山田くんは微笑みながら睦言を囁く【読み切り版】
「逃げるなよ」
ドンとやや乱暴に壁に手をつくと、半歩前、身体を近づける。
両腕で挟むようにして追い込み、胸の高さほどの位置にある女の頭に、顔を近づけた。
「わかってるんだ、おまえが俺のことを好きだってことはさ。そのくせ、アイツに気を持たせるようなことしやがって」
小さく舌打ちをすると、華奢な肩がピクリと震えた。
怯えなのか緊張なのか――、自身の身体を掻くように右手で左腕を抱き、長袖のシャツに皺を作る。
女を腕の間へと囲いこんだ男は小さく息をひとつ落とし、耳許へ口を寄せて甘く囁く。
「なぁ、いい加減、観念しろ。俺のモノになれ」
「…………」
すると女は、こちらを避けるように顔を背けた。
男は壁についていた右手を女の顎の下に当てると、親指でクイと押し上げるようにして、己へと向けさせる。どこか怯えたように震える唇を見やり、口角を引き上げた。
「素直じゃないヤツには、お仕置きが必要だよな」
吐息がかかる位置にまでゆっくりと、焦らすように唇を寄せる。触れる直前、女は喘ぐように薄く口を開いた。
「……50点」
「――え?」
「わざとらしくて、逆効果」
「えー。ちょっと点数辛くない?」
「あと、息がうるさい。暑苦しい。距離詰めすぎ。全体的に、うざい」
「だって、そういう風になってんだから仕方ねーじゃん。わかってねーなー、住子ちゃんは」
先ほどまでの緊張感が霧散し、男はそこから身体を離す。壁に背をつけていた女の方は、大きく息を吐いた後、男を見上げて口を尖らせる。
「大体、なんなの、あの上から目線な物言いは。どういう人なのよ」
「えーと、俺様生徒会長?」
「……高校生からそんな尊大な性格してたら、社会で生きていけないんじゃないの?」
「大丈夫じゃね? こいつ、社長の息子だし」
「こんなのが社長になるなら、その会社ダメじゃない。人の上に立つ人は、もっとおおらかじゃないと」
「いや、これ漫画の話だし」
踵を返すと、ローテーブルの上に置いてあるコミックスを手に取った。
十代の女子に人気沸騰中の少女漫画だ。帯には「実写映画化、決定!」と文字が躍っている。情報の解禁はまだだけれど、彼もキャスティングされている映画である。
「そのテの映画って見ないからわからないんだけど、もっと若い俳優をキャスティングするものじゃないの? 制服は、そろそろアウトじゃない?」
「ヒロインは十代だよ」
「いや、あなたは二十六歳でしょ」
「……リアル世代の男優に主演をやらせる実写映画、あんまないよ? ほら、やっぱ人気で女子を動員させなきゃだし」
にっこりと笑う顔は、さすが「アイドル」だと、住子は思う。
男は、世間で人気のアイドルデュオ・フォレストとして活動している芸能人。
フォレストは、「シン」「リン」という二人で構成されており、住子の前にいるのは「リン」の方。彫りの深い顔、色素の薄い髪と、白い肌。ほんの少し青みがかった瞳で分かるように、彼は外国人の祖父を持つクォーター。そちらの血が色濃く出たせいか、ハーフタレントよりも外国人じみた顔をしており、いっそモデルにでもなった方がいいのではないかと思うほど、恵まれた容姿を持つ長身の青年だ。
最近は俳優業にも進出し、深夜ドラマや映画の脇役など、少しずつ大きな役を振られるようになってきている。
住子が彼と出会ったのは、住んでいるアパート内。もっといえば、自室の玄関前。
扉の前に落ちていた彼の免許証を拾ったことが、すべてのはじまりだ。
彼の秘密を強制的に知ってしまい、秘密を漏らさないようにと近寄られる始末。
どんな偶然なのか、隣の部屋に住んでいた男は、芝居の練習相手をして欲しいと、住子の部屋を訪れる。
「すーみこちゃーん」
「だから、その呼び方やめてって言ってるでしょ」
「かわいーじゃん」
「窓開けて、大きな声で名前呼んであげようか? 山田林太郎くん」
「やめろ」
そう。
それが、彼のトップシークレット。
外国人顔をしているリンの本名は、山田林太郎である。
顔と名前が不一致な林太郎は、子供の頃、さんざんいじられたことも原因となり、己の名前を完全否定している。
夢は、入婿になって別の名字を得ること。
男だって、結婚相手の姓を選択できると知った小学六年生の頃から思い続けている、切なる願いである。
芸能人であれば、芸名として、堂々と別の名で生きていける。
別人を生きるという意味で、林太郎は「俳優」を希望していたが、その道に進むための条件として提示されたのが、同じく音楽家を目指していた三浦慎吾とコンビを組んだアイドル活動。十八歳で事務所に入り、結成して五年――二十三歳からようやく本格的なソロ活動が解禁され、林太郎は念願の俳優業、相方の慎吾も他アーティストへの音楽提供を始めている。
順風満帆の林太郎に立ちはだかったのが、山田住子だ。
