57話 変な人
「それでは今日は、各パートに分かれて、歌の練習をします! ソプラノさんは教室の前、アルトさんは後ろに集まって――」
2分の1成人式の練習が本格的に始まって、数日が経った。
といっても、まだ歌の練習しかしてないんけど。
お手紙とか、通し練習とかはもう少し後になってからはじめるらしい。
最近は朝の歌の時間も2分の1成人式で歌う曲を歌うから、みんな大体の音程はつかめてきて、今日みたいなパート練習の後は、みんなで合唱するようになった。
れいちゃんね、ソプラノのわたしとはパートがちがうんだけど、歌ってるときにアルトパートからこっそり変顔とかしてくるの。
そのせいでわたしは毎回笑っちゃって音程がわからなくなっちゃうんだけど、そのおかげか、すぐにタイミングを見つけて合唱に戻れる技を習得したんだ。
わたしのクラスのソプラノのパートリーダーさんに音を教えてもらいながら、ソプラノだけで歌を歌う。
『あなたに会えてよかった――』
この歌詞を歌うたび、忍を思い出す。
『え、行くよ、絶対行く』
2分の1成人式のお知らせを渡したとき、忍の顔とセリフは予想とまったく同じだった。
思わず笑っちゃったら、忍は不思議そうにまばたきしてたけど。
だって、うれしかったんだもん。
昔はお母さんによろこんでもらえると思ってしたことが、逆にお母さんをイラつかせてしまうことが多かった。
たとえば、幼稚園で覚えたダンスをおどってみせたら「すごいね」って頭をなでてもらえると思ってたのに、現実では「だからなんだよ、こっちは疲れてんだぞ」って頭をたたかれたり。
だけど、忍はどんな小さなことでも思った通りの反応をくれるどころか、むしろ想像以上にほめてくれることのほうが多い。
忍の誕生日にサプライズで初めて1人で晩ご飯を作って大失敗しちゃったときも、台所もおなべも大変なことになったのに、仕事から帰ってきた忍は、
『え! 作ってくれたの!? すっごくうれしい! ありがとう!』
って。
絶対怒られちゃうって思ってたのに、全然おいしくなかったのに、忍はずっとニコニコうれしそうに食べてくれた。
食べ終わって一緒に片づけをしているときに、ただやんわりと、『包丁と油を使うときは、けがしないように気を付けてね』って言われただけ。
もちろん本当に叱られることもあるし、そのときの忍はすっごく怖いけど、ひとしきり注意が終わったらいつもの優しい笑顔をくれるし、絶対に手を出したりしない。何より、忍が本気で怒るのは、わたしが自分でもいけないことをしたって思うようなことをしでかしたときか、危ないことをしたときだけだ。
本当に、忍に会えてよかった。
今、本当にしあわせなんだよ、ありがとうって、2分の1成人式で忍に伝わればいいなぁ……。
「数えきれなーいー瞬間にー」
誰もいないオレンジ色の空の下を、わたしは少し大きめの声で歌いながら歩く。
ほんとはいつもみたいにれいちゃんと帰るつもりだったんだけど、れいちゃんは今度参加することになったドッヂボール大会の放課後練習が今日から始まることをすっかり忘れていたらしい。
同じクラスのチームメイトの子たちに引きずられていっちゃった。
れいちゃん、ドッヂボールがすっごく強いの。
ううん、ドッヂボールだけじゃない。体育なら女の子の中ではれいちゃんがいつも1番。わたしは運動へたっぴだから、れいちゃんがキラキラ汗を流してるのかっこいいなぁって見てるんだ。
そんなれいちゃんを見たいのもあって、わたしも練習が終わるまで待ってるよって言ったんだけど、どれだけかかるかわからないし、もしかすると遅くなるかもしれないからって断られちゃった。
それでも待ってるよって言いたかったけど、さっき言ったみたいに、れいちゃんはチームメイトに引っ張っていかれちゃったから言えなかった。
だから、勝手に待っとこうと思ってさっきまで教室で宿題とかれいちゃん見てたりとかしてたんだけど、最終下校時刻のチャイムが鳴っちゃって、先生に早く帰りなさいって追い出されちゃった。
