彩りの玉
今夜の花火に備えて、早めの時刻にホテルへ戻る。
フロントで鍵をもらおうとして、
「街歩き用の浴衣のサイズなんですが……」
隣から亮がスタッフさんに話しかける。
担当者らしき年配の女性が、奥から呼ばれて。
「こちらで用意してあったLサイズが、おはしょりがないくらいジャストサイズで……」
って亮の説明に二回ほど頷くと、
「当館のLサイズを着られる方でしたら、サイズがございますよ」
私に向けて、安心するような笑みをみせてくれる。
「ただ、若干、お色が限られますが」
うん、まあ。それは仕方がないよね。
仕方がないとはいえ、ピンクとかの若い子向けはちょっと……って、思っていたけど。
部屋で待っていた私たちのところ持って来てくれたのは、オーソドックスな紺色と、渋めの芥子色の二着だった。
「こっちの黄色い方が、似合いそうだな」
亮がぱっと見て指さした方を羽織って、広縁に置かれた鏡台で見てみる。
普段の私なら、紺色の方を着るだろうけど、せっかくの旅先。いつもなら着ないような色にチャレンジしてみるのも、良いかもしれない。
実際に袖を通してみると、思った以上に顔映りも良いし、なによりも扇面を散らしたような大きめの模様が気に入った。
そのまま芥子色の方を一式、借りることにして、夕食の前に大浴場へと向かう。海水浴場でもシャワーは浴びたけど、やっぱり砂とか塩とかが気になるから、お風呂には入っておきたい。
今夜は、花火を見る宿泊客に合わせて、早めの夕食パターンも設定されているらしい。
外はまだ明るいけど、ダイニングは昨日と同じくらい、テーブルが埋まっているようだった。
食べながら、出かけるまでの段取りを相談する。
「着替える前に、もう一度シャワーだけ浴びようかな……って思っているんだけど」
せっかくの浴衣だし、さっぱりとして着付けをしたいから、部屋のユニットバスを使って……と考えて、
「その間、亮はどうする?」
炊き合わせの鉢に箸を伸ばしながら、訊ねると
「お前、自分で着付けはできるのか?」
逆に、亮からも訊かれる。
「できないって言ったら……どうする?」
まさか、亮ができるとか思わないけど。
「手伝ってくれるようなサービスもあるみたいだぞ?」
「あー、まあ。一応は着れるから、大丈夫じゃないかな?」
この歳だしね。それ相応に、経験なんてものも積んではきている。借りた浴衣に簡単な着付けマニュアルも付けてくれていたし。
そんな私の答えにホッとしたような顔で、亮がお吸い物に口を付ける。
「で、亮はどうする?」
「ロビーででも、時間をつぶすよ」
さすがに、着替えを横で見られるのは恥ずかしかったので、それは助かるのだけど。退屈じゃないかな? って、思いながらお茄子の天ぷらにお塩をつけて、一口齧る。サクサクした歯応えを楽しんでいて……閃いた。
「亮さ、今日はまるっきり"弾いてない"じゃない?」
「ん? ああ、鍵盤か?」
亮は『完全に鍵盤を触らないと、指が鈍る』と言って、私が彼の部屋に泊まっている日も、食事の支度中だったり、私がお風呂に入っている間だったり……と、ちょっとした合間に練習をしている。
「一日くらい、たいしたことはないって」
「ここ、弾けるよ?」
「マジ?」
大したことないとか言っておきながら、目の色が変わった。
ロビーに置いてあるグランドピアノも、フロントで頼めば弾かせてもらえたように思うけど、もうちょっと人目につかない場所がある。
「大浴場のフロアにね、カラオケルームと、二つだったか、三つだったかな? 防音室があって、うちの楽器が弾けるようになってるの」
さすがに最新機種ではないけれど、亮の部屋に置いてある型落ちキーボードよりは新しいだろう。他にも、ギターやベースもあったはず。
「さすが、メーカーの保養施設」
「仕事を離れたら触りたくない人と同じように、"仕事じゃないから"触りたい人が居るからね」
新しい機種が出るたびに次々と買い換えるわけにはいかないけど、やっぱり興味はあるから……色々触って遊びたい。
その気持ちは、技術屋としてわかるのよね。亮に比べて、ピアノの腕が残念すぎる私でも。
あとの予定を考えて、短時間で終えた夕食の後。
『着替えが終わったら、連絡しろよ』と言って、亮が手にした携帯電話を顔の横で軽く振って見せる。
数時間前に渡したストラップが、さっそく彼の側で揺れているのをくすぐったく思いながら、五階でエレベーターを降りて部屋へと戻る。
