、という話になってしまいまして……」
たまたま、うちの弟を売り込む両親の声を耳にしていた殿下が、それならばと縁談をまとめにかかったらしい。王族、いい加減過ぎる。そして、評判を鵜吞みにした伯爵一家(僕を除く)が彼女を僕に押し付けた、というわけだ。
なんにせよ、王太子殿下から僕までの落差が酷い。
「相手が伯爵になれない僕で、申し訳ありません」
「テオドル様は何も悪くないですわ。それに」
「なんでしょう?」
「わたくし、こんなふうに自分の話をじっくり聞いていただいたのは初めてです。それが、テオドル様でよかったですわ」
彼女が微笑んだ。
うわー、なんだこの感じ。ソワソワして落ち着かない。何かしなきゃ! 何か、何でもいい。僕に力になれることがあるだろうか?
たとえ力になれなくても、何かしてあげたい。そう思った。
「ところで」
彼女は、談話室の隅に置かれた木箱に視線を送った。
「あの、可愛らしい箱はなんですの?」
木箱は古く、カラフルな塗装は色あせていた。
「ああ、僕の子供時代の玩具箱です。家の整理をした時に最後に出てきて、片付けそびれていました」
「玩具箱? 中身を見せていただいても?」
「ええ、どうぞ」
僕は箱をテーブルに上げた。蓋を開けると、使用人が丁寧にしまってくれた古い玩具と絵本が出てくる。
「これは、何ですか?」
彼女が両手でそっと持ち上げたのは積木だった。
「積木です。こうして遊ぶものですよ」
「まあ、よく出来ていますのね」
女の子は積木遊びなどしたことがないかもしれない。僕は単純にそう考えた。でも。
「この本は?」
「おとぎ話の絵本です」
彼女は一冊を手に取ると、丁寧に表紙を開いた。そして、現れた頁いっぱいの絵に見入っている。
「……綺麗な絵がたくさんありますのね。
子供のころから、難しい本は読まされたのですけど、こんな可愛らしい本は手にしたこともありません」
恥ずかし気な表情の彼女。
「古いものですけど、よかったらゆっくり読んでください」
「……ありがとうございます」
きゅっと絵本を抱き締めるようにした彼女は、瞳を潤ませていた。
蝶よ花よと育てられたご令嬢だったら、こんな完璧な淑女に仕上がるものか。彼女は大切に、優しく守られるべき子供の時間を奪われてきたのだ。
そして、それでも彼女は、絵本を抱き締める優しさを失わなかった。
僕はなんとしても彼女を守りたい、そう思った。
思い立ったが吉日である。彼女をメイドに託して外出した。行先は繁華街の食堂だ。夜のこの時間であれば、ほぼ酒場と言っていい。
「今夜は俺の奢りだ。皆、日ごろの憂さを忘れて飲め飲め~!」
「グスタフさん、ゴチになります!」
「あざーす!!」
通りにいても、店の中の陽気な声が聞こえる。
「おー! 久しぶりだなテオドル。一丁前に酒場通いか?
子供はさっさと帰れ!」
僕はまだ十五歳だ。酒が飲めるのは十八歳から。それはともかく。
「お久しぶりです、グスタフさん」
食堂は酔っ払いでいっぱいだった。その中心には、嫌でも目立つイケオジがいる。
彼は、僕が子供のころから街で時々会う人だ。行商人という触れ込みだが、その鍛えた身体とひと睨みで厳つい男も黙らせる視線は、只者じゃない。
それに、今回みたいに王都から婚約者が来た、というような事件があると、なぜか街に居る。まるで、僕が相談しに来るのを待ってるみたいに。
「んん~? なんだ? お前も年頃か? 込み入った話ならサシで聞くぞ」
グスタフさんが席を立つと、ブーイングの嵐。
「えー、もう少し飲みましょうよ!」
「お前らは楽しんどけ。女将、ごちそうさん」
グスタフさんはテーブルにポンと重そうな革袋を置く。女将がササっと袋を取りに来て、笑顔で送る。
「毎度どうも、末永くご贔屓に!」
「ごちそうさまでーす!」
飲み客たちは上機嫌で大合唱だ。
店を出て少し歩くと、地味な箱馬車が待っていた。促されて一緒に乗り込み、住宅街まで移動する。
「遠慮なく入れ」
ここへ来るのは初めてではない。
最初は、知り合いの商人の家に泊まらせてもらっている、と説明された。しかし、グスタフさんは案内も請わず上がり込む。応接室の一番いいソファに陣取ると使用人が「おかえりなさいませ」と飛んできて、高級そうな酒を給仕する。どう見たって、ここの主人だ。
「嫁、もらったって?」
「婚約者です」
「女の扱いを教えて欲しいなら、任せとけ」
「……」
「冗談だ。それで、どんな娘なんだ?」
「真面目で、僕と話が合う人です」
そう言って、気付いた。
