14,行間:テスト後の朝
今朝は少しだけ違う朝だった。
まず、いつもよりも三十分遅く目が覚めた。今までにこんなことはなくて、もしかしたらテスト後だったために気が緩んだのかもしれない。初めての期末テストが思った以上の出来栄えだったために、気持ちの緩みは余計だったのだろう。
急いで準備をしたものの、いつもの時間には間に合いそうにもなくて絢芽に連絡を入れた。すると「分かった」と返信が来て、しかしすぐに、
『二本遅らせた電車でもギリギリ間に合うことが判明。一緒に行こう』
と実に絢芽らしい言葉が来る。
だけど迷惑になるからとその申し出を断って、家を出る。
直前にはもちろん理久が「今日遅くねえ? 一人で行くのかよ」と、以前よりはやんわり絡んできたけれど「清香さんが送ってくれる」と明らかな嘘をついてみれば、清香さん関連のことにはあまり関わりたくないのか、名前さえも聞きたくないようにただ面倒くさそうな顔をして「ふーん」で終わった。なんだかんだ仲が良さそうではあるのだけど……実際のところどうなのだろう、この二人。
それにしても、電車に一人で乗るのは初めてのことである。
なんだかドキドキしながらも駅までの道を歩いて、いつも絢芽が立っている場所も今日ばかりはスルー。時間帯が違えば人の数も違っているけど、ちょっと少ないな、と思える程度だから、朝はやっぱり電車は人気なのだろう。
キョロキョロと辺りを見渡しても、いつもの電車でも周囲の人の顔を覚えているわけではないのに、今は知らない人ばかりだなとそんな変な感覚に包まれる。どことなく匂いも色も違っている気がしてきて、そんなこと全てにワクワクとしたものが湧き上がってくるのだけど、もしかしたら冒険をしている時のそれに近いのかもしれない。
しかし、楽しい気持ちでホームへのと階段を降りていると、不意に「ねえ」と声をかけられた。
あと数段。ちょうど端っこを歩いていたから立ち止まっても邪魔にはならなくて、足をとめてそちらを見上げる。
「きみっていつも、もうちょっと早い電車に乗ってる子だよね?」
スーツ姿のその人は、見た目には四十代半ばくらいに思える、髪の毛の量の少ないふっくらと腹の出たおじさんだった。
もちろんおじさんに知り合いは居ないし、親戚にも見たことはない顔だ。だから「誰だろう」と単純に首を傾げたのだけど、何故かおじさんが距離を詰めてきた。
「ああ、可愛いよねきみ。ずっと見てたんだ。今日は寝坊かな? 実は僕も今日は目覚ましが鳴らなくて寝坊してね、朝の会議に遅れるから憂鬱だったんだけど、神様がきみも寝坊するからって僕を起こさなかったんだね。僕たち運命なのかな。ねえそうだよねきっと。だって寝坊のタイミングが同じなんだよ?」
どこか嬉しそうに一息で言い切ったそのおじさんがなんとなく怖くて、何も言わずにあと数段をおりようと動き出す。しかしおじさんの反応は早く、がっしりと手首を掴まれて動けなくなった。
「手首細いね。華奢だし、きっと綺麗な身体をしているんだよね。そんなに可愛いのにそんな誘惑するみたいな身体して……ねえ、今日は学校サボっちゃおうよ。ね? 僕とどこかに行かない? 大丈夫、学校よりもうんと楽しいことできるよ」
「は、離してください、」
「お金もあげる。僕社会人だからお財布には余裕あるんだよ」
「おっさん」
いつの間に居たのか、階段をおりた先に三島さんが立っていた。
この駅に居るはずがない三島さんだ。
どうしてここに――――なんて考えている私の視線の先で、三島さんはただ見たこともない怖い顔でおじさんを見ていた。
「通報されたくなかったらその手ぇ離せよ」
低い声に驚いたのか、若者の怒気に怖気付いたのか。おじさんは三島さんの言葉に逆らうことなく手を離すと、何も言わずにささっとホームへと逃げていった。
「あ、ありがとうございました。三島さん」
「いやー、もー……はあ……」
呆れたようなため息を吐いて、おいで、と三島さんに促される。それについて歩いていると、いつも乗る車両の扉の位置で三島さんは足を止めた。
「絢芽ちゃんに、万結ちゃんが二本後ろの電車で来るって聞いて、心配だったからこの駅教えてもらって逆走してきた。ほんと良かったよ、ここまで来て」
気の抜けたような笑顔は先ほどの怖い顔とは似ても似つかなくて、なんだか目が離せなくなった。
それに、汐田商業からは本当に「逆走」になるのにここまで来てくれたのだ。どこまで良い人なのだろうかと、心が感動に騒いでうるさい。
「ありがとうございます、本当に。あのおじさん少し変な人だったので、助かりました」
「あのねえ、少しじゃなくて、あれ絶対変態だから。……これだからほっとけないんだよなあ……」
「なんだか、この駅で三島さんと一緒に電車待つの、新鮮ですね」
三島さんの登場が嬉しくてニコニコとそう言ってみると、三島さんは少しだけ固まった後、片手で目元を覆ってふいと顔を逸らす。何を考えているのかは分からないけれど、ブツブツと「いい」とか「最高」とか聞こえるから悪い感情はないのだろう。
