11,行間:桜丘女子学園より
入学してからすでに、三ヶ月が経った。
もうすぐ夏休み、というその時期に差し掛かった私たちはすっかり浮かれムード、なこともなく、さすがは進学校と言うべきか、期末テストに向けてクラスメイト達は昼休みには必死に机に向かっている。
それはもちろん私と絢芽も例外ではなく、私の席に椅子を持ってきた絢芽と分からないところを話し合っていた。
「ねえ絢芽、古文の伊勢物語のさ、この部分の掛詞ってここでいいのかな」
「ん? あ、そうそう。こっちと間違えないようにって、先生言ってた」
「え、授業で言ってたっけ?」
「ううん。岡部さんが先生に質問してるの盗み聞きしただけ」
そう言って悪戯っ子のように笑った絢芽はなんだか幼く見えて、私も安堵の息を吐く。
真面目に先生の話を聞いていたつもりだったために授業を聞き逃したのかとちょっと焦ったけれど、そんなことではなかったらしい。
「やったじゃん岡部」
「うんほんとまさか聞いてくれてたなんて……」
ヒソヒソと聞こえて「え?」とそちらを振り返ると、その先に居た岡部さんとその友達は不意に私と目が合って慌てたのか、真っ赤な顔でぺこりと頭を下げた。まるで先輩にする仕草のようなそれにどう返したら良いのか分からなくて、だけど目が合ったために何もしないのも変かなと軽く手を振り、再び視線をノートに戻す。
「テスト期間中は部活ないけど……金好さん寂しがってない?」
何気なく聞いてみると、絢芽は不思議そうな顔をしていた。
「なんで?」
「一緒に帰らなくなったじゃん」
「別に……部活がないならないで万結と帰れるし。理久くんにも久しぶりに会えたしね」
朝の電車では以前と変わらず、あの三人と一緒に過ごしている。日が経つにつれて三人と仲が深まっているのは感じているし、自分の中の男の人への認識も徐々に改善されてきていて、あんなにも意地悪なのはきっと理久だけなのだろうという結論にも至った。
そうやって男の人みんなが悪い人ではないのだろうと分かってきてはいても、やっぱり堂々と話すことはまだまだ出来そうにはないけれど。
「でもなんで私、ちょっと怯えられたんだろ……理久くんに嫌われることしたっけ」
「いや、してないよ。違うの、理久は今ちょっと……」
「え、なに?」
私が神妙な顔をして頷くと、ただ事ではないと思ったのか、絢芽はもうその話には触れなかった。
清香さんが別れ際に私のブレザーに入れたのは、連絡先が書かれた紙だった。失礼な別れ方をしてしまったからと理久に内緒で「今日はすみません」と連絡を入れたのが始まりで、実はずっとやり取りは続いている。
テスト期間中は絢芽が居るから理久も大人しい。絢芽を見てびくりとしてずっと黙り込んでいるだけで、意地悪なことなんて何一つ言わないのだ。しかしテスト期間前はひどかったし、終わってからもきっといつも通りだろう。そんな時、役に立つのが清香さんである。
清香さんは偶然を装って五日に二回のペースで私たちに遭遇し、私に意地悪を言う理久を脅かしているのだ。最初は反抗していた理久も、だんだん疲れてきたのか、それとも諦めてきたのか、はたまた精神的に負けたのか――――今ではとても面倒くさそうに、だけどたまにビクつきながら清香さんに接し、少しは私に優しい言葉をくれるようになった。本当に少しだけだけど。
「あのー……七々原さん」
教科書を読んでいると、上から声が降ってきた。
私と絢芽が同時にそちらを見ると、クラスメイトの女の子二人が恥ずかしそうに並んで立っている。
「うん? なに?」
「あ、あの……夏休みにね、陸上部の合宿あるでしょ? それの資料……まとめておいたから」
クラスメイトの三浦さんが差し出したそのプリントを受け取ると、絢芽は「ありがとう」とお礼を返していた。そういえば三浦さんは、陸上部のマネージャーだった気がする。小動物のような、細かく言えばリスのような三浦さんは、その見た目通りにふんわりと女の子らしい女の子だ。
「ごめんね、邪魔しちゃって」
じっと三浦さんを見上げていた私に、何故か申し訳なさそうにそう言った三浦さんはどういう心情なのか、しゅんと元気をなくしてしまった。私が怒ったような顔をしていたのだろうか。それならば申し訳ないなと、誤解を解くためにもすぐさま首を横に振る。
「別に邪魔なんてしてないよ。私たちだって、普通に雑談しながら勉強してるし、全然」
「そうだね。良かったら、三浦さんと志田さんも一緒にやらない? 三浦さん確か物理得意だったよね?」
「え! いいの!?」
三浦さんと、一緒に居た志田さんの目がキラキラと輝き出す。何かを期待するように二人の目が私を見たために私も「一緒にやろう」と頷くと、とても早い仕草で二人は椅子を持ち寄り、隣の机をひっつけた。