あの家で僕は一人きり。食事を運んでもらったり、掃除をしてもらったりはしているのだが、普段の話し相手はいない。
「……僕の話を聞いてくれる人、です」
彼女の話を聞くのも、嫌じゃない。たとえあまり愉快な話題でなくとも、彼女のことをもっと知りたいと思う。
「彼女の話も、いくらでも聞きたいです」
「高慢な令嬢という噂だが、まるで別人だな」
僕はグスタフさんに、彼女から聞いた一連の話をした。
「ほお、王家も公爵家も侯爵家も、ついでにお前の家も調子に乗ってるな。
ふむ、それで、お前はどうしたいんだ?」
「僕は、彼女に幸せになって欲しいです」
「お前たちは、まだ婚約者だ。もし、彼女が幸せになるなら、他の男に嫁がせてもいいのか?」
僕はすぐに返事が出来なかった。
そうか。王命だから単純に断れないと思っていたけれど、助けてくれる人がいれば、彼女には選択肢が出来るかもしれないんだ。
「もし、彼女が望むなら構いません」
「……わかった。少し調べてみよう。また、連絡する」
「よろしくお願いします」
それからしばらく、僕は父から丸投げされる領主の仕事をしながら、婚約者との仲を穏やかに深めていった。グスタフさんに言われた『他の男』という言葉が頭の隅にある。万一の時の障害にならないように、二人きりの状況は避けている。
そうしながらも、毎日たわいないことを語り合う日々。
それは、とても幸福な時間だった。
彼女に会って、僕は初めて知ったのだ。自分がどれだけ寂しかったのかを。
グスタフさんと話してから二か月が経った。
僕はいつものように仕事の休憩時間に彼女とお茶を飲んでいた。そこへ本館から従僕が息を切らしながら走って来る。
「テオドル様、お客様がお見えです。本館までお越しください」
彼女と顔を見合わせると
「お二人とも、お願いいたします」
「あの、このままの格好で構いませんか?」
アグネス嬢が問う。
お客の格がわからないので、着替えが必要か判断がつかないようだ。僕に関して言えば、そもそも晴れ着のようなものを持たないから、そんなこと考えもしないのだが。
「大丈夫です。非公式と仰っていましたので」
それを聞いて、客の見当がついた。おそらく、あの人だろう。
「アグネス嬢、行こう」
「はい」
きちんとしたエスコートなど習っていないので、手を繋いで本館までゆっくり歩いた。彼女は少し驚いて、そしてはにかんだように微笑んだ。
あまりに可愛くてドキドキした。
応接室には異様に堂々とした一人の男と、その前で緊張して竦む伯爵一家(僕を除く)がいた。
「よお! 遅くなって悪かったな、テオドル」
「お久しぶりです、よくいらしてくださいました」
お客は、子供の頃から見知った行商人。彼女のことを相談した相手。
その正体は、隣の領地を治めるグスタフ・ノルランデル辺境伯である。
「お、お前、辺境伯様と知り合いだったのか?」
父が震える声で尋ねる。義母と弟は声も出ないようだ。
「ブラント領は農畜産物が豊富で、食べ物も酒も美味いからな。
時々、こそっと邪魔させてもらってるよ。それで、コイツとも知り合ったっていうわけだ」
自分の住む街の視察すら怠っている父には、なかなかの嫌味だ。
「ところで、その子が侯爵家のご令嬢か? 美人だな!」
おいおい、イケオジ、正直すぎ!
「お初にお目にかかります。ストランド侯爵家の長女、アグネスと申します」
「俺は隣で辺境伯やってるグスタフ・ノルランデルだ。よろしくな」
イケオジは雑に挨拶してもカッコいい。
「ところで、アグネス嬢の実家は、婚姻をもって縁を切るそうだ。
つまり、婚姻したら後ろ盾がなくなるんだがアグネス嬢は知ってたか?」
「存じませんでしたが、あり得るかと思います」
「伯爵はご存じだったのではないかな?」
父が目を逸らした。
僕も知らなかったが、さほど意外でもない。ほぼ縁切り状態で王都から追い出された彼女は支度金も足りず、持ち出せた私物を換金し、やっと伯爵領までたどり着いたのだ。
彼女が連れてきたメイドは、侯爵家で雇われていた者ではない。冒険者ギルドに護衛を雇う相談をしたところ、勧められたのが件のメイドだったそうだ。
メイドは元男爵家の令嬢だったが、彼女も父親の後妻に虐められて我慢できずに家出。偶然、腕の立つ女冒険者に拾われて、いろいろ仕込まれたとか。
アグネスは侯爵家の令嬢だが、婚姻が済めば平民。それで、僕に押し付ければいいという話になったようだ。だが、どちらにせよ予期せず令嬢を預かることになったのだから、持参金的なものが出たのではないだろうか?
「侯爵を締めて吐かせたんだが、後妻の口車に乗って持参金を付けて娘を追い出したんだと。そして伯爵家では、金だけ受け取って全て長男に丸投げと来たもんだ」
王都から移動するために豪華なドレスは売り払い、平民よりは少し小綺麗な服で過ごしている。動きやすくていいのだ、と彼女は笑っているが。
「アグネス嬢はそれで不満はないのか?」
「わたくしは、伯爵家というよりテオドル様のもとに来てから、伸び伸び楽しく過ごしていますわ。不満などございません。
ただ、わたくしに付いてきてくれたメイドに十分な報酬を渡せていませんの。それをお支払いいただけると助かりますわ」
辺境伯はアグネスをじっと見た。あまりの鋭い眼光に、思わず背中で庇いたくなるほどだ。
「テオドル、殺気立つんじゃない。本心で言ってるか、確認してただけだ。
お前、婚約者に恵まれたようだな」
「はい!」
「だが、婚約は保留だ」
「はい?」
「侯爵を締めたついでに、アグネス嬢は辺境伯家の養女にした。
つまり、今は俺がこの子の父親だ!」
「はいいいい!?」
「しかし、お前は悪い奴じゃない。
チャンスをやろう。俺のところへ来て、修行だ。
やるか? それとも諦めるか?」
「やります!」
「よし、お前も辺境伯領へ来い!」
にかっと笑った辺境伯様は、次に俺の父に声をかけた。今までとは段違いの凄みを効かせた、ゾクッとするような声音で。
「……それから、ブラント伯爵」
「は、はい。何でございましょう?」
「王家を締めるついでに、俺がブラント伯爵領を預かった。
一年間猶予をやる。来年の農畜産物の収量が、今年の九割以下だったら伯爵を退いてもらう。
天災や天候不順は考慮するが、それ以外は見逃さないからな」
「承りました」
父はホッとしたような顔をしている。
ここ数年、僕に丸投げしていた父は分かっているのだろうか?
主立った領民の協力なくしては前年と同じ収穫量を望むのは、簡単ではない。天候不順というほどではなくとも細かい調整は必要だし、もし天候不順を申し立てるなら、そのための資料をコツコツと準備しておかなくてはならない。一日たりとも気を抜けないのだ。
それと、これまで僕には大人では得られない味方がいた。幼馴染である領民の子供たちだ。大人が忖度して表に出さない事情も、子供たちはぽろっと話す。そこには、重要な情報が含まれていることがある。
僕が持つ手札は、今の父には使えないものばかりで状況はすこぶる不利だ。
義母は、持参金を返せと言われなかったことに、あからさまにホッとしている。弟は、雲行きが怪しげだと感じたのか、顔色が悪いままだ。
「よし、話はまとまった。俺は少し野暮用があるから、その間に荷物まとめとけ」
僕はアグネス嬢とともに離れに戻り、荷物をまとめた。とはいえ、二人とも持ち物は少ないのですぐ終わる。
「この一冊だけ、持って行ってもいいでしょうか?」
彼女は、一番最初に手にした絵本を見せた。
「もちろん、構いませんよ。でも、辺境伯家には、もっとよい本が揃っているかもしれません」
「それでも、わたくしはこの本がいいんです。それから……」
彼女が口ごもる。そして、意を決したように口を開いた。
「辺境伯様がどんなお考えであろうと、わたくしの婚約者は貴方ですから!」
彼女は顔を赤くしながら、そう言ってくれた。
「……ありがとう。僕、絶対に辺境伯様に認めさせますから!」
「はい、絶対ですわよ!」
「はい、絶対です!」
嬉しくて抱き着きそうになった僕の視界の端に、メイドの手の動きが見えた。武芸の心得のない僕は、身の安全のために上げた手を下ろす。
移動の途中、豪華で乗り心地の良い馬車に少しはしゃいでしまった。アグネス嬢は落ち着いているので、ちょっと恥ずかしい。
「王家には、あんまりなことやってると、辺境伯家はブラント伯爵家を併合して独立すると言ってやった。
食糧生産で群を抜くブラント領を抱えた、国一の軍隊を持つ辺境伯家だぞ。おまけに、独立したら南へ行く街道を通る奴から通行税を取り放題だ。
もしそうなったら、笑いが止まらんな」
