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失敗した、失敗した、失敗した……
もう何度頭の中でこの言葉を繰り返しただろうか?
よりによって感情に任せて口にしなくてもいいことまで喋り捲って、蛍を不安にさせただけじゃなくて、ここに居づらくさせてしまった。
下手をしたら今夜にでも蛍はここを出て行ってしまうだろう。
例え行くあてがなくても、だ。
元々、俺が勝手に連れてきて勝手に留め置いた。
蛍はといえば、行くあてがなかったからなんとなく厄介になっていたに過ぎないだろう。
だから、迷惑を掛けていると思い込んだ以上はそれを回避に掛かる。
考えていることはなんとなく判る。
それだけは止めなければいけないとは思う。
だが、さっきから繰り返される短い言葉に邪魔されて全く他のことにまで思考が追いつかない。
「フロー様?
いい加減にして下さいますか? 」
耳もとでどこか冷ややかなパライバの声が響いた。
「先ほどから全く、一枚も処理が進んでおりませんが? 」
辛辣に言い放たれる言葉に俺はようやく顔をあげた。
「それどころじゃないんだよ」
俺は手にしていた書類を書き物机に叩きつけた。
「真剣にやっていただかないと、夜が明けてしまいますが」
促すようにパライバは視線を窓の外に向ける。
さすがに夜明けというのは大げさだが、既に日は完全に落ちていた。
それを目に俺はふらりと立ち上がる。
「どちらへ? 」
「ちょっと目を覚ましてくる」
追ってくるパライバの声に答えて俺は部屋を出た。
中庭に出るとひんやりとした空気が躯を包んだ。
風のほとんど通らない蒸し暑いキープと違って、今の時季ここは心地がいい。
周囲を城壁に取り囲まれた夜空を見上げると、かすかに星が瞬いていた。
それを目に俺はゆっくりと空気を吸い込む。
何度かそれを繰り返していると、ようやく少し落ち着いた気分になれたような気がする。
人の気配を感じて視線を向けると、何かを言いたそうな顔で蛍が立っていた。
「あ……
あのね、フロー。
ちょっと相談があるんだけど…… 」
どこか申し訳なさそうに口を開いた。
「なんだよ? 」
蛍の事だ、どうせ『働き口を紹介してくれ』とか言うつもりなんだろう。
そう予想しながらも訊いてみる。
「ここじゃ、ちょっと…… 」
同じように涼みに出てきた人影を見渡しながら消え入るように言う。
キープの中に戻るとパライバの居る執務室を避け、蛍を自室へ招き入れとりあえず確認する。
「ここで、いいか? 」
ここなら今の時間、使用人どころか誰も寄り付かない。
ゆっくり話をするには最適だ。
「それで、相談ってなんだよ? 」
人の耳を気にするところから、職の紹介とか安易な話じゃないと予見して俺は気合いを入れる。
「あたしどうしたらいいと思う?
ユークレース王子がね。
ご自分付きの魔女にならないかって」
「な…… 」
思いもかけない言葉に、俺は耳を疑った。
「それで、お前なんて答えたんだよ?
まさか即答なんかしてないだろうな? 」
我ながら堰を切ったような勢いで問い詰める。
「まさか、即答してたらフローに相談になんてこないよ」
蛍が激しく首を横に振った。
「正直迷ってるんだよね。
だって、あそこに迎えに来てくれたのはフローで、助けてくれたのもフローでしょ?
そのフローを差し置いて、お兄さんの魔女になるってのはね…… 」
「何処から、そう言う話になったんだよ? 」
「ん、とね。
昨日のネズミの話。
ユークレース王子に相談したんだ。
フローに言ったら絶対引き止められるから、別の立場の人にアドバイス貰いたくて。
そしたら、ね…… 」
「自分の魔女になれってか。
そうすれば、このままここに居られるって言われたんだろう? 」
蛍は大きく頷いた。
まだあまり多くは知らないが、兄上の呪いが解けた今、それが最善の策だろう。
次期国王の契約魔女ともなればその能力を恐れ、呪いを恐れ、誰も手を出そうとはしなくなる。
おまけに兄上は労せず契約魔女を手に入れることができると言う訳だ。
だが、それでは蛍が帰れなくなる可能性が高い。
俺がずるずると契約を後延ばしにしてきたは何のためだったのかわからなくなる。
湧き上がってくる怒り。
蛍を欲しくて欲しくてしかたなかったのは俺のほうだ。
だからこそ、蛍を傷つけたくなくて、悲しませたくなくて契約もせずにこうして側に置いた。
怒りと同時に、今更ながらに俺にとっての蛍の存在が明確になってくる。
いくら俺が気を廻して守っても、所詮誰かに壊されてしまうものなのなら……
気がつくと俺は蛍の小さな躯を抱きしめて唇を重ねていた。
その笑顔をいつでも側に置いて愛でていたかった。
いや、笑顔だけじゃない。
感情と共にころころ変わる表情も、みていてはらはらさせる常軌を逸した行動も何もかもが飽きなくて、全てが俺をひきつける。
本当は帰したくなんてないのだ。
一生このまま手元に置きたい。
俺の腕の中で抵抗してもがく蛍を抱きしめたまま何度となく啄ばむキスを繰り替えす。
程なく、まるで諦めたかのように、蛍が抵抗を止めた。
それどころかほとんど身動きしなくなったその躯に異変を感じ俺はようやく腕の力を緩める。
途端、ものすごい力で突き放された。
「っ……
なん、で? 」
涙目になりながら蛍は俺の顔を睨みつける。
その問いには答えずに蛍の二の腕を掴みベッドの中へ投げつけた。
次いで逃げられないようにのしかかりリネンのシーツに押さえ込む。
「ちょっと、待って。
駄目だよ、フロー。
落ち着いてよ。
婚約者がいるんだよね? 」
戸惑った声をあげ蛍が俺の胸元で必至に腕を突っ張る。
「気にするなよ、そんなこと」
体格差のある目の前の女を完全に動けないこの状態にしてじゃ、我ながらヤバイと思いつつも止められない。
タイを緩めつつ、もう一度唇を重ねようと顔をおろす。
「だって、絶対駄目っ!
あたしルチルさんに怒られたくないし、憎まれたくないっ! 」
今度は口をかたく引き結んで激しく頭を左右に動かし、蛍は必至の抵抗を試みる。
やっぱり、こいつ、面白い。
普通なら悲鳴をあげるとか、ありえない渾身の力を発揮して振り払うとか、噛み付くとかが相場だろう。
なのに、なんだってこいつは俺を説得なんかはじめるんだろう?
それも意識的になのか、無意識なのか俺の一番弱いところをついてくる。
きっと他の女相手だったら、俺はここで正気に戻っただろう。
だが、今回は相手が悪かった。
その話題は俺を煽るのに充分だった。
「気にするなって、言ってるだろう?
ルチルはもういないんだ」
目の前の蛍の顔と居なくなってしまった女の顔が重なる。
漏れでた俺の言葉にふと蛍の力が抜けた。
「それって、どういう? 」
ついでにさっきまであった抵抗色が一気に変わる。
ぼんやりと目を見開いたまま蛍は呟くように訊いてきた。
「いないんだよ…… 」
うめくように言う俺の言葉に何かを察したのだろう。
蛍の白い両腕がそっと伸び、俺の頭を優しく抱きしめる。
「いないんだ…… 」
「……うん」
もう一度繰り返した俺の言葉に蛍が小さく頷いた。
そしてその柔らかな頬を寄せると、そっと目を閉じた。