お財布と携帯電話だけを持った亮はそのまま、防音室のある最上階へと向かうらしい。
久しぶりに着る浴衣だったけど、マニュアルのおかげもあって、意外とスムーズに着ることができた。
鏡台の三面鏡で、見えない部分の乱れをチェックして、短い自分の髪を少しだけ残念にも思う。
大学生の一時期、髪を伸ばしていたことがあった。亮ほどの長さはなくても、あの頃くらい長ければ……こんな風に浴衣を着る時、様になっただろうに。
そう、例えば。
あのトンボ玉を私はブレスレットに仕上げたけど、簪を作っていればアップに纏めることができたんじゃないかな? って。
でも、そんなことを考えたのは一瞬のことで。
せっかくだから、トンボ玉のブレスレットもつけようか、と、頭を切り替える。
扇面の一部に茜色が使われているし、相性はいいと思うのよね。
『支度が終わった』と、亮の携帯にメールを送ったのがホテルが企画した"花火ツアー"の集合時刻の十五分ほど前だった。
ロビーで落ち合うつもりだったのに、すぐに送られてきた亮からの返事は
【帰ってきたから、ドアを開けてくれ】
で。慌ててオートロックのドアを開けると、そこに居たりなんかする。
「え? なんで?」
「そろそろかと、思ってよ」
そう答えた亮は、洗面台で手と顔を洗って、髪も結え直している。
なんだかスッキリとした表情でバスルームから出てくると、私をじっと見て。
「やっぱりその色、似合うじゃないか。馬子にも衣装だな」
「はぁ? なによ、それ」
ひどい言い草に、彼の胸元を拳で打つ。
まあ、私も本気で怒っているわけじゃないし、多分……褒めているつもりだろう。と、思いたい。
その証拠のように
「部屋の前で待ってた甲斐があった」
って、目を細めているから、私も笑って許す。
ロビーで点呼を受けてから、ホテル前に停めてあるマイクロバスに乗り込む。
「このバスは送迎用、か?」
私を窓側に座らせた亮が、隣から顔を寄せるようにして訊いてくる。ホテル名が車体に大きく書いてあったからね。今夜の花火のためレンタルしてきたマイクロバスってわけじゃない。
「最寄り駅から離れているから、予約の時に頼んでおけば、迎えに来てもらえるのよ」
「そうか、車がある人だけが客じゃないもんな」
「あと、団体で来るパターンもあるしね」
「ああ、職員旅行みたいな?」
"職員旅行"って。あれ? なんか微妙に間違えてない?
まあ、そんな言葉も、世の中にはあるのかもしれない。
「社員旅行だったら、最初からバスを借りるかもしれないけど」
もう少し、小規模な団体。
「系列の音楽教室の先生たちが、合宿研修をしたりね」
「へぇ。研修」
感心したような顔で繰り返した亮が、
「ああ、なるほど。防音室があるホテルってのは、ちょうど良いな」
って、納得している。
子供のころ、校区内にいくつかあったのは、先生が自宅で教えているようなピアノ教室だったから、少しシステムが違うのだろうけど。私や亮が習った先生たちも、それぞれの方法で研修みたいなものを受けていたのかもしれない。
そんな話をしている間に、全員が乗り終えたらしい。亮が椅子の背にもたれるように座り直した時、昇降口のドアが閉まる。
バス特有の大きな横揺れとともに、バスがゆるりと動き始めた。
さて、今日最後の予定へと、出発だ。
夕焼け空の下、定員の八割くらいを載せてバスが走る。海へ行く時に左へと曲がった交差点から二つ目の信号で左に。鈍角で曲がった感じからして、海への道とは段々と離れていくように進んでいっているのだろう。
ホテルを出てから二十分ほど走って、草野球のグランドのような所でバスが止まる。
花火大会の会場からは少し離れてはいるものの、周りに高い建物のないグランドは川沿いに視界が開けていて、絶好の観賞ポイントらしい。私たちがバスを降りる前から、既にいくつかのグループが思い思いに始まりを待っている。
「あちらの方角に、花火はあがります」
バスを降りたところで、簡易ウチワを1人ずつに手渡しながら、運転手さんが暗くなり始めた空の一角を指差す。
お礼を言って受け取った私たちも、舗装のされていない駐車場からグランドへと降りて、真ん中よりも少しだけ奥の方まで進む。
一塁と二塁のベースのちょうど真ん中あたりが、他のグループと互いに邪魔にならない感じかなって。
『あと……五分ほどだな』って、腕時計を確認した亮の声に頷いて、軽くウチワで顔を扇ぐ。
昼間に比べると涼しくはあるのだけど、なんとなくウチワって、持っているだけで扇ぎたくなるじゃない?
