13,行間:女王様と犬
俺の姉である不藤万結は、とんでもなく天然で、とんでもなく鈍感で、そしてとんでもなく可愛い。
小さい頃から付け狙われること数知れず、もちろん鈍感なわけだから本人はそれにまったくと言っていいほど気づいていない。このままでは姉が知らぬ間に消えてしまうのではないか、と焦りに駆られ、柔道なんてものを始めたのは小学三年生の時だ。
そもそも、姉が母に似てしまったのがまったくいけない。外見もだけど中身も似てしまったようで、母もだいぶ抜けている人だが姉も大変抜けている。父は母に関して「大変だった」といつだって語るけれど、見ていればなんとなく察しはついた。唯一救いだったのは、妹の美沙が父に似たことだ。あれでまた母に似てしまっていたら、俺がとんでもなく大変な目にあっていた。
そんな姉が、俺が何をするにもいつも可憐な笑顔を無防備にも晒して理久理久と世話を焼いてくれていたのはいつまでだったか。気が付けば姉は俺に対していつもビクビクして、俺には笑顔は見せなくなった。
だけど、あれは姉がいけないのだ。
外でも普通に俺に笑いかけ、甘えるような仕草をして、まるで「さらってください」と周囲にアピールでもしているかのようなことを繰り返す。それに嬉しいと感じる次には、どうして分からないんだと腹が立つのだ。
姉は可愛い。とんでもなく可愛い。だからこそ俺が守らなければならない。俺だけに見せる笑顔はなんて最高なんだろうか。とにかく可愛い。特に笑顔が最高だ。だけど俺に怒っている顔も捨てがたいほど可愛いし、怯えている姿も可愛すぎる。
そう、可愛いのだ。
「あら~、今日も良い子で『待て』してるのねえ? 駄犬ちゃん」
コンビニの前の邪魔にならないところで立っていると、またしてもあの悪魔がやってきた。
ここ最近、姉に付きまとっている、まるでストーカーのような悪魔である。
「……あんたこそ、いつまで姉に付きまとうんだ……ですか……」
「ふふふ、それはあなた次第じゃない。いいのかしら~? 私のおかげで天使への態度が改善されてきて、やぁっと可愛い笑顔が見え始めたのよ?」
「うるせえ。他人のあんたには関係ねえだろ、余計なことすん……」
「勘違いしなさんな」
「いッ、」
隣にやってきた悪魔はいつものピンヒールで俺の足のつま先を一度強く踏みつけると、そのままグリグリとヒールをねじり込むように力を入れる。
「てえんだよババア!」
「この私が犬のために動いてると思ってるの? 私はあくまでも、天使のために犬の躾をしているまでよ。あなたがあの子を泣かせる限り、私があなたを泣かせてあげる」
「うっせえな!」
踏まれた足を無理やり引っこ抜いて、数歩分の距離を取る。
この悪魔、何を嗜んでいるのか分からないが、俺が柔道技をかけようとすると見事に動きを封じてくるために反抗するのも無駄なのだ。少しでも隙があればオトすことも出来るのというのにそれ以前に封じられては何もできない。とてつもなく不本意ではあるが、この悪魔相手には逃げの一手に限る。
「私の弟もね、どうしようもないガキだったのよ」
タバコを咥えてそう言った悪魔は、慣れた手つきで火をつける。
「あなたほど愚かではなかったけど、弟は『女』という生き物に対してあまりにも無関心だった」
この悪魔の弟と言えば、俺が勝手に親近感と同情心を寄せている「生贄一号」のことだ。そして同時に勇者でもある。いや、この悪魔と幼少期から今の今まで、それこそ現在進行形で過ごしているのだから、英雄と言っても不足はないだろう。
「嫌いなのよねえ、男尊女卑? 一夫多妻? 男は強いから女を従える? 女は男に尽くして当然? そんな考えくそくらえよ。だからこそ、無関心を貫く弟が許せなくて厳しく厳しく躾たのだけど」
悪魔は一度言葉を切って、そしてゆっくりと口を開く。
「目覚めたのよ」
「……は?」
「聞こえなかった? 私、女王様の素質があったの」
「いや、え、」
「それに私は罪なことに美貌にも恵まれたわ。三六十度、いつどこから見ても完璧な比率の美貌と豊満な肉体……それだけでも勝ち組だというのに、さらに神様は贈り物をくれていたのよ。二物も三物も与える心の広い神様はそう、さらに私に、女性にもモテてしまうという贈り物をしたわ……」
「ちょ、」
「それに気づかずに桜丘女子学園に入学して、そこで神様からの贈り物が開封されたの。きっと神様が『早く気づけ』とあの学園への進学を勧めていたのね……だって自然と、あの学園に行きたいと、中学二年の頃から思っていたもの」
「あんたレズビアンなの?」
「残念ながらバイね」
フー、と吐き出した白い煙は、すぐに空気に溶けて消える。
「話は逸れたけれど、要するに」
