第3話
絢芽の家は、駅より少しだけ向こうにある。
中学の頃は学校よりも遠いその家の位置にうんざりとしていたようだけど、高校に受かり電車通学が決まってからはラッキーだと笑っていた。
私の家は駅とは反対で、絢芽の家からも少し離れている。駅よりも手前にあるから中学校は近かったけど、絢芽とは逆で駅からは遠くなってしまった。
そのため、私の家と絢芽の家の距離を考えれば、待ち合わせは自然と駅前ということに決まった。
「おはよう、絢芽」
いつもの場所に立っていた絢芽に声をかけると、絢芽は難しい顔をしていたのをパッと笑顔に変える。
「おはよう万結。今日も寒いね」
「うん。……今月末までにタイツ脱げるかなあ……」
「その辺は先生も気候見て考慮してくれるって聞いたよ。移行期間伸ばしてくれるって」
「そうなんだ。一週間くらい伸びるといいね」
改札を抜けてホームに向かうと、そこそこの人が電車を待っていて夕方よりもざわざわと騒がしい。
「……絢芽、さっきなんか考えてた? ちょっと怖い顔してたよ」
待ち合わせで落ち合った時のことを聞いてみれば、絢芽は心当たりがあるのかうーんと首をひねる。
やっぱりその顔はどこか小難しそうで、長身の美人がそんな顔をしているから迫力がすごくて、周りから見たら「怒っているのかな」なんて思われそうだ。
「昨日さ……変な人いて」
「え!」
「部活終わって駅で電車待ってたら、その、時間帯的に帰宅ラッシュで人は多かったんだけど、ずっと後ろに立ってる人居たの。ホームでも、電車内でも。その……明らかに距離感がおかしくって気持ち悪くて……でも触ってくるわけじゃないし、気のせいかもしれないしって動けなかったんだけど……」
「な! そんなのおかしいよ! つ、捕まったの……?」
「……乗った電車に偶然金好さんが居てね、ほら、朝の電車で二回くらい会ったあの人。……あの人が、私の後ろの人に気づいてさりげなく引き離してくれて、助かった」
金好さん――といえばあの、爽やかアイドル風な人だ。彼女が五人居るとか言っていたし、きっとフェミニストなのだろう。
あまり近寄りたくない人だと思っていたけど、今回ばかりは金好さんに感謝である。
「あ、あのね、実は私もね……昨日……変なおじさんが居たの」
「え! ちょっと万結、あんたあんなに気をつけてって言ったのに!」
「ご、ごめん、その、気づかなくって……でも私もね、朝に会った三島さんに助けられたんだよ」
「三島さん……あ、あの眼鏡の……」
「そう」
そこでやっと、絢芽の目元が緩む。
「あのね、三島さん、今日も帰り一緒に帰ってくれるって言ってくれたの。心配だからって。……それの話とね、あと、金好さんにもお礼したいからね……車両、あっちにしよ?」
絢芽の手を引くと、絢芽もそう思っていたのか一つ頷いてついてきてくれた。
田舎とはいえ、朝夕の込む時間帯には車両が増える。普段二、三車両くらいなのが、五車両になるのだから、もしかしたらここは田舎ではなく「少し田舎」くらいなのかもしれない。
「ありゃ? 二人ともこの駅からなんだねー、おはよー」
朝からゆるゆるとした雰囲気のその人は、セーターでほぼ隠れている手をこちらに向けて優しく揺らしていた。いわゆる萌え袖というやつなのだけど、男性ながらにそれに違和感がないのだからこの人はなかなかすごい。
「てか珍しいねー、今日は最終車両じゃないんだ?」
「えっと……加賀さん、ですよね。おはようございます」
絢芽がペコリと軽く会釈すると、加賀さんは驚いたように目を見開く。
「え、え? ねえ隼斗、康介、どうしよう嬉しい」
「ハイハイ。おはよう絢芽ちゃん。昨日はあの後大丈夫だった?」
「あ、はい。昨日はありがとうございました。……三島さんも、万結のこと、ありがとうございました。あの、今日も一緒に帰ってくださるみたいで……よろしくお願いします」
絢芽が金好さんにお礼を言って、直ぐに三島さんを見る。そして続いた言葉に、目を丸くしているのは加賀さんだった。
「え、なになに隼斗も康介もそんなことになってんのー? なんでなんでずるいー」
「あ、あの、金好さんも、絢芽のことありがとうございました。私じゃ、何もできないので、その……」
「どういたしまして。あ、絢芽ちゃんも俺と一緒に帰る? ほら、危ないし」
「いえ、私は大丈夫です。昨日はたまたまなので……」
絢芽と金好さんのやりとりを横目に三島さんを見上げると、すぐに私の視線に気づいて、携帯を触っていた目をふとこちらに向ける。そしてふわりと笑って「おはよう」と口を開いた。
「今日の帰り、昨日と同じ時間の電車に乗るから、遅れそうとかなら連絡ちょうだい。学園前で降りてホームで待ってるから」
「え、でもそこまでは……」
「いいって。俺が心配なだけ。受験に集中出来ないからさ、出来れば言うとおりにしてほしい」
ポンポンと頭に手を置かれて、その手があまりにも優しいものだったから、素直に一度頷いた。
「いやー、康介はさ、なんていうか天然なところあるんだよねー」
「おいなんだよいきなり」
「万結ちゃんが騙されてるから教えてあげてるだけだろー。気をつけてね万結ちゃん、康介は天然たらしだよー」
「優しいからすーぐその気にさせるんだよなあ」