なんという運命のイタズラか、同じ名字を持つ住子に運転免許証を拾われたことで、本名がバレてしまった。
焦った林太郎が予想外だったのは、住子が「フォレスト」のことをまったく知らなかったことである。
十代は勿論、三十代、四十代に至るまで、幅広く女性人気を獲得している人気アイドルを「知らない」と言い切った彼女に、林太郎は屈辱を感じた。圧倒的な敗北感の後にやって来たのは、「だったら、この俺の魅力を感じてもらおうじゃないか」という征服欲。
恋愛ドラマの練習相手になってもらい、甘い言葉やドキリとするシチュエーションを仕掛けることで、自分にときめいてもらおうという、なんというか、姑息なことを考えたわけである。
黒いひっつめ髪に、野暮ったい大きな黒縁眼鏡。
地味が服を着て歩いているような山田住子は、常に淡白で辛辣な態度で林太郎をこきおろす。
不純な動機ではじまった「芝居の練習」は、いつしか本当に「練習」になってしまい、今日もこうして住子の部屋に居座っている。
「壁ドンって、女子のときめきポイントじゃねーの?」
さっきの駄目出しが納得いかず文句を言う林太郎に、冷蔵庫から麦茶を取り出しながら、住子は言った。
「っていうか、近すぎ」
「近いからいいんだろーが」
「だって山田くん、大きいじゃない。圧迫感があるの。それであの口調とか、脅しとしか思えないんだけど」
「それは生徒会長の性格でしょ」
「ヒロインはなんであんな男が好きなのか、私には理解できないわ」
「――うん、キミならそう言うよね」
最近のドラマはまったく見ないという住子は、どこまでもシビアだ。
フィクションと割り切ってはいるものの、少女漫画にありがちな、いかにもな場面に対しては、いつも顔を顰めるのである。
(まあ、ぽーっとされても困るっちゃー困るんだけどさ)
なにしろ「練習」だ。お芝居の前段階の「練習」なのだから、それに対して感情を向けられるのは少々困る。
住子の存在がありがたいと思うのは、そういった点だ。林太郎のマネージャーは人相の悪い男性だし、相方も男。同じ事務所にも女性タレントは数多くいるけれど、彼女たちを練習相手にすることはご法度とされている。
「万が一にも相手が俺に本気で惚れちゃったりしたら、問題だしねー」
うっかり本音が口に出たところで、「……なに自惚れたこと言ってんの」と、住子の声。
心底気持ち悪いといった視線を向ける住子に、林太郎は溜息を吐いた。
「俺、これでも超カッコいいって人気あるんだよ。こんないい男を袖にするの、住子ちゃんぐらいだって」
「あー、はいはい」
「ドライすぎる」
「そりゃどうも」
第三者的な態度と思考が、冷静な判断を下しているのだとわかってはいるけれど、「興味なし」といった態度は、アイドルとしての沽券にかかかるし、もっといえば、林太郎のプライドの問題だ。
(俺ほどいい男なんて、芸能界の中でもいねーだろ)
自分にドキドキしないなんておかしい。
山田林太郎は、己の容姿にとても自信がある――、要するにナルシストであった。
「次は、別のシーンな」
「……まだやるの?」
「当然だろ」
胸を張る林太郎に、住子は肩を落とす。そして、テーブルに置いてある少女漫画を手に取った。
脚本はまだ上がっていないため、今やっているのは、原作漫画をそのまま再現する形での練習だ。監督やその他の意向が加われば、展開や見せ方だって変わってくるであろうに、なんとも気が早い話である。
半ば強制的に押し付けられた少女漫画は、タイトルだけなら住子でも見聞きしたことがあるので、それなりに人気がある作品なのだろう。
高校を舞台にした恋愛漫画で、高校二年生のヒロインが、ひとつ年上の幼馴染・真尋と同級生・志郎の間で揺れ動く物語。
林太郎が演じることになっているのは、原作でも人気があるという幼馴染の方だ。ハーフという設定で、ヒロインの初恋の相手でもある。小学校に入ってすぐ、両親の仕事によって外国へ引っ越してしまった彼と、高校で再会するという、よくあるお話。
対抗馬になる同級生は、これもまたお約束のようなイケメンで、真面目で実直な少年だ。
一途で真っ直ぐな好青年と、ちょっとSっ気のある俺様な幼馴染。
果たして、どちらとくっつくのか。
原作は続いており、決着はまだついていない。
「さっきの壁ドン以外にも、色々あるんだけどさー」
座ったまま、ずりずりと近寄ってきた林太郎は、住子の手から単行本を引き抜き、めくりはじめる。
先のシーンは三巻の中盤だったが、次に林太郎が見せてきたのは、二巻の後半。放課後の教室、ヒロインが机上に仰向けに押し付けられ、上から覗き込まれるシーンだ。天井を背景に、生徒会長の顔が見開きで描かれている。
別のコマでは、男の手がヒロインのリボンタイをほどいており、住子は眉を寄せた。
(……これ、中高生向けの漫画じゃなかったっけ?)
