35,行間:真嶋紳也の場合
ここ最近、雨が続いている。そのためじめじめとした空気が充満していて、受験で気を立てている三年生を煽ったのか教室はいつも以上にピリピリとしていた。
まったく迷惑な気候である。
それに左右されるほどの不安定な精神もどうかと考えものではあるが、きっと誰しもが余裕合格なんてわけにはいかないのだろうから仕方がないのだろう。
受験生とは繊細な生き物だ。
そんなことを考えながらも教室を出て、昇降口へと向かう。
もう二学期も終わるからか一層教室の空気は悪く、気さくなのは三木くらいなものだ。ああ、しかし如月が来た時のクラスメイトは、その存在が息抜きになるのか険しい顔は潜めている。だからこそ強く追い返せず、如月が調子に乗るという図が出来上がってしまっているのだが、まあそれも今だけだ。我慢しよう。
早く雨が止まないものかと、靴を履き替えて顔を上げたところでやっと、如月が屋根の下で佇んでいることに気がついた。
ここは三年の靴箱だ。どうしてそこで雨宿りでもしているように突っ立っているのかと少しだけ嫌な予感がしたものの、如月の隣を通って帰らなければならないために声をかけないわけにもいかない。
傘立てから傘を引っこ抜いてパチンとそれを開放しながらも、如月の隣に立った。
「何してる」
「あ、先輩」
こちらを見た如月は、犬だったなら今頃飛んでいけそうなほどに尻尾を振っているのだろうなと分かるような、そんな嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
本当にこいつはどうして、ここまで懐いてくるのだろう。
「先輩待ってたんですよ、傘忘れちゃったから」
「はあ? 如月なら喜んで貸してくれる人間は居るだろう、わざわざ俺を待ってまですることか?」
「やだなぁ、そこは『そんなに俺と帰りたかったのか』って胸を鳴らすところですよ」
プププ、なんて、何が面白いのか如月が笑う。
女という生き物はあまりよく分からないが、この如月に至っては一番理解に悩む存在だ。
「あいにく傘は一つしかないんでな」
「入れてくれるんですか?」
「違う、誰かに借りろ」
バン、と音を立てて傘が開いた。それをじっと見つめていた如月が「でも、」と言葉を置いて、
「こんなに大きい傘、先輩サイズじゃないですし、二人入れますよ?」
「俺が小さいとは禁句だ、次から気をつけろよ」
「はい、私が大きいだけですね」
「それも禁句だ。身長の話は控えろ」
ああいえばこう言う――――この後輩はまったく後輩らしくない態度で、イヤミなのかなんなのか分からない言葉を平気で吐き出す。しかし表情が楽しそうなためにきっと悪気はないのだろう。
「……もう二学期終わるじゃないですか」
「それが?」
帰るかと歩みだそうとしたところで、如月が引き止めるように言い出した。
「三学期になったら先輩、受験で忙しくなるでしょ。さすがに三学期からは教室に行くのも控えようとは思ってるんですよ。そうなったらなかなか会えないじゃないですか」
「だからなんだ」
「あー鈍い。だから一緒に帰りたかったんですけどね」
まるで捨てらた子犬の目をして、恨めしそうに如月がまっすぐに俺を見る。
――――なるほど、この後輩は一応、俺を先輩として慕ってはいたらしい。からかうか小馬鹿にしてくるかだけだったために、玩具認識なのかと思っていた。
しかしそうか。きちんと先輩として思っているのならば、まあ許してやらないこともない。
後輩に慕われて嫌な気持ちになるわけもないのだ。
「……駅までだぞ」
「え! 降りる駅も一緒なのに!」
「俺に送れと……?」
「ずぶ濡れになりますよ、私……」
「……コンビニで傘を買え」
「お財布忘れた」
大げさにしょぼんとした顔をしてみせた如月が、そのまま足元に視線を落とす。
どうやらこいつは、一度許すとずかずかと甘えてくるタイプの後輩だったらしい。一番厄介で、一番可愛くないタイプだ。
「……分かった……今日だけだぞ」
「わあい! 先輩優しい!」
タカタカと俺の隣に駆け寄ってきた如月が、傘を俺から奪い取った。何をするんだと言う前に、まるでエスコートでもするように俺の背をすっと押した如月がいつもの王子様スマイルを浮かべる。
「さあ行きましょう。もちろん傘は私が持ちますよ」
「馬鹿にしてるのか……」
「まさか! だって先輩が傘を持ったら、身長的な問題で私の頭が引っかかっちゃいます」
「おい」
「ほら行きましょう」
「はぁ……」
本当にまったくどうして、如月はこんなにも失礼に生きられるのか。
しかしまあ、それもあと少し。卒業すれば解放される。
同じ大学に来るとか言い出しているが、如月が来る頃には俺も就活が始まっていて忙しいのだろうし、関わることもなくなるだろう。
今だけだ、と思えばこの図々しい後輩も可愛く思えてくるものだ。
そうだ、一応慕ってはいるようだし、こうして少しくらい優しくしてやるのもアリじゃないか?
