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今夜もまた執務室で一人、適当な食事を詰め込み外に出る。
山ほど積まれた書類の採決の間に、いきなり現地視察が飛び込む。
その処理に追われているうちに食事もままならずに日が沈む。
なんだかんだでもう三日も蛍の顔を見ていない。
このまま蛍の顔が見られないのはさすがに苦しい。
叫びだしたくなるような思いに駆られていると、その面影が視界を遮った。
「フロー?
大丈夫?
疲れてない? 」
俺の顔を覗き込んで矢継ぎ早に訊いてくる。
伸ばされて頬に触れた蛍の手から熱が伝わり、それが現実だと実感する。
今日の蛍のドレスは見たことがない、淡いブルーの上質なものだ。
「あ、これ?
姫様に貸してもらったんだよ。
今日ね、一緒に隣町のお祭りにいってきたんだ」
俺の視線を受け、言いながら蛍はエール用のジョッキを俺に差し出す。
「お土産だよ」
外側全体が結露して水の滴るジョッキが揺れるとカランと聞きなれない音がする。
「ごめん。
これでも急いで帰ってきたんだけど、持ってくる間にほとんど溶けちゃった。
ここにも、氷ってあったんだね? 」
「ああ、隣町は氷河があるからな。
祭りとか特別な時には切り出して使うんだ」
ジョッキを受け取ると、中に入った半分溶けかけた氷を遠慮なく口に含む。
ひやりとした冷気が口中に広がりその冷たさを残しながら舌の上で徐々に氷は小さくなって行く。
「まさか冷蔵庫もないのに夏場に氷があるなんて思ってなかったからびっくり。
あ、アイスクリームもあったんだよ。
さすがにこっちは溶けるのが早くて持ってこられなかったけど」
懐かしいものでも探すように蛍は目を細めて視線を泳がせる。
「次には一緒に行けばいいだろう」
そこから意識を引き戻したくて、言いながら抱き寄せると重ねた蛍の唇へ、口の中で小さくなった氷のかけらを押し込んだ。
「駄目だよ。
これはフローの分」
恥ずかしそうに頬を染め蛍は不服そうに言う。
その表情に俺の理性はあっけなくすっ飛んだ。
手にしたジョッキの中身を一気に咽に流し込むと、残った氷を噛み砕く。
「来いよ」
蛍の手を握ると強引にキープの中に連れ戻した。
窓が小さい上に構造上風が抜けにくいためキープの中にはじっとりとした熱気がこもっていた。
そのせいかさっきまで重なっていた肌が汗ばんでさらりとしたリネンのシーツの感触が心地いい。
「ね? 修行ってどうやるのかな? 」
僅かに乱れた息の下で蛍が呟いた。
「修行? なんだよ、それ」
突然突きつけられた興ざめな言葉に俺はあきれ返る。
こういう時にはもう少し艶っぽい話になるもんじゃないのか?
「だから、魔力を高めるって言うか、魔術の上達するためのトレーニング」
「いや、それはわかっているが……
そんなの必要あるのかよ? 」
蛍の考えていることが理解不能で俺は首を傾げるばかりだ。
「あるに決まっているでしょ。
フロー前に言ったよね?
魔術が上達すればもしかして帰れるかも知れないって」
「言ってない。
俺は、“魔術は上達する可能性がある”って言っただけだ」
「嘘つき! 」
蛍は思いっきり叫ぶと俺から距離を取る為か起き上がる。
正直魔力の上達するための鍛錬なんてもの、まるで見当がつかない。
魔法薬専門の魔女なら材料を入手して配合を変え効き目を試し…… するうちには自然と腕が上がっていくものだが、予言の能力の上達方法なんて知る由もない。
「まだ、帰るつもりなのかよ? 」
「そうだよ。いけない? 」
その言葉に無性に腹が立って俺は蛍を引き寄せる。
「ここにいろよ」
その小さな躯を組み敷きながら俺は耳もとで囁いた。
多分、俺のその望みは叶えられない。
そう判っていながら口にする。
返事の代わりに蛍の唇がそっと俺の頬に触れる。
「あたしね、ユークレース殿下と契約しようかと思うんだ…… 」
そして、俺の胸に頭を預け蛍はポツリと呟いた。
「莫迦かお前、それじゃ帰れなくなるかもしれないんだぞ」
その言葉に俺が慌てふためく。
ついさっきまでまだ蛍は帰る方法を模索していたはずだ。
「フロー、さっきと言ってることが逆」
おかしそうに蛍がくすりと小さな声を漏らす。
「それを言うならお前もだろう? 」
「うん、逆。
ホントはね、帰るって言うのは嘘。
あたしの魔力や使える能力じゃあまりに些細過ぎて、次期国王の専属魔女なんておこがましいから。
少しでも力をつけたいなぁって思ったんだ」
その言葉で、蛍の気持ちはもう決まっているとわかる。
「一生ここで暮らす気かよ? 」
「いいよ。
それでフローの側に居られるんなら」
すっと蛍の両手が伸びたと思ったら俺の頬を挟んで視線を固定され目を覗き込まれた。
「だからって、なんで兄上の魔女なんかにっ!