グイグイと迫り来る加賀さんと、隣で三島さんをニヤニヤと見ている金好さんがなんだか怖くて、絢芽の方に一歩近寄る。絢芽もそれに気づいたのか、はたまた同じく怖かったのか、私の方へと寄ってきてくれた。
「基樹、あんま寄ってくと嫌われるぞ」
「なんで康介と隼斗ばっかりー」
「とか言って興味ねえだろ。おまえには商業科の坂井が居んじゃん」
「そう! 坂井がやっと俺を名前で呼んでくれたんだよね。ふ、これは卒業前に絶対ゲットできるー」
「そうだ、二人とも連絡先聞いていい? ほら、絢芽ちゃんは昨日みたいなことがまたあるかもしれないし、万結ちゃんは念のため」
金好さんの思い出したかのような提案に、隣に立つ絢芽を見上げた。
その先に居る絢芽は、昨日金好さんに助けられたのがとても救いだったのだろう。「私はいいけど」という目をしていて、それなら私も別に異論はない。
携帯を取り出して、もたもたとしながらも無事交換を終える。
「……ななはら? だよね? 珍しい苗字だね、絢芽ちゃん」
「……万結の、不藤の方があんまり聞きませんけど」
「二人ともあんまり聞かないねー」
ぐい、と加賀さんが乗り出してきて、なんとなく気づく。
加賀さんはただ人との距離が近いのだ。そういえば最初に会った頃からずっと、三島さんか金好さんのどちらかにぺたっとくっついて立っている気がする。とても親しげな雰囲気だから、元々そういう人なのだろう。
けど。
理解するのと許容するのは別だ。やっぱり怖いものは怖いし、苦手なものは苦手である。
「万結ちゃん、委員会とかなんかやってる?」
いつの間に居たのか、絢芽とは反対隣に三島さんが立っていた。
「え、えと、いいえ、何も……」
「そ、じゃあ大丈夫だね。ほら、放課後に委員会のミーティングとか入ったら時間ずれるでしょ」
「そうですね……確かに」
「あと、つり革持った方がいいよ。また転けるよ?」
「あ、はい」
二度も迷惑をかけたためになんだか居た堪れない。そもそも電車に乗っても立って乗ることなんてないから、つり革を持つなんて習慣はないのだ。そのため、つい忘れがちになる。
「ねえねえ、絢芽ちゃんと万結ちゃんはさ、彼氏とか居るのー?」
加賀さんのゆるい声が聞こえて、それと同時に三島さんと金好さんがこちらを見た。答えを待つようなその目が気まずくて、つい逃げるように絢芽に話を持っていく。
「彼氏って……ね、絢芽」
「うん」
「え、なになにその感じ! もしかして二人がその、実はあの、そんな感じなの……?」
「いえ、そうではなく……桜丘は恋愛禁止なので、私たちに恋人は居ませんし、これからも出来ませんよ」
なんてことのないように言った絢芽は「ね?」と私に話を戻す。
「うん。校則破ると、怖いし……」
そもそも異性が苦手であるから恋人なんてまだまだ先の話になるのだけど、こういう時に「校則」というものが利用できるととてもありがたい。中学時代には「ノリが悪い」とか言われていたことも、たった一言「校則があるから」でまかり通るようになるのだ。
「……それはその……どうしても守らないといけない校則?」
金好さんが小さくそう言うと、またしても答えを待つように他の二人がじっとこちらを見る。
私も絢芽もなんとなくその空気に押されたけど、私が何度も頷くと同時にまたしても絢芽が答えてくれた。
「守らないといけないというか、私たちが守りたいだけです。……恋人とか、まだよく分かりませんし……」
「まじかー……キラッキラじゃん……めっちゃ……めっちゃいい子……」
頭を抱えるようにしゃがみ込んだ金好さんは、まるで何かの呪文みたいによく聞き取れないことを繰り返しぶつぶつと言っている。そして加賀さんはどことなく楽しそうで、三島さんはなんだかよくわからない顔をしていた。
「だよねー。校則はしーっかり守らなきゃだもんね、うんうん、俺もそれが一番だと思うー」
加賀さんはそう言って「えらいね」と笑った。
しかし、そんな校則もなんのそも、実はすでに恋人が居るというクラスメイトが存在する。そのクラスメイトはお相手とは中学の頃からの仲らしく、高校が離れるからって別れるなんてありえない、とまで豪語するほどにはラブラブらしい。けれど制服デートはやっぱり出来ないとのことで、それだけが残念だと悲しそうに言っていた。
「ちなみに好きな人は居るのー? ほら、恋人は作っちゃダメだけど、好きな人を作っちゃダメではないじゃない?」
「そんなの居ませんよ。恋人と同じで、必要ありませんから」
「あ、わ、私も……そういうの、よく分かりません」
「ぐッ……」
まだしゃがんでいる金好さんから変な声が漏れる。
「おい隼斗、いつまでやってんだよ」
「……ここまで純真で居られんのか……女の子ってのは……」
「そりゃー隼斗の彼女たちには居ないタイプだろうねー」
「言っとくけど康介の元カノだってビッチだからな」
「俺を巻き込むな」
「なんていうかー、二人とも女運はなさすぎるよね」
「隼斗の場合は、相手から男運ないって思われてるだろ」
「確かに」
「あ、二人も気をつけてね、特に隼斗は手が早いからさー」
加賀さんが眉を八の字にしてこちらに振り向いた。そして「俺は坂井が居るから安心していいよ!」と付け足して、
「純粋に桜丘女子の女の子とお知り合いになりたいだけなんだからさ」
なんていっそ潔いほどに言い切る。
それと同じ頃、聞き慣れた声で、次駅が学園前であるというアナウンスが車内に流れた。