-3-
ひやりとした風が頬を撫ぜ、髪を揺らす。
その冷たさに、先ほどまでの熱を帯びた感情も多少は戻る。
このシーズンになると風の通らない建物の中を嫌って何人もの人間の姿が中庭にはある。
その中に混じるようにふらりと足を踏み入れると、キープを取り囲んだ塀に寄せて造られた使用人用の食堂から出てくる何人かの人影と出くわした。
「フロー! 」
その中の一つが俺の姿を見つけて駆け寄ってくる。
「フローも涼みに出てきたの? 」
「蛍っ、お前今そこから出てこなかったか? 」
俺は食堂のドアに視線を送る。
「うん、皆でご飯たべてたんだよ」
当たり前と言いたそうに蛍は頷いた。
「何処で食事してるんだよ?
あそこは使用人用の食堂だぜ」
いくら気さくといっても程がある。
テーブルが同じなら食べている物も使用人と同じだろう。
さすがにそれは不味いと思い、俺は呆れながら言う。
「俺はお前を客扱いしてるんだ。
それじゃ使用人たちに示しがつかないだろう? 」
「それ、何回目かだよね?
そう言う割にