〝完璧令嬢〟がおっさん公爵に溺愛されまして
「私は完璧でなくてはならないの」
とロザリーは言った。
「妻の仕事を完璧にこなし、誰からも愛される女でなければならない。両親からそう育てられました。そうでなければ、女は生きている価値がないと」
ヨシュアはそれを聞くと、いかにも面倒くさそうに頭を掻く。
「お前……俺みたいなしょーもないおっさんにそんなこと言ってどうすんの?」
ロザリーは悔しそうに唇を噛んだ。
結婚をしたのは、つい昨日のこと。
両親から「完璧に」躾けられた伯爵家の一人娘ロザリーは、エスコフィエ公爵家に無事嫁入りを果たした。
彼女は両親にこう告げた。
「お父様、お母様。今まで育てて下さり、本当にありがとうございました」
娘として、完璧な別れの言葉である。
ロザリーの父母は、完成された娘を眺め、涙を浮かべた。
「ロザリー、あなたは自慢の娘よ。私たちの厳しい躾を経て、よくここまで成長してくれたわね」
「私は厳しいと感じたことはありません。これも全て愛あっての教育だと感謝しております」
「立派だぞ、ロザリー。エスコフィエ家でも妻業を完璧にこなせるように頑張りなさい」
「はい、お父様。それではここでお別れとなります。再び教会で会いましょう」
と、このようにロザリーは完璧な別れを果たしたのだが。
いざ教会で顔を合わせたのは、どこか頼りのないおっさん公爵であった。
ロザリーは自身の心を落ち着かせた。
分かっていたことである。
夫のヨシュアは四十歳。少しとろんとした眠そうな顔。笑う時はどこかへらへらしているし、体が丈夫そうな点以外はどこか粗野な空気が漂う。
貿易船の船長を務めていたらしいが、前当主を務めた伯父らが相次いで亡くなり、現当主として呼び戻されたばかりだと言う。この歳まで身も固めず船でふらふら世界中を放浪していたという奇人でもあった。
まだ当主としての自覚が足りないのかもしれない。もしそうであるなら、妻たる自分がこの夫を教育せねばならないだろう。
ロザリーは完璧な分析に、我ながら感心する。
式が無事終わると、ロザリーはエスコフィエ家の屋敷で奥方としての務めを果たすべく臨戦態勢に入った。
ノックと共に、夫の部屋へ入る。
「ヨシュア」
20も歳下のロザリーは、教師に習った通りに、親しみを込めて夫に告げた。
ヨシュアは振り返る。
「ん?どうした?」
「長いお付き合いになりますので、親交を深めた方がよろしいのではないかと思って参じたのです」
ヨシュアはそれを聞くや、ぶっと吹き出した。
「親交?随分お堅い言い方だな」
ロザリーはむっとする。真面目に親交を持とうとしたのに、笑われるとは思いもしなかったのだ。
「まず、あなたの経歴をうかがいたいのですが」
ヨシュアはへらっと笑うとこう言った。
「そういう時はさ……〝あなたのことをもっと知りたいの〟とか、砕けた言葉遣いの方がこっちもその気になるんだが」
ロザリーは「ふむ」と呟いた。
「あなたのことをもっと知りたいの」
「どえらい棒読みだな?まぁいいや。俺が商船の船長をやってたというのは聞いたか?」
「はい」
「俺は世界中を旅した。旅を愛し過ぎて、婚期を逃した。そんな折、いきなり当主にならなければならなくなり、君を娶ったと言うわけだ。これが結婚の経緯」
「分かりました。では、今度は個人的なことを教えて下さい。どんな女性をお好みですか?」
ヨシュアはぽかんと口を開けた。
「何だよそれ」
「私は、あなたに好かれるよう努力します」
ヨシュアはしかめ面で、払うように手を振った。
「やめろよ、好かれるように努力なんて」
「それが妻の務めではないですか?」
ヨシュアは少し苛立った。
「違うな。ロザリー、君は何か勘違いをしている」
「はい」
「俺に好かれるようにするのは妻の務めじゃない。嫌われても、妻は妻だ。そうだろ?」
「……」
「そもそも妻はお務めじゃないよ。いいか、妻や夫と言うのは、運命共同体だ」
ロザリーは、両親の教えと全く違う意見が出て来たので少し混乱する。
「運命共同体……」
「俺たちは荒波の中同じ船に乗っている。そういう関係だ。だから仲良くやるとかじゃなく、生きるために一緒に上手いことやろうって間柄になったんだ」
「はい」
「好き好かれるのもその方法の一つだ。だが、必ずそうあるべきものでもない」
「はい」
「だからもっと、楽に行こうや。俺はいつだって楽にしていたい。ロザリーにも、楽にしていてもらいたいんだ」
ロザリーは〝楽=悪〟だと教えられて来たので、ヨシュアの言葉には賛同しかねた。
「楽をするわけには行きません」
「よく分かんねーけど、そんな苦しそうな顔すんなよ……」
ヨシュアが少し悲しそうに笑ったので、ロザリーははっとした。