そして、二人の顔が近づき、いかにもこれからラブシーンに突入するかというところで、次巻へ続くとなっている。暗転し、黒く塗られたコマに配されたラストの台詞は、ヒロインによる「ヒロ……くん……」という呟き。
「いや、駄目でしょ、ヒロくん」
「こんなもんだって。最近多いよ、こういうの」
「外国かぶれにしたって、これ犯罪」
「住子ちゃん、これ漫画だから」
「知ってる」
憮然とした顔つきの住子に、ふむと頷いた林太郎は単行本を取り上げると、キルトカーペットの上へと置く。そしておもむろに住子の肩を押すと、テーブル方向へと押しやった。
不意をつかれたせいなのか、思いのほか簡単にのけぞった住子の身体を支えるように背中へと左手をまわし、テーブルの角で頭を打たないよう、そっと下ろす。漫画を再現するように上の位置から顔を寄せると、住子の瞳が眼鏡の向こうで大きく見開いた。
「なに、す――」
言い終える前に、親指の腹でその唇を押さえて封じる。
驚きに唾を呑み、上下する喉の動きが艶めかしく映り、自分で仕掛けておきながら、林太郎は動揺した。
残った指を頬に添えると、化粧っ気のない柔らかな肌の感触が伝わる。そろりと指を這わせるように首元へと動かすと、住子の身体がピクリと震えた。
これはお芝居――、その練習。
にも関わらず、ごくりと呑み干した唾は、林太郎に別の衝動を連れてくる。
室内の光源に照らされて、肌の白さを際立た鎖骨の窪みから、目が離せない。
周囲に溢れるたくさんのタレントたち。美人だったり可愛かったり、華やかで光輝く彼女たちに比べて、ここにいるのは、地味で、辛辣で、ちっとも従順ではなくて。芸能人の自分にも遠慮をしない同い年の女の子。
冷たく突き放したような物言いをしながらも、不規則な時間帯に行き来する自分を迎え入れ、時折、おかずをくれたりする。
きちんと野菜も食べなさいよね――と押し付けられた、じっくりと煮込んでくたくたになったスープは、野菜嫌いの林太郎の為に作ってくれたのだと思うと、じんわり温かな気持ちにもなる。
「すみ――」
散漫になる思考に囚われる中、ぽろりと名が零れ落ちそうになった時、下にいる住子が手を伸ばし、林太郎の胸を突いた。
「ヒロインの名前、間違えてる」
「――ごめん、そうだな」
息を深く吐いて、身体を起こす。続いて住子の腕を取り、彼女の身体を起こすと、少し離れてぺたりと尻を着く。乱れた服を引っ張って戻す住子の姿に、林太郎は視線をそらせながら考える。
今のはなんだろう。ヒロインの名前なんて、頭の片隅にも出てこなかった。
芝居のことなんて全部吹っ飛んで、ただひたすら、不安そうにこちらを見つめる住子の姿しか見えていなかった。
それなのに、彼女の方はといえば、あの状況でも「ヒロインの名前は?」ときたもんだ。
(ちょっとずるくないか、それ)
もやもやとしながら胸中で悪態をついていると、住子が声をかけてくる。
「あれはかなり危険な行為だと思う。仰向けに倒れるとか、後頭部打ったらどうするのよ」
「……だから、漫画だってば」
「本番と同じことしなくてもいいでしょ。座布団を重ねた場所にするとか」
「へー。じゃ、今からやり直そうか」
淡々と告げる住子に、林太郎は意趣返しのつもりで言い、手を伸ばす。
少しぐらい、動揺すればいい。
けれど、彼女のことだから、いつものように平然と「バカなの?」と告げるに違いないのだ。
諦めにも似た気持ちで近づいた林太郎の胸元で、俯いたままだった住子が顔を上げた。
頬を膨らませ、目元にはほんの少し涙が滲んでいる。
「……バカなの?」
震える声と漏れた吐息に、林太郎は胸中で叫ぶ。
(それは反則だろっ!)
思わず手の平で顔を覆い、後ろを向いた。
自分でもわかるほどに顔が熱いし、心臓の辺りが痛くて息苦しい。
「な、なに笑ってるのよ、バカ太郎!」
背後から聞こえる住子の裏返った声に、林太郎は床に突っ伏して撃沈した。
別々の部屋に住む二人の山田が、芝居の練習と称して近づいたり遠のいたりしながら暮らし、同じ「山田」として、同じ部屋の扉をくぐる日が来るのは、まだ先の話である。
書き始めた作品が、どう短く見積もっても数万字の中編になることが判明。
この時点で企画として提出するのは諦め、出張読み切り版として、ひとつエピソードを作成して、そちらで参加させていただくことにしました。
(本編は企画外で書きます……)
そんな感じで、最終的にカップルになる予定だったので、今の時点では肝心の「キュン」がありません。
大問題です。
【2019/5/13 追記】
読んでくださった方が、それぞれ「キュン」を見出してくださいました。
ご意見ありがとうございました。(_ _)
とはいえ、足りていないことは確かなので、これを糧に精進いたします。