「あれ、康介だ」
慣れた声だったのか、三島さんはすぐに顔を上げて、微かに笑って手で挨拶を返していた。それを辿るようにそちらを見ると、別の高校の制服を着ている爽やかな男の人が居る。灰色チェックのズボンに濃い灰色のブレザーは、確か佐知や紫杏が通っている高校の制服だ。
その人が近くに来ると、私よりも少し身長が高いという、男性にしては低身長なのだと気づく。
同時に電車が到着したために三人で乗り込んで、自然な流れで端っこに立ち乗車で安定した。
「誰だこの可愛い子は。……桜丘女子って……まさか、」
「やめろ、違うから。友達」
「初めまして、不藤です」
「万結ちゃん、こいつね、友達の真嶋紳也。美濃東高の三年ね。基樹とか隼斗と違ってヘラヘラしないから分かりにくいけど、悪い奴じゃないよ」
確かに真嶋さんはあまり表情が動かないようで、その紹介にも興味なさそうな目で軽く頭を下げただけだった。脱力系、ではないし、無表情、でもないとは思うのだけど……感情はまったく読めない。だけど身長が低いからか全然怖くもなくて、目も大きいし顔がはっきりとしているから迫力もあまりない。動物に例えるなら犬、犬種で言えばシェパードとそっくりだ。
「康介、桐島国際いけそうか?」
「うーん、まあ、たぶん?」
「ほんとなんで汐商に行ったんだよ。俺と美濃東来れば良かったのに」
「中学の頃に大学のことなんか考えてなかったし、そもそも俺の学力で美濃東に行けるわけねえだろ」
きっと真嶋さんも、加賀さんや金好さんくらいに、三島さんと仲良しな人なのだろう。そしてその後の会話を噛み砕いてみれば、どうやら真嶋さんも桐島国際大学を志望しているようだ。美濃東からなら全然合格圏内なのだろうから余計に三島さんが心配なようで、表情がないままあれやこれやと何かを言っている。
「ほんとだって。ねえ万結ちゃん、友達……万結ちゃん?」
「あ、はい。すみません。……仲良しだなあって、見てました」
「仲良し? 俺と康介が? あんまり考えたことなかったな」
「おまえはそういう奴だよ。てか万結ちゃん、美濃東に友達居るって前に言ってなかった?」
「居ますよ」
「ほら、嘘じゃねえだろ」
「御崎第二中から? 美濃東に?」
「はい」
美濃東高等学校は、周辺三県を合わせても随一の学力を誇るエリート高校だ。日本一の大学を目指す意識の高い生徒や、運動部の活躍も目覚しいために良いスポーツ大学に進学するのを目的とした生徒まで、在学生は幅広い目標に向けて通っている。
御崎第二中学は学力がそんなに高くないから、真嶋さんが驚くのも無理はないのだろう。
「よほど頭が良いか、よほど運動ができるかだな」
「二人居るんですけど、それぞれですよ。一人は頭が良くて、一人はスポーツ推薦で」
「へえ……女子だよな? すごいな」
「はい。もしかしたら真嶋さんも知っているかもしれません。上月佐知と如月紫杏って言うんですけど……」
「え? 上月佐知って、あのソフトの?」
「三島さんでさえ知ってるんですね、佐知のこと……」
佐知は中学での活躍で、新聞に載ったり地方のテレビチャンネルに出たりしていたから、それでなのかもしれない。
「あー、俺はなんていうか、姉が詳しいんだよな、やたら……」
「……お姉さん」
「忘れてくれ……」
脱力したような三島さんの言葉にそれ以上は話を掘り下げられなくて、何度も頷くことで了承を返す。
すると、ちょうどアナウンスが流れて、そこから聞こえてきた駅名は美濃東の最寄りの駅だった。
「あ、真嶋さん、もうすぐ着きますよ」
そう言いつつも真嶋さんを見ると、なんだか無に返ったような顔をしてつっ立っていた。真嶋さんは表情が動かないだけで笑わないわけではないため「無表情」とは思っていなかったのだけれど、今はまさしく「無表情」と言っても良いほどの顔の硬さだ。
「……真嶋さん?」
「……ああ、そうだな。次だ。次だったな」
「え、あの、」
「頼みがある、不藤さんとやら」
「は、はい」
やたら真剣な目でそう言った真嶋さんは、私の返事を聞いて静かに口を開く。
「俺と会ったことは、如月には黙っていてくれ。絶対だ。絶対に、黙っていてくれ」
紫杏が何かあるのだろうか――――少し考えてみても分からなくて、とりあえず「分かりました」と返すしか出来ない。しかし満足したのか、真嶋さんは電車が止まると同時に三島さんに「またな」と手を上げて、とても爽やかに学校へと向かって行った。
「……なんでしょうね、突然……」
「……あー、そうか。キサラギシアンってそうだよなあ……言ってたもんなあ紳也……んでそっちも万結ちゃんの友達なのか……」
「そっち?」
「いや。えー……実に姉の好物そうな集まりだなと思って……」
好物? と、よく分からない単語に首を傾げるけれど、三島さんは「なんでもない」と苦笑を返すだけだった。