「すみません」
「まあいい。お互いこういうことに慣れていないんだ」
「はい」
「まずは慣れよう。じゃあ、まずそこのベッドに入って」
「!」
ロザリーは身構える。そういったことに関しては、両親も教師も何も教えてくれていなかった。
ヨシュアは見透かしたようにふうとひとつ息を吐いた。
「〝教わってない〟って、顔に書いてあるぞ」
「!!」
「気に入られたいと言う割には……だな。多分、ロザリーもそこら辺の令嬢と同じく両親や教師に厳しく、そして無垢に躾けられたんだろう。まあいい、ロザリー。こういったことに関しては強要したくない。君のやりたいようにやれよ」
ロザリーは再び衝撃を受けた。
やりたいようにやれと言われても、やりたいようにしたことなど一度もなかったのだ。
「……どうした?」
ロザリーは少し目眩がした。
これからやりたいことを見つけなければならないと思うと、とてつもなく気が落ち込んだのだ。
「やりたいこと……?」
「ないのか?」
「私はやりたいことは、ありません。ただ、完璧になりたいと思っています」
ヨシュアは目を見開いた。
「完璧?」
「私は完璧でなくてはならないのです。妻の仕事を完璧にこなし、誰からも愛される女でなければならない。両親からそう育てられました。そうでなければ、女は生きている価値がないと」
ヨシュアはそれを聞くと、いかにも面倒くさそうに頭を掻く。
「お前……俺みたいなしょーもないおっさんにそんなこと言ってどうすんの?」
身構える彼女に近づいて、ヨシュアが呟く。
「ま、君がそこまで完璧な女になりたいんなら……」
ロザリーの頬に、その手が触れた。
「まずは完璧なキスをしようか」
ロザリーは真っ赤になって固まった。
「か、か、完璧なキス?」
「だって今、完璧になりたいって言ったじゃん」
「し、知りません、そんなこと……!」
「キスは習ってない?」
「!習ってません……」
「じゃあ教えようか、今から」
「!!」
「何度も教えたら、完璧に出来るようになると思う」
「!」
ヨシュアの顔が近づいて来た。
ロザリーは真っ赤になり、思わずしゃがみ込んでしまった。
その様子を見下ろして、ヨシュアはあははと笑う。
「可愛いな、ロザリーは」
ロザリーは両手で燃える顔を覆った。
「結婚生活は多分、習ってないことの連続だ。覚悟しろよ、ロザリー」
次の日。
完璧に食事を終えたところで、ヨシュアが言う。
「あとロザリーが習ってないことって、何だろう」
ロザリーはぎくりと肩をこわばらせた。
「夜伽は最後のレッスンということにして……」
「!」
「デートは習ったことある?」
ロザリーはくらくらした。
「あ、ありません……」
「君のご両親は随分だな。夫に気に入られろと教えた割には、肝心なことを何も教えていない」
ロザリーはふと、ヨシュアに顔を向けた。
「ヨシュアは……デートをしたことがあるの?」
ヨシュアは潔く言い切った。
「ない!」
「……」
「俺もこの国にいる間は、両親から厳しく恋愛するなと言いつけられて来たからな」
ロザリーは少し肩から力を抜く。
「……ヨシュアも?」
「どこの家の親もそうだろう。結婚相手は親が決める。子に決められたら困る」
「……」
「だから、俺は自由になりたくて船に転がり込んだ。国を出て、何もかも自分で決めたかった。誰かに言われてその通りに動く人生だけは嫌だったんだ。ぼっちゃん扱いされるのが嫌で無駄に背伸びして、がむしゃらにやって。そんなこんなで、結局特定の相手は出来ずじまいだった……」
ロザリーは少し引っ掛かりを覚えた。
「ならばこの結婚は……なぜ、あなたが私を……?」
ヨシュアはがたんと席を立つ。
「外へ出ようロザリー。二人で完璧なデートをするぞ」
久しぶりに街に出たロザリーは、夫の腕に寄り添いながら歩く。
男性とこうしていると、どこか気恥ずかしい。
その感情も、ロザリーに初めて湧き起こる感情だった。
「この通りに来るのは初めてか?」
「いいえ。何度か来ています」
ヨシュアは予想通りの言葉を聞けたようで、少し笑う。
「そうだよな、ここで見かけて……」
「?」
「ああ、そう。ここ、ここ」
ヨシュアが指差したのは、かつてロザリーが通い詰めた刺繍の店。
「……ここ、刺繍のお店よ?」
「ああ、そうだな」
「ヨシュアがなぜ、刺繍の店なんかに……?」
ヨシュアは笑ってはぐらかす。
店内に入ると、小さな額縁やリネン類、ふっくらとした刺繍糸の束が二人を待ち構えていた。
ヨシュアは店の奥にいる店員に声をかける。
「この前注文したのはある?」
「はい、こちらに。でも、おっしゃっていただければお届けしましたのに」
「刺繍糸を切らしたから、すぐに欲しくて」