そうしてすっかり短くなったタバコを灰皿に押し付けて、悪魔はにっこりと俺に笑いかけた。
「安心して調教されなさい? 駄犬ちゃん」
「近寄んなババア」
「あらー? あらあらあらあら? 口調が戻ってるわねえ?」
「来るな……いや、来ないでください」
悪魔が悪魔であるように、俺に対してはそれらしい雰囲気を隠しもしなくなった。しかし本当に、悪魔の片鱗はたまに見ているはずなのに、あの姉はどうしてこいつが悪魔であることは疑わないのか。
顔立ちだけは悪魔が自画自賛するのを否定できないほどには綺麗だけれど。それでも性格がこれならば大問題である。
「あなたもねえ、顔だけは天使に似て美しいのだけど……」
ぐい、と胸ぐらを掴まれて、離れていたはずの距離を縮められた。
その力は驚く程に強く、鍛えているはずの俺が咄嗟に抵抗をしても関係逆らえないほどである。この細腕のどこにいったいそんな力が秘められているんだよ――――と悪態をつきたいが、口を開けば厄介事になると分かっているために眉を寄せて睨むに留める。
「あなた、重度のシスコンだけど、恋人が居たことなんてあるのかしら?」
「はあ!? ねえ……ない、です……」
「ぁあらじゃあ駄犬ちゃんは童貞ちゃんでもあるのねえ?」
馬鹿にされたのか、と思うも、俺の年齢で童貞、非童貞なんて比率で言えば半々くらいだ。この悪魔もそれを分かっているのだろうし、その表情は馬鹿にしている様子もない。
「だったらなんだよ、あんたには関係な……い、ですよね……!」
「ご褒美をあげようって言ってるんじゃないの」
ご褒美――? なんて、自称女王様から出るには不穏な単語にぐっと身を引くが、やっぱり引き寄せられたままで動けない。
近距離でこの美貌は目に毒だ。性格があれでも、この悪魔は外観だけは整っているのだから。
「あなたが上手に私の言うことを聞けたら、あなたの童貞を私が優しく貰ってあげる」
「……はあ? 別に俺は、」
「あらあら、嬉しくないの? この、私が、駄犬ごときに身体を許してやるって言うのよ?」
悪魔の手が、そのご自慢の胸元に置かれる。ゆっくりゆっくり伝ってその大きさを見せつけるように腹部にいくと、少しだけ服の裾をめくった。
ごくりと、自然と喉が鳴る。
そういったことに興味がないと言えば嘘になる。しかし今は姉のことで忙しいと言い聞かせて、そういったことからは目を逸らしていただけなのだ。
「……あ、あんた最低すぎだろ……いちいち、あんたが『躾』とやらをしてる相手全員にそんなことしてんのかよ」
「なんですって?」
「いって!」
またしてもヒールが俺の足先を刺激したために、最初よりも早いスピードで引き抜いた。二度同じ場所を狙ってきたのはまったく悪魔の所業と言える。
「てめ、」
「残念ながら私にも好みがあるのよ。あなたはなんとも幸運なことに、そして残念なことに、天使のような顔をしているの。そうつまり、私の好みの範囲内ということ!」
「俺に抱かれたいなら抱くけど、あんたが優位なのは嫌だね」
「なんで私が男ごときに『抱かれたい』なんか言わないといけないのかしら? 童貞のくせに大きな口を叩くのねえ」
「その童貞食いたいって言い出したのはあんただろ……ですよね!」
顔つきが悪魔に変わったために瞬時につくろって誤魔化すと、悪魔は満足したのかその真っ黒な空気を鎮
めた。
「食いたいなんて言っていないわ、ご褒美をあげると言ったのよ」
「は? なんでそれがご褒美なん……ですか」
「この私の身体よ? みんな言うわ、一晩でいいから触れさせてくれって……」
「俺は言ってね……ないです」
「だったら言いなさい。あなたにそれを口にする栄誉を与えてあげる」
「あー……」
この悪魔はとても悪魔だ。外見だけは最高なのだが、中身がいかんせん最悪すぎる、極上の悪魔。
そしてとんでもなく傲慢で横暴で高飛車で、とんでもなく面倒くさい。
「俺まだ中三だから、あと二年後くらいにして」
あからさまに呆れ口調で言ってやれば、悪魔がガツンと膝で俺の股間を蹴り上げた。
「ぃッ!?」
突然の衝撃に言葉も出せないまま、外だというのに情けなくもうずくまる。
なんて勢いで男の急所を攻撃してくるのだこの悪魔は。俺の生殖機能が死んだらこの女を末代まで祟ってやる。
「あら、意外と立派なモノを持ってるのねえ」
「言うに事欠いてそれかよ……」
震える声も一切無視した悪魔が、膝をついている俺を見下ろす。
「見てなさい、二年後、あなたから『ご褒美をください』って言うことになるわよ」
「言わせてみやがれ似非女王」
ピクピクとこめかみを揺らす悪魔を見て、言いすぎた、と思ったのも束の間。
すぐにそのピンヒールが、俺の後頭部に叩きつけられた。