よほど勉強熱心なのだろう。
「はあ、まさか二人とこんなに近くに居られるなんて、南無」
「三浦ちゃんのおかげだよ、天に感謝、南無」
合掌して一瞬祈るような体勢をした二人は、やっと教科書を開いた。
変わった人だね――――と絢芽を見ると、絢芽も同じことを思ったのか首を傾げている。
「七々原さんと不藤さんは、そのー……いつから一緒に居るの?」
教科書を見てノートを書きながら、志田さんが静かに言う。本当に静かな声だったのに、その言葉を最後にどういうわけか教室中が静かになったような気がした。
「……いつだっけ……小学生から?」
「覚えてないの? 五年生の時初めてクラス一緒になって、そっから仲良くなったんじゃん」
「あれ五年生の時だっけ。それまで絢芽は佐知と仲良かったよね」
「そうそう」
小学一年生の時からずっと、親しい友達は居なかった。どうしてか誰からも話しかけられなくて、話しかけても慌ててどこかに行ってしまうから仲良くもなれず。それが恥ずかしくてずっと俯いて過ごしていたところに、絢芽が声をかけてくれたのだ。
そして、絢芽と一緒に居た佐知とも友達になれた。
ちなみに佐知は中学まで一緒にいた仲良しグループの一人で、今は自転車で通学出来る共学高校に通っている。
「そういや佐知、来週の土日練習試合だって言ってたよ」
「え? でもまだレギュラーじゃないでしょ?」
「後半戦は出してもらえるんだって。ほら佐知、スポーツ推薦じゃん。中学ではMVP獲ったりしてたし、監督とかチームメイトも最初から佐知には期待してるっぽい。先輩とかから嫉妬とかもなく、むしろ友好的に『頑張ろうね』とか言われるらしくてやりづらいって言ってた」
先週の土曜日の夕方、久しぶりに四人で集まってファミレスでご飯を食べたけど、みんなそれぞれ高校の話はしなくて、中学の頃の話で盛り上がっていた。だから何も変わらないなと思ったのだけど、どうやらそうでもないらしい。佐知も大変なんだなあ――――なんて眉を下げて、私たちを見る三浦さんと志田さんにやっと気づいた。
そうだった。私たちは今、勉強をしているのだ。
「ご、ごめんね二人とも。うるさかったね」
「え! 全然! むしろ二人の過去とか聞きた……じゃなかった、ご褒……でもない、っていうか一つ聞いてもいい!?」
「え? うん」
三浦さんが小動物たる所以であるくりくりの目に不思議な熱を宿して前のめりにこちらを見ると、一度志田さんと目を合わせて頷き合う。
「中学でMVP獲った人で『佐知』って名前ってことは……それって、上月佐知さんのこと?」
「そうだよ。知り合い?」
「そんな滅相もない! だけどまさか二人が、ベリーショートで日焼け肌が良く似合うワイルド系の上月さんとも仲良しだなんて……本当になんて眼福な仲良しグループなの……!」
「私、私中学の頃北野ソフトボールチームの試合とか追いかけてたよ! そこで上月さんを知って、御崎第二中の練習試合も見に行ってたし!」
やたら細かく佐知のことを知っている様子の三浦さんも、試合を追いかけていたと鼻息を荒くして言う志田さんも、どうやらその口ぶりからは知り合いではないらしい。
キラキラとした目で私たちを見る二人をどうすれば良いのかが分からずに絢芽を見ると、絢芽も困っている様子で「佐知はファン多いよねえ」と苦笑気味にそう漏らす。
そして絢芽は、それに、と言葉を続けて、
「佐知、高校でも人気らしいよ。これは、同じ高校に行った紫杏情報ね」
中学の時から男女共に友達が多かった佐知は高校でも変わらないようで、なんだか一安心だ。そもそも佐知がクラスで浮くなんて想像もつかないし、さっぱりあっさりした人情味溢れる佐知が嫌われるなんて天と地がひっくり返ってもありえない。
さすが佐知だね。と、一応言葉にしたのだけど、三浦さんと志田さんはまだ夢見心地なのか、うっとりとした顔をしてただ合掌しているだけだった。
ちなみに。
――――如月紫杏という、アニメのキャラクター顔負けのキラキラネームの女の子が仲良しグループの残りの一人だ。しかしそんなキラキラネームに負けずたくましく育った紫杏は、今では「楽しいよね」とギャップ全開にフルスロットルで楽しんでいる。とても前向きな子だ。
「紫杏のことも知ってるかなあ……?」
絢芽の耳元にひっそりと問いかけると、うーんと一度首を捻って、
「分かんないけど、知ってるかもしれないから言わない方がいいね。紫杏も、ああだからさ」
「……そだね」
じゃあ黙っていよう、と席に座りなおすと、教室が静かなことにやっと気がついた。
そうしてざわざわとざわめきを取り戻した頃、私もやっと教科書に目を落とす。古文と英語は苦手教科だから、みっちりやらないとついていけないのだ。