それだったら俺が契約する」
「駄目だよ。
あたしね聞いちゃったんだ。
フローの婚約者だったルチルさん?
殺されたんだってね」
「何処で、それを?
誰も口にしなかったはずだろう? 」
あの時の光景は今でも頭の隅に焼きついている。
白いリネンの夜具に広がる乱れた髪。
ぽっかりと何も移さなくなった針水晶の色の瞳。
そして首を半分以上も切り裂いた深い傷から流れ落ちた鮮血が白いナイトドレスを真っ赤に染めていた。
犯行を隠そうともしない無残で残酷なあからさまな手口。
ルチルを殺した犯人はあっけなくつかまり首を括られた。
ただ公にされてはいないが、その人物に裏から指示を出した人間がいる。
誰でもない、国王自身だ。
理由はわかりきっている。
王太子の妃がその乳母の娘では分不相応だったという話だ。
ルチルは俺の乳兄弟だった。
本当なら妃になれる身分じゃない。
将来を供にする相手が見つかり呪いが解けた後、その相手が死んでしまっても再び呪いに掛かることはない。
そう見越して貴族の血を持たないルチルは殺められた。
俺を王太子にふさわしい血統の女と娶わせる為に。
主犯格が誰なのかは誰の目にも明白だったがその人物の地位が地位だったために誰もが口を閉ざした。
うっかり口にしようものなら自分の首が飛びかねない。
そしてルチルの死因は誰からも忘れられたかのように扱われた。
蛍にだって話す人間はいなかった筈だ。
「ユークレース王子から無理やり聞き出したんだ。
あの時のフローの様子があんまりおかしかったから。
ただおかしいってだけじゃなくて、辛そうだったから」
蛍の手がそっと伸びると俺の髪に触れる。
「でね。ユークレース王子に言われたんだ。
このまま、あたしが側にいるとフローに他の誰かと結婚させたい人間が、あたしを殺しに来るって。
お前はフローをまたあんなに悲しませたいのかって。
だけど、魔女の殺害は大罪なんだってね。
だから次期国王の契約魔女になれば、誰もあたしを殺そうなんて思わなくなるから。
この先フローを悲しませずに側にいたいんだったら、それが一番の方法だって。
いいじゃない、別にユークレース王子と結婚しようって言っている訳じゃないんだもの。
そしたらあたしがフローの婚約者になっても、殺されるリスクって減るんだよ。
こんなおいしい話ないでしょ? 」
言いながら蛍の顔が真っ赤に染まる。
「お前、本当にそれでいいのかよ? 」
その言葉に唖然としながら、俺はもう一度訊いた。
多分、恐らく、確実に…… 蛍は今、俺の一番欲しかった言葉をくれているんだと思う。
少々遠まわしすぎて色気も何もあったものではないが。
「もぅ。これ以上言わせないでよぉ」
拗ねるように言って蛍は真っ赤に染まった顔を毛布の中に埋めてしまった。
「でもお前、向こうで付き合っている奴とかいたんじゃないのか? 」
先ほどパライバに釘を刺された言葉が耳に蘇る。
「今更、それ言う? 」
毛布の隙間から少しだけ顔を出して、蛍は呆れたように俺を見る。
「あたし気がついちゃったんだ。
少なくとも先輩はフローみたいにあたしのこと見ていてはくれなかったって。
確かにあたしと付き合ってくれてたけど。
そもそも告白したのってあたしなんだよね。
でね、声を聞きたくて電話するのもデートの約束も皆あたしから。
先輩から連絡が来ることって一度もなかったなぁって。
断られた事は一度もなかったから、嫌われてはいなかったんだと思うんだけど、それだけ。
優しくて断れなかったのか、断るのが面倒だったのかはわかんないけど。
先輩が指示した通りの髪色にして、先輩が言うからネイルして、先輩の言うブランドのワンピ買って。
これでも嫌われないように頑張ったんだよ?
