夏の渚にお勉強を賭けて 1 (六話目)
時は流れ、肌にべっとりと汗が滲むような季節、夏の到来が霞んで見えていた。
「夏休みが近くてお前らは浮かれているだろうけど、それと同時に夏季定期試験が待ってるんだからなー」
先生のそんな一言に、クラス内はみんなブーイングをするように不安を垂らす。
「俺に言うなよ。大体先生だって試験は辛いんだからな? テストを作って、退屈な監督をやって、不眠不休で採点をやって……」
ため息をつけば、日程を黒板に書き終えチョークを置き、力なく椅子に座りこんだ。
「……先生だって、辛いんだからな?」
枯れたような笑顔で生徒たちに話すその姿は、間違いなく先生であるのだが、どこか闇を見た気もしなくもなく。
表情だけで生徒たちのブーイングを止めて見せた。
「あの、新城くん」
「どしたー?」
「夏休みは一緒に海に行くんですから。赤点で追試や補修だけは避けてくださいね?」
「俺もそれは嫌だからなー……そうだっ」
思いついたように手を叩けば、席を立って三莉の机に乗り出した。
「だったら三莉さん。俺に勉強教えてよ!」
「……私にもテストがあるのによく罪悪感無しでそんなこと言えますね」
「あれ? なんか結構冷たくない? ……ってことは、やっぱり駄目?」
「別に、誰も教えないなんて言ってませんよ。放課後にちょっとだけっていうならば、私は全然構いませんよ?」
「おっしゃ! 三莉さんから教えてもらえさえすれば赤点不可避は回避だよ!」
「よくわからないけど、とりあえずは平気そうってことなんですよね?」
その言葉に自信満々に頷いてみるが、それは三莉に教えてもらう過程を含むことから、どこか情けなくなる。
「普通は男が手取り足取りで女の子に教えるのがベタなんだけどな」
「そうですか? 新城くんがさっき言ったようなことは少女漫画の中では王道ですけど」
「言われればそうだけど……三莉さん的には勉強をおしえることに対して特に何も感じない?」
「普通に楽しみですよ。私先生とか憧れてますので」
「……おままごととかはやめてくれな?」
「そっ、そんな子供っぽいことはしませんよっ! 私はほんとに心配しているんですからね!」
俺の言葉に顔を背ければ、ツンとしたままの態度で鞄から教科書などを引っ張り出した。
「あれ? どっか図書館とかファミレスにいったりしないの?」
「それはそれでいいんですけど、どうやら他にも興味を持たれた方が居るみたいなので」
その言葉を発した先に見えたのは、太ってたり眼鏡を掛けたり髪が長かったり。
いわゆる陰キャの集団がいた。
「冬真の彼女さんが勉強会をやると聞いていたのでな。悪いが邪魔させてもらう」
『邪魔しまーす』
「……邪魔しに来たんだったら別に帰ってもいいんだからな? あと彼女じゃないし」
「おうふっ、こちとらみんな赤点が懸かっておるのでな! ここで引くわけにはっ」
『いかんのだよっ!』
「いや、お前ら本当に勉強しに来てるんだよな?」
いきなりうるさくなった周囲に自然と頭を抱えて三莉の方を見ていた。
それに気づき、こちらに微笑みを向けてくる。
「新城くんの友達さんたちが何やら困ってそうだったので、つい誘っちゃいました!」
「ついって。まあ三莉さんが誘ったなら俺は何も口出しはしないけど。一遍にみんなの勉強見て自分のは大丈夫なの?」
「勉強しなくても平均点以上を取る自信はありますから。というよりも、新城くんは手の掛からないほど理解できてくれればいいだけですからね!」
「あれ? これ死刑宣告? 俺死刑先行されたりしてない?」
「大丈夫です! ちゃんと寝る時間は作るつもりなので」
「作るってなに!? 俺そこまで勉強してたら知恵熱出すよ!?」
「知恵熱……かわいいですね!」
「だから何!? ほんとその笑顔の正体はなにぃ!?」
俺のそんな絶叫が、地獄の勉強会の始まりを示していた。
*
頭がパンクしそう……。
流れ込んでくるのは文字の乱列。答えられるわけもないのに必死に解こうと無駄に糖分を消費し続けるだけで、勉強とは程遠いものだった。
「あとどれくらいで課題終わりそうですか……って、大丈夫ですか?」
心配の気を掛けられた途端、俺は駄々っ子のように机に顔を埋めた。
「もう、駄目かもしれない」
「……死ぬのか、お前」
「あぁ。消えないけど」
「そうっすか……」
いつもなら盛り上がるはの会話だが、当然盛り上がらない。
机に伏したまま辺りを見渡せば、三莉は相変わらずの微笑みで勉強しており、その他はみんな死んだような顔で課題のプリントと睨めっこをしていた。
「あ、あの三莉さん?」
「どうしました? わからないところでも? それとも終わりましたか?」
「いや、そういうんじゃなくて。そのそろ休憩の方を入れたいなーって思いまして」
「……それでは、みんなやっているプリントが終わったら、休憩しましょうか」
「え? だから今すぐ休憩したいなーって」
……そういった俺の言葉は正かったはず。
今までそこまで勉強をしてこなかった立場で、教えてもらっている上で物申すのは気が引けることなのだが。
これほどまで無理矢理の勉強で頭に入るのだろうかという疑いを持ってしまうのは確かなことである。
だから言ったことだったのに。
「そのプリントが終わったら、です」