「綾、暑いか?」
そう言って、横からも風がくる。『大丈夫』って答えると
「そうか」
って言葉と一緒に、亮が動く気配。
ちょっと! なんで背後から抱きついてくるのよ!
「亮は、暑くないわけ?」
こめかみの辺りに感じる、亮の頬の感触に風を送ってやる。
「このくらいの暑さ、暑いうちに入らないだろうがよ」
「暑いわ!」
言い返して、ウチワで絡みついている腕を叩くと、ケラケラと笑い声がする。
さっきよりも確実に暑いんだけど、亮の腕の感触は嫌いじゃないし。
まあいいか。このままでも。
見た目よりも筋肉質な彼の左腕を、ウチワを持ってない方の指先で軽く叩いていると、伸びてきた右手に握り込まれる。
「ハノンか?」
「なにが?」
「今、弾いてただろ?」
指をからめるように互いの手を繋ぎ直した亮の指が、私の手の甲の上で鍵盤を弾くように動く。
「ハノンの一番」
「あ、そうなんだ? って、単純に親指から小指へ順番に動かしただけなんだけど?」
ハノンなぁ。小学校の頃には確かに練習したけど、中身なんて覚えてない。
「さっき弾いたばっかりだからよ。イメージが、染みついてたみたいだな」
って言いながら、亮の手が今度はリズムをつけて握ったり開いたりを繰り返す。
「ハノンなんて、弾くんだ?」
「そりゃぁな。系統だっているから、基礎トレに丁度いいんだよ」
私には退屈だった記憶しかないけど……言ってみれば、ラジオ体操のようなもの、らしい。
「ハノンで思い出したけどさ。ホテルのキーボード」
相変わらず私の手をオモチャにしている亮に
「あんなの、売ってたっけ?」
って訊かれたけど。
「あんなのって?」
「俺が去年買い替えた時に、あの機種、見たか?」
「だから、どの機種よ」
ホテルに置かれている機種なんて、知らないってば。
亮が携帯電話に撮っていた写真を見せてくれた時。
夜空に最初の花が咲いた。
二人、顔を寄せ合って、光の宴を楽しむ。
途中に挟まれた小休止で、ふと我に返って。
「うん? どうした?」
溢した笑い声を、拾われる。
「昔ね、涼子たちが……」
私の妹の涼子と亮の妹の若菜ちゃんも、オムツをしていた頃からの幼馴染みで。
「二人でこんな風に顔をくっつけて、一緒のモノを見てたなぁって、思い出したの」
「ああ、やってたな」
『涼子ちゃん、セミどこ? わかんない』って、若菜ちゃんの口真似をしてみせる亮に、小学生の夏休みを思い出す。
あの頃は大人になってから、こんな風に亮と過ごすなんて思ってもみなかった。
ほんの一、二分の小休止を、その後も二度ほど挟んで、一時間少々の花火もフィナーレを迎える。
何発もの花火が重なり合うように夜空を彩り、散っていく。
最後に上がった枝垂れ柳が、キラキラと余韻を残しながら消えた。
ほーっと、無意識に詰めていた息を吐く。
前回、ホテルから見たのは、『見えた』だけだったんだなぁ。ここでも少し離れてはいたけど、やっぱり大きさと音が価値だよね。花火って。
まだお腹の底に残っているような音を反芻していると、
「なぁ、綾」
くっついたままの亮の声が耳元で聴こえて。耳朶に触れる息遣いに、慌てて手で遮る。
「あ、悪い」
内緒話の苦手な私に気づいて、顔が少し離れる。そうそう。そのくらい離れて。直接、耳には話しかけないで。
「で。なに?」
「今日、お前にやったキーホルダー。あれにさ、俺の部屋の合いカギつけてくれないか?」
「あー、うん」
私としては、問題ないんだけど。
「それ。立場的には、いいの?」
いくら『織音籠が日常に紛れ込めている街』だとはいえ、スキャンダルとか……ねぇ?