だけど、どんなに言われたとおりにしても誉めてもらった事なんて一度もなくて。
少しでもネイル剥げてたりしたら、そう言う時には嫌味言われて。
……あたしって、先輩のなんだったのかなぁ?
今頃はきっと新しい彼女とか作っていそう」
そう言う蛍の声はなんだか泣き出しそうだった。
「もう、いい。
黙れよ…… 」
そっと毛布を捲ると、蛍の顔はとても悲しげで苦しそうだ。
それに蛍が好きな奴の話なんか聞いても俺は全く嬉しくない。
そのどちらも防ぎたくて、俺は蛍の唇に自分のそれを重ねる。
「決めたんだろう?
此処にいるって。
だったら俺のことだけ考えろよ」
呟いて、もう一度唇を合わせながら、柔らかな白い肌に手を這わせた。
小鳥の囀る早朝の中庭は空気がひんやりとして心地いい。
「あたしね、国王付きの魔女になったらやりたいことがあるんだ」
中央に掘られた井戸の側で蛍は向日葵色のドレスの裾を揺らして振り返る。
「なんだよ? 」
その光景に俺は目を細めた。
「この国の王位継承者に掛けられた呪い。
解きたいなぁって。
そしたらルチルさんみたいに殺される人っていなくなるでしょ? 」
「どうかな? 」
俺は歩み寄ると蛍の華奢な肩を抱き寄せる。
王族なんてのは今も昔も王座を巡って血なまぐさい争いが絶えない。
妙な呪いなんかなくても、元々呪われているようなものだ。
「あたしのこのちゃちな魔力じゃ、死人を生き返らせちゃうほどの魔力を持った魔女の能力には勝てないかも知れないけど。
でもね、少なくとも自分の血の入った一族の呪いなら軽くすることができるんじゃないかなって思うんだよね」
「自分のって、お前のか? 」
「うん。
それとフローのね。
なんかわかんないけど、三代後とかに王権が移る気がするんだよね。
だからその時の為に、せめて、呪いを解くための人間を待つんじゃなくて自分で呼び出せるとかにくらいは軽減できたらなって。
そうしたらユークレース王子みたいに何年も苦しまなくてもいいでしょ?
回数は十回くらいでいい? 」
数を確認するように蛍は両手を自分の目の前に持ってゆき指を開く。
何時の間にか過剰に装飾されていた爪は色を失い、僅かな痕跡を残して自然な桜色に戻っている。
「爪、戻ったな」
そっとその片手を取ると握りこみ、俺は惜しんで唇を寄せる。
「いいよぉ。
あれ結構大変だったし。
少しでも爪先が剥げたらすぐに落として塗りなおさなくちゃならないし。
なんかね、塗っていると爪息ができないって言うか重い感じになるし。
全部落ちたらね、プルームに花粉で染める方法教えて貰う約束してるんだ。
あれはあれで綺麗だよね。
使う花の色によって少しずつ色が違うし」
蛍は少し淋しそうな笑みを浮かべた。
「勿体無いって気がしないか? 」
「しない、しない……
あ、でもじゃ、こうしようか?
呼び出せる回数分だけその人物の爪に印を入れるの。
使った順から消えてゆくってのは?
残り幾つなのか目安になっていいでしょ? 」
「おまえ、遊んでないか? 」
「もちろん!
せっかく魔女になれるんだよ?
少しくらい遊ばなくちゃ割に合わないでしょ? 」
笑みを浮かべた蛍の顔は何かが吹っ切れたようにどこか晴れ晴れとしていた。
FIN