れいちゃんたちはチャイムが鳴ってもまだ決着がついてないからドッヂボールを続けていたし、わたしはわたしで途中まで先生が帰り道を一緒に歩いて見送ってくれた上に、そもそも待ってるってれいちゃんに言ってないから、おとなしく帰るしかなく。
でもでもやっぱり1人の帰り道は寂しいから、とりあえず2分の1成人式で歌う歌を歌っているというわけデス。
長く伸びる影を見ながら石ころをける。
ころころ転がっていく石を追いかけて――――
ふと、気づいた。
誰かがわたしを見ている。
そこで、前にも同じような視線を感じたことを思い出した。あの時は気のせいだと思ったけど……
石がつま先に当たる。
完全に足を止めてしまったわたしは、ヒュッと息をのんだ。
夕暮れに伸びる影ぼうし。
わたしの影に被さるように、誰かの大きな黒い影が近づいていた。
振り返る。
その人が足を止めた。
大きな男の人。
逆光で顔が見えない。
声が出ない。
視界のはしっこで、その人がゆっくりと手を握り込んだ。
かすかに息を吸う音が聞こえた瞬間。
「ゆい!!」
ガンッ
硬いものがぶつかる音がして、男の人が背中をおさえて座り込んだ。
その瞬間、グイッとうでを引っ張られる。
「れいちゃ……っ!」
「結! 走れ!!」
鋭い声でそうさけぶと、れいちゃんはそのままかけ出した。
わたしの手を引く手の反対側の手は、水筒の肩かけひもがぐるぐると巻き付いている。
れいちゃん、汗だくだ。
きっと先生から話を聞いて、すぐに走って追いかけてくれたんだろう。
全力で走ってる真っ最中なのになぜだか力が抜けてしまいそうになって、わたしはあわてていつもの倍は動いている足で強く地面をけった。
「「ただいま!!」」
運動会のリレーの後みたいに息を切らして家に飛び込んだわたしたちを見て、れいちゃんのお母さんはパチパチとまばたきをした。
「……あんたら、どしたの?」
「かあちゃん聞いて! さっき変なヤツに会ったんだよ!」
「変なヤツ?」
「なんか黒い服着てでっかくってさ! 結の後ろに立ってたんだよ! それで……」
わたしが息を整えている間に、れいちゃんが手を大きく振りながら話してくれる。
れいちゃんのお母さんは話を聞きながら、だんだんと眉根を寄せていった。
わたしが深く息をついたとき、れいちゃんのお母さんが口を開いた。
「……話はわかった。まだそいつが近くにいるかもしんないから、今日は忍に迎えに来てもらおう。とりあえず、結はうちに上がりな。んで、玲。あんたはよくやった」
そう言って、れいちゃんの頭をポンポンした後、リビングに戻っていっちゃう。
たぶん、忍に電話をしてくれるんだろう。
れいちゃんを見ると、彼女はなでられた頭を押さえてお母さんの背中を見つめていた。けど、ふと、かみしめるように誇らしげに、小さく笑う。
いつも喜怒哀楽を大げさなくらい表現するれいちゃんの、お母さんにほめられたときだけに出すこの笑顔がわたしは大好き。
かっこいいれいちゃんが本当にかわいくなるの。
わたしもれいちゃんの顔をのぞきこんでお礼を言った。
「れいちゃん、助けてくれてありがとう。ケガしてない? 水筒も大丈夫?」
さっき、れいちゃんが手を引いてくれる直前、何かがぶつかる音がした。
わたしはその瞬間を見てなかったけど、たぶんれいちゃんが水筒をあの変な人の背中にぶつけたんだと思う。
おかげでわたしは逃げられたけど、もしかしたらはねかえった水筒がれいちゃんに当たってたかもしれない。
怖かったけど、助けてくれてうれしかったけど、れいちゃんが危ない目にあうなんて、絶対やだよ。
れいちゃんはきょとんとまばたきして、そのあとニパッといつもの笑顔になった。
「だーいじょうぶだよっ! あたしもあたしの水筒も、あんなヤツに負けるほど弱くねーから!」
そう言ってぐしゃぐしゃっとわたしの髪をかき混ぜる。
「わわわっ れいちゃんやめてよぉぉ」
「あははっ ほら結、早くうちに入ろう」
背中を押してくれる手はあったかくて、わたしはこみあげてくるのどの熱さを飲み込んだ。
れいちゃんのお母さんからの電話を聞いて、忍はいつもよりもずっと早い時間に仕事から帰ってきた。