王家を締めた経緯を話す辺境伯様は楽しそうだ。辺境伯家は、先々代の王弟殿下の血筋で、王家も蔑ろには出来ない。
城のような屋敷に着くと、辺境伯夫人が出迎えてくれた。背の高い、クールな美人だ。
期限までの一年間は、それなりに忙しかった。修行と言うに相応しく、僕が領地経営をする中で、まだ足りていなかった知識をいろいろ教わった。それから、外部との交渉の仕方や王都へ行って社交するために必要な振る舞いのあれこれも。
学ぶにつれ、自分ではうまくやっていたつもりの領地経営が、いかに子供の仕事だったのか理解した。その穴を周りの大人たちが埋めてくれていたのだ。
「ろくに教育も受けず、何でもうまくやれてたら、かえって怖いぞ。
お前は頑張って来たし、今も頑張ってる。俺はちゃんと見てた」
「辺境伯様」
「よせやい。そろそろオヤジって呼べ」
「……」
婚約者と認める認めない云々は、すでにどこかへ行ってしまっている。絶対、アグネスと婚姻するのでいいけれど。
ここで僕にいろいろな知識を教えてくれるのは辺境伯領の元文官だ。引退して、今は後進の指導係をしている人である。
雑談中に聞いた話では、辺境伯は僕のことを、小さい時から気にかけてくれていたようだ。そんな気はしてたけど、改めて知ると嬉し恥ずかしい。ありがとうオヤジ、と言える日がいつか来るだろうか?
辺境伯には時々、木剣での打ち合いに誘われる。護身術程度に覚えろと言われるが、先生が強すぎる。ちょっとした稽古だから、とすぐ近くで夫人とアグネスがお茶をしているところで始めたりするのだ。
一度、僕の持っていた木剣がすっぽ抜けてお茶のテーブルに飛んでいった。うわあと焦って見ると護衛も出来るはずのアグネスのメイドが動かない。次の瞬間、夫人の鉄扇が見事に木剣を跳ね返した。腰が抜けそうな僕に、涼しい顔の夫人。アグネスは暢気に笑ってる。
「申し訳ありません」
「あら、いいのよ。思い切りおやんなさい」
「そうだぞ。二人とも、まだ十五歳だ。
俺たちを頼ってくれないと寂しいぞ」
「まあ、あなた。それは少しばかり情けないわね」
「そうかな?」
こんな会話を交わして、四人で笑う。僕とアグネスは辺境伯夫妻のもとで、子供時代を少しだけやり直した。
一年後、予想通りブラント領の収穫量は九割に届かず、父は伯爵位を失った。代わりに辺境伯の持っていた子爵位を譲り受け、元伯爵一家(僕を除く!)は王都に行くことになった。弟は王城の文官を目指すそうだ。帰って来られても面倒なので、何とか頑張って欲しい。
僕は伯爵位を継ぐことになった。
「本当は辺境伯を継がせたいんだが、伯爵領と領民はお前が大事にしてきたものだからな。
出来れば、お前たちの子供が継いでくれれば嬉しいな。
まあ、俺はまだまだ元気だし、いざとなったら辺境伯軍から適当に、気の利いた奴を養子にするさ」
辺境伯夫妻には子供はいない。アグネスと夫人は、一年の間に本当の母娘のように仲良くなった。
辺境伯は、僕が領地と領民を大事にしてきたと言うけれど、僕の方こそ大事にしてもらったのだと思う。領の大人たちは僕が誰だか知りながら、街を走り回る他の子供と同じように、見守ってくれたのだ。
それから二年間、僕は領地経営をしながら学び続けた。
アグネスは辺境伯家と伯爵家を行ったり来たり。相変わらず護衛のできるメイドがお目付け役を務めている。時々、辺境伯夫人が鉄扇片手についてくるので僕は大人しく婚姻式の日を待った。
十八歳になり、アグネスと僕は正式に婚姻した。婚姻披露宴には領民もなるべく呼んで、皆が作った食材で出来た料理を皆で食べた。
辺境伯夫妻からアグネスを託され、祝いの言葉を浴びながら、パーティー会場を手を繋いで進む。ちゃんとしたエスコートも習ったけど、今日はこうしたい、という彼女のおねだりだ。
実の親には期待されなかった僕たちだけど、たくさんの人たちに見守られて、この日、大人の第一歩を踏み出した。
アグネスサイドから見たお話に後日談を加えた『いつか王子様が ~都落ちした侯爵家のご令嬢~』を投稿しました。お読みいただけると幸いです。