「いや、だから」
「プリントが終わったら――わかりましたね?」
「はっ、はい」
すまない、お前たち。
心の中で謝りながら視線を配ってみれば、そこには恨めしそうな目で見てくる男三人衆の絵があった。
というかそんな目向けるんだったらお前らが自分でやればいいだけだろ
下らない、なんて思いながらも自分のプリントに目を落とした。
「……三莉さん、ちょっと面倒かけてもいい?」
「面倒はもうかけてますけどね。いいですよ、どこがわからないんですかっ?」
どこかワクワクとした顔で席を少し近づけてくる。
先ほどから肩を並べる距離であったためもあり、近づいてくれば強い匂いも感じれるのではと思うほど近くなった。
「えーっと、例えばこれだとこの公式とこの公式の見分け方を覚えるところから始めたほうがいいですね。そうすればこの系統の問題は解けるようになるから……って、教科書すごい落書きしてますね」
「キャ、見られちゃった」
「……はぁ。それじゃあ解いてみてください」
「ほいさー」
言われるがままに教えられた公式を当て嵌めてみれば、あらま不思議。何も突っかかることなく解けたのだ。
そして次の問題。これも教えられたもう一つの方の公式を使って、そして解ける。
「あれ? 俺頭良くなった?」
「頭は良くなってないけど、賢くはなりましたね」
「えっ? ほんと?」
「はいっ。ですからこの調子で頑張ってみてください」
「おっし! やったるで!」
やっぱり褒められるというのはすごいものだ、それもただ褒めてくるだけじゃなくて、気になっている子から。
自分で小学生かって突っ込みたくはなるけど、それでも自然と気分が舞う。
「それじゃあ皆さんも。わからないところがあったら言ってくださいね? 教えちゃいますから!」
三莉がそう声を張り上げれば、それに間髪入れずに手が上がった。
「教えてほしい! 全然わからない!」
そういうのは、見た目を気にしている隠れオタクの右田宮だった。
「えっと。どこがわからないんですか?」
机を覗き込むように正面にある右田宮のプリントを見る。
そしてすぐさま顔色が変わっていき笑顔も引き攣った。
「全部! わからない! あははっ」
敵わないと言わんばかりの態度の右田宮は明るく笑っているが、教えを求められた三莉は瞳に絶望の色を宿していた。
「まさか同い年の人にここまでのことを言われるとは。先生の気分も少しわかりますね、これ」
そういうと、三莉は自分がやっていたプリントを鞄に仕舞い込み、教科書を大きく広げた。
「では順に追って説明をしていきますので、聞き漏らしNGですから! そしてお二人もわからないところがあったら適当に聞きに入ってくださいね」
まるでメガネでもかけているかのように鼻骨付近に指を宛がい、感触のない指を不思議そうに眺めながら、教科書に指を指す。
「それでは、まずはここから始めますよ? 先生と生徒の、居残り授業です!」
笑顔でそう言うと、本当に授業が始まった。
え? 俺? もちろんプリントが終わったら休んでましたよ?
*
テストに向けての勉強から一週間が経った頃。
右田宮や他二人はだんだんと正解率を上げていき、そして俺というと、成果のないまま過ぎていった一週間になった。
「これ、少し頑張らないとヤバいかもですね」
「やっぱり?」
「えぇ。本当に最初に迷惑をかけないようにするじゃなかったでしたっけ? 「赤点不可避回避で余裕!」とかって言って遊んでましたけど」
「うっ、それは俺が悪い……けどそのジト目やめない? 結構かわいいよ?」
「もうそんなこと言われてもトキメキませんよ。だから今日は」
「……今日は?」
無駄に間をためてくる三莉に、自然と生唾を嚥下した。
俺の切迫するような顔とは裏腹に笑みを浮かべている三莉の顔から察するにそこまでのことはないだろうけど。
本当に何をするんだろうか。
ゴクリ、と再度生唾を飲み込んだ後に、三莉の口は開いた。
「今日は新城くんの家で勉強会を開きましょう!」
「俺の家……俺の家ぇ!?」
「そうです!」
「なんで三莉さんそんなに嬉しそうなの!? ってかお前らも来るの?」
「おうよ」
「僕らも赤点は回避できるだろうけど、心配だからね」
「俺は絶対、この勉強会には最後まで残りたいな」
「あっそうですか」
珍しくあそこまでの満面の笑みを浮かべる三莉に対して肩を竦める。
ここで勉強するだろうと見込んで片付けなかった教科書を急ぎで鞄にしまい込んだ。
「来てもいいけど、お前らは早めに帰ろよ? 母さんが見たら飯とか出しそうだから」
「え? 私は大丈夫なんですか?」
「まぁ。もし食ってけなんて言われたら俺が奢るからファミレスとか行こうぜ?」
「そんなの悪いです。私も帰りますし……」
「ねえ、わかんない? 二人で勉強したいってこと」
そっと耳打ちするように言い、三人に気を配ってみても気づく様子はなく首を傾げるだけだった。
「……ごめんなさい。盲点でした」
三莉に至っては突然のことで恥ずかしがっているのか頬を赤く染めては俯いていた。
「それじゃあ。さっさと行こうぜ? 早くしないと時間が無くなっちまうよ」
そう言って席を立ち鞄を肩に担ぐように持てば、後を着いてくるようにみんな席を立つ。
そのまま教室の扉を潜れば、俺の家まで向かった。