迎えに来た忍は、朝のきれいでピシッとしたスーツ姿からは想像できないくらいぐっちゃぐちゃのボッサボサで、息も切れてるし、すっごく急いで帰ってきてくれたのが見て分かった。
「結、ケガはない!?」
言いながらわたしを頭からつま先まで確認して、なんともないことがわかると、ほーっと息をつく。
そのままわたしを抱き寄せて、ぎゅうぅぅっとうでに力をこめた。
汗のにおいと体の熱さが近い。
「忍、心配かけてごめんね」
そう言うと、忍はわたしを抱きしめたまま首を振った。
「何言ってるの。無事でよかった」
その声が優しくて、ほっとして、さっきがまんしたはずのなみだがあふれてくる。
……もう大丈夫だ。忍が来てくれたもん。
忍の首に手を回すと、忍は何も言わずに頭をなでてくれる。
「渚沙さん、ありがとうございました」
「ん。帰り道、気をつけなね」
「玲ちゃんも、結を守ってくれて本当にありがとう」
「いえ! これからも結のことは任せてください!」
「ふふ。頼もしいね」
耳元で、忍がれいちゃんのお母さんとれいちゃんにお礼を言っている。
わたしもお礼を言わなきゃって思ったけど、たぶんわたし今顔ぐちゃぐちゃだし、声を出して言えそうにない。
ふと、視界のはしっこになぜかれいちゃんの服が見えて、顔を上げる。
と、目の前にバーンっとれいちゃんの新作変顔!!
「うわあぁぁあははははっ!」
びっくりと笑いが同時に起こって、わたしは思わず忍から体を離す。
顔全部を横に引っ張ってベロを出しつつ白目のれいちゃんは、今度は目と鼻の間を上に引っ張り白目かつ上目遣いでニタァっと笑う!!
「あはははははははっ!! なになにれいちゃん怖い!!」
笑い転げていると、れいちゃんはふっと顔をもとに戻して、にっこり。
あ、もしかしなくても、元気づけようとしてくれた?
「……あんた、変顔選手権出れるよ。応募してきな」
「…………すごい」
れいちゃんのお母さんは真面目な顔で、忍はほんとに尊敬って顔でれいちゃんを見てる。
それもまたおかしくて、わたしはつい吹き出してしまった。
違う意味でまたなみだが出てきちゃったよ。
「れいちゃん、ありがと」
「おう!」
少し落ち着いたわたしは、れいちゃんのお母さんに向き合ってペコリとおじぎ。
「れいちゃんのお母さん、ありがとうございました。おじゃましました」
「はーい。またいつでもおいでね」
「はい!」
そのあと、忍とれいちゃんのお母さんがちょっとだけ話して、わたしたちはれいちゃんの家を出た。
れいちゃんたちはわたしたちが見えなくなるまで玄関でお見送りしてくれていた。
そんな2人に手を振って、わたしは忍と手をつなぐ。
「ねえ、忍」
「ん?」
「わたし、すっごく良い友達がいるの」
「……そうだね。大事にしようね」
「…………ねえ、忍」
「うん?」
「……急いで迎えに来てくれてありがとう」
「……当たり前だよ」
夕日が沈んでもう暗い。
こんなに遅くに外に出ることがあまりないからそわそわする。
でも、握った手のぬくもりはたしかで、それだけで安心できる。
何気なく握った手をゆらしたその時、急に忍の手の力が強くなった。顔を上げると、忍が前を向いたままわたしの前に立つ。
ピリッとした空気を感じて、忍の視線の先を見て――。
街灯の下に、誰か、いる。
というか、あれ、さっきの変な人?
相変わらず顔は見えないけれど、身長と恰好が似てる。
なんで? ずっと待ってたってこと?
つないだ手の反対の手で忍の服の袖をつかむと、忍の手が重なった。
張り詰めた空気の中、深く息を吸う音がする。
じりっと忍が後ろに下がろうとしたその時。
「あの、そこにいる女の子って、結ですか?」
突然名前を呼ばれてハッとする。
この人、わたしを知ってる……?
「どなたですか」
忍のかたい声。
その人は、ゆっくりとこちらに歩いてくる。
街灯の白い光に、彼の顔が照らされた。
その瞬間、わたしは「あっ」と声を漏らす。
「私の名前は田辺正晴。島田結の――実の父親です」
大変長らくお待たせいたしました!
カゾクアイ再開です!
もうしばらくお付き合いいただけると幸いです。