「そういえば先輩、万結と知り合いだったんですね」
思い出したようにそんなことを言い出した如月に、誰だったかと思い出す。
万結――――といえば、文化祭の時にうちに来ていた康介に片想い中の女の子だったか。苗字で覚えているために、名前を出されてもイマイチぴんとこない。
「ああ、不藤さんとやらだな。偶然だ」
「どうして言ってくれなかったんですかー? 万結も、言ってくれればよかったのに……」
「不藤さんとやらには俺が口止めをした。知られれば、その件で面倒くさい絡み方をされると分かっていたからな」
「そりゃあそうでしょう」
にんまりと笑った如月を見て、あの時の判断は正しかったのだと悟る。不藤さんとやらにも口止めをしておいて良かった。素直そうな子だったし、きっと従順に言いつけを守ってくれていたのだろう。
「まぁ、それで気づけたこともあったし、良いんですけど」
「気づけたこと?」
「鈍い先輩には分からないことですよ」
いつもの馬鹿にする笑顔ではなく、かといって王子様スマイルではないそれは少しだけ落ち着いているように見えて、いつもの如月とは違う雰囲気を感じた。
――――そういえばあの後変なことを聞かれたなと、そんなことを思い出す。
確か、先輩は彼女は作らないんですか、とかなんとか。一応「考えたこともない」と返しはしたが、そんな話題を如月から出されるとは思ってもいなかったために驚かされたものだ。
如月も一応、色恋なんてものに興味があったのかと。あの時の驚きを言葉にするのはなかなか難しい。
そもそも、いつも飄々と笑っていて誰かを特別視することもなく平等な如月が、そんな感情を誰かに抱くのかすらも危うい。
いや、俺に対してだけは態度が悪いから、平等ではないが。
「先輩、いい加減連絡先教えてくださいよ」
「嫌だ。何故俺が自ら……」
「じゃないと冬休み中も遊べないし、卒業してからは先輩は隣の県に行くのに……連絡どうするんですか」
「とる必要ないだろ」
むっと眉を寄せた如月が、まるで探るようにこちらを見下ろす。
「先輩に会いたくて待ってた後輩に対して冷たいんですね」
「頼んでない」
「……今のでその返答が来ることにはもうお手上げです」
おおげさに肩をすくめた如月は、呆れたように息を吐いた。
「今日の如月は要領を得ないな。はっきり言ったらどうだ」
「言ってもいいけど……先輩が卒業する時に教えますよ」
「はあ?」
俺の卒業と話の内容がどう関係するんだ――――と言いかけて、如月のその表情がいつもの表情ではなかったためにぐっと飲み込んだ。
胡散臭い笑顔でも、楽しそうな笑顔でもなく、ただ落ち着いた目をして緩く微笑んでいるだけなのだ。
どうしてそんな表情をされなければならないのかと思うものの、どういうわけかそれを聞くことも憚れたために言い出すこともできない。
「……だからそれまで、先輩に彼女が出来ないように見張っておかないといけないので、連絡先交換してください」
「言われている意味が分からん……なぜそこでまた恋愛の……ん?」
そういえば文化祭の時も彼女だなんだと言っていたし、今もどうやらそこにこだわっているらしい。そしてしつこく連絡先を聞かれるということは――――もしや俺に、恋愛に関しての相談でもしたいのだろうか。
そう考えれば納得も出来るというものだ。
普段から俺に叱られているために、俺を頼りにしているところもあるのだろう。でなければ俺を今回選ばないだろうし、わざわざ待つなんてことをするはずもないのだ。
なるほど、如月はなんだかんだと俺をしっかりと先輩扱いしているらしい。
まあ悪い気はしない。相手は学校を手玉に取る如月だ。その如月が唯一相談するのが俺だとは、優越感も湧く。
「あれ? 気づきました?」
「ふん、なるほどな……まあ、連絡先くらいなら教えても良い」
「え! ほんとに!?」
「二言はない」
駅についたところで傘を受け取ると、やたら嬉しそうに笑う如月が急かすように携帯を出した。しかしホームにつくまでは無視を決め込んで、いつもの場所で落ち着いた時にやっと交換を果たす。
少し前まではこの後輩と連絡先を交換することになるとは思ってもいなかったために、なんだか感慨深い気持ちだ。
(目を離すとまたすぐ甘えたことを言いだしそうだしな……)
学校中を味方につけてやりたい放題の如月を止められるのは自分だけなのだし、そういった意味でもこうして連絡先を知っていることは良いのかもしれない。
「じゃあ冬休み、勉強の息抜きに遠出しましょうよ」
「嫌だ。なんで俺が息抜きにわざわざ如月を選ばないといけないんだ」
「えー、なんで? 気持ち気づいてくれたんじゃないんですか?」
「ああ、知ってる。それなら連絡してくれば良いだけだろ」
「んー……私は先輩と会ってたいんだけど……」
きゅきゅっと傘を丸めて、ボタンをしめた。極力水は落としたが、どこから出てくるのか先端からはまだまだ水が滴っている。
電車に乗る前にはもう少し落としておかなければとトントンと軽く地面に傘を押し付けていると、静かにそれを見守っていた如月にくいっと肩を引き寄せられた。
「おい、何の真似だ」
まるで彼女扱いをされているようなその構図が不愉快で如月を見上げると、やはり嬉しそうに笑って俺を見ている。それもまたいつもの顔とは違っていたから、少しだけそわそわとした気持ちを胸中で持て余した。
本当に今日は、如月の様子がおかしい。いったい何を考えているのかこうしてやたらと近くにくるのだ。
「格好いいなと思って」
「はあ……? なんだいきなり、とりあえず離せ」
「押し返さないんですか?」
「傘を畳んで手が濡れてるんだ。濡れたいのか?」
「ふふ、優しいなぁ。ありがとうございます」
ニコニコとしたままの如月がさりげなく頬にキスなんてしてくるものだから、容赦なくローファーを踏んずけておいた。