帰り始めた周りの人たちに促されるように、背後にくっついていた亮が離れて。私たちも駐車場に向かってゆっくりと歩き出す。
「今度、ツアーがあるだろ?」
「ああ、三都市の」
「それに向けての……ちょっとした危機管理?」
部屋を留守にしている間、突発的なトラブルに対応する留守番役ってことらしい。
「わかった。預かってあげる」
「いや、まあ。預かるっつぅか……いや、預かるか」
『間違ってないな』って一人で納得した亮は、ついでのように私の携帯電話の番号を緊急連絡先として、メンバーの一人、ヴォーカルのJINにも教えておきたいと言い出す。
「本気の大事なら、親に頼むけどよ。ほんのちょっとした事で、蔵塚から呼び出すのもな?」
高校時代からの親友だったJINとは、当然のように互いの実家の電話番号くらいは知っているらしいけど。
そろそろ還暦を迎えるだろうご両親に、些細なことで迷惑をかけるのが心苦しいって理由は、亮らしいなぁ。
二つのお願いごとに、OKをして。
ライト機能を使って足元を照らしてくれている亮の携帯電話に、途切れた会話を思い出した。
「そういえば、花火の前の話。キーボードの機種がなんだっけ?」
繋いだ手を軽く引きながら、訊いてみる。
「去年、お前が勧めてくれた中にあったか?」
「なかったね」
買い替えを検討していた亮にすすめたのは、それまで使っていた型と操作性が似ている機種をメインにした。さっき見せてもらった、ここのホテルに置かれている機種とは型式が異なるラインナップだった。
「あれ、気になる?」
「今のに不満はないけどよ。いくつか『この機能、あればいいな』ってのがあったからさ」
そう言って、具体的に"欲しい機能"をあげてみせるけど。
「うーん。亮が使っているのとは、別方向に進化してる型式なのよねぇ」
オプションで後付け、ってわけにはいかない機能なのよねぇ。
「やっぱり、無理か」
がっかりした風でもなく言う亮に、
「顧客のニーズってことで、報告はあげてみるけど」
今の私がしてあげられることは、この程度だけど。
"織音籠の担当窓口"としては、もう一歩先の提案をしたくなる。
「いっそのこと、オーダーメイドでもする?」
「できんのか?」
うわ、食いついてきた。
「できる、とは言い切れないし、かなり高額になるだろうね」
「それは……さすがに事務所からOKが出ないだろうなぁ」
「そうだよね。でも今すぐじゃなくって」
そして、亮一人のために作るんじゃないなら。
「『RYOモデル』って機種に名前が使われるくらいになれば、いけるかもよ?」
うちの会社に『使ってください』って言わせてやるって言ってたじゃない。
織音籠の作り出す"楽しいこと"に、うちの会社も巻き込んでみせなさいよ。
そう言って見上げた亮の顔は、夜道の暗さを跳ね返すような楽しげな目をしていて。
「よし。まずは、秋のツアー、頑張るか」
って、繋いでいる私の手をぎゅっと握る。
「痛いってば」
「綾。その時には、お前も開発チームに居ろよ?」
あ、また。私も巻き込まれる。
バスに戻って、来た時と同様に点呼を受けてから乗り込む。
帰り道は駅に寄って、今夜からの宿泊客を数名拾ってからホテルへ戻ると、運転手さんから説明があって。
走り出したバスの振動に、少し眠気を感じていると、
「来年もまた、こうやって花火が見たいな」
って、亮が呟いたのが聞こえた。
「そうだね。来年もまた、二人で旅行できるといいね」
でも、織音籠がもっともっと有名に。
"RYOモデル"の楽器が商品化されるほど有名になったら、こんな風に二人で旅行なんてできなくなるかもしれないね。
そうなってしまえば、"織音籠が日常"な楠姫城の花火大会しか行けないのかな?
夢うつつにそんなことを考えながら、亮の肩にもたれる。そっと、彼の手を握る。
****
旅行の後で預かった合鍵を、亮に返したのはそれから二年後。亮が引越しをする時、だった。
亮が作った二つのキーホルダーには、新たに二人の新居の鍵をつけて。
今はまだ、"RYOモデル"のキーボードは彼の構想の中にしかないし、私も開発チームへの所属は遂げられていないけど。
織音籠は一歩ずつ、進化しつづけていて。
彼らの生み出す"楽しいこと"に巻き込まれる人々は、確実に増えている。
END.