「そうでしたか。しばらくお待ちください」
ぽかんとするロザリーの前に、色とりどりの刺繍糸が差し出される。
ヨシュアはそれを眺めながら彼女に言った。
「前、この店に絵画のような刺繍を飾っていたことがあっただろ?」
ロザリーはハッとした。
「は、はい……」
「あの絵画を誰が刺繍したのか、店主に聞いたんだ」
「!」
「ロザリー・ド・レティエ。君だった」
そうだった。
この刺繍糸の店と懇意になり、三年前、向こうに乞われるまま自作の刺繍の絵画を譲ったことがあった。
「あんまり凄かったんで頼み込んで、俺はその刺繍絵画を売って貰った」
「!」
「気づかなかったか?今はそれ、俺の部屋に飾ってあるよ」
ロザリーは真っ赤になる。
「そ、そういうことは早く言って……!」
「それからは、俺は君を目標に刺繍を練習したんだよ。また船に乗っている間、頑張ろうと思えた」
「?」
「実は俺、刺繍が趣味で」
ロザリーは毒気を抜かれた。
「へっ!?」
「船乗りってのは長い航海をするから、手慰みをするものなんだ」
「そうなの?」
「編み物が最大派閥だな。次点で楽器、刺繍は少数派」
「……」
ロザリーは〝完璧な〟刺繍をした時を思い出した。
家に閉じ込められ、未来の顔の見えない夫のために、ひたすら頑張り続ける日々を。
刺繍で絵画を作るのは、自分としてはかなりの大冒険だった。たまには大きな作品を作ってみたくなり、ああいった変わり種を生み出すに至った。
やはり刺繍と言えば、夫や家族の服飾品に刻むもの。
あのように「無意味な」刺繍は、親からは余りいい顔をされなかったのだ。
だから刺繍店に展示品として乞われた時には、とても嬉しかったことを今でも覚えている。
「あなたがそんなものを見ていたなんて、知らなかった」
ロザリーの言葉に、ヨシュアはようやく素直な笑顔を見せる。
「君に憧れたんだ。一気にファンになってね」
「……ファ、ファン?」
「で、独自に調べてみたらその当時、君はまだ16歳……ちょっと若すぎる」
ロザリーは赤くなってうつむいた。
「でも、それをきっかけに君を知って、また俺は刺繍に奮闘したわけだ。あの完璧な刺繍絵画と再び船に乗り──」
ヨシュアは少し懐かしそうに彼女を覗き込む。
「呼び戻されて帰って来たら、まだ君は嫁に行ってないって聞いたから」
ロザリーは夫の瞳を眺める。
もう彼女の瞳に、彼への戸惑いや侮蔑の色は浮かばなかった。
「そうだったんですね……」
ヨシュアもそれを認め、頷いた。
「さあ、そろそろ店を出ようか。美味しい店があるんだ」
最後にロザリーが連れて来られたのは、港だった。
「あれが、俺が乗っていた商船だ。親戚筋が大商会の血族だったのが縁で」
夕陽が沈む港。物心ついてから港に出たことがなかったロザリーは、海に沈む夕日に目を奪われた。
「……綺麗ね」
「そうだな」
「あの夕陽を刺繍したいわ」
「いいんじゃないか?ロザリーなら出来るよ」
ロザリーは夕陽を目に焼きつける。
と、ヨシュアの手がロザリーの背中に触れた。
「?何でしょう」
「言っただろう。完璧なデートをするって」
ロザリーは我に返り、夕陽より顔を赤くする。
「あの、まだ心の準備が……それに周りに人がいますし、えーっと……」
ヨシュアの顔が近づいて来る。
彼女は何のかんのと言うものの、〝完璧〟な光景の中、彼の真剣な眼差しに抗うことは出来なかった。
ロザリーは、人生で初めてのキスをした。
思い出に残る、理想的なキスを。
唇を離してヨシュアが問う。
「……〝完璧なキス〟だったか?」
ロザリーはくらくらしながら額を拭うと、頷いてふわりとはにかんだ。
「そうか……よかった」
ヨシュアもにっこりと笑った。
三か月後。
ヨシュアの部屋に、夕日の刺繍絵画が追加された。
「よし、これで毎日完璧なキスが出来るぞ」
ロザリーは刺繍枠の中に花束を刻みながら笑う。
かつてはそんなに楽しくなかった刺繍仕事だったが、夫と一緒に出来る今は、とても楽しい。
「もう、ヨシュアったらまだそんなことを言うの?私もう、完璧は卒業したのに」
今、ロザリーは思う。
二人でいれば、いつだって完璧なのだ。
その言葉は、誰かと比べたり自分を縛るための言葉ではなく、誰かや自分を解き放つためにある。
そのことを、彼が教えてくれた。
完璧という言葉はすっかり完璧らしさを失って、今や二人の遊び道具になっている。
「ほら、早くこっちに座れ。完璧な妻よ」
「分かったわよ、もう……」
ロザリーは刺繍枠をベッドサイドテーブルに置き、ベッドに腰掛けると、ヨシュアとついばむようなキスを交わした。
テーブルには、真新しい刺繍枠がふたつ。
完璧な幸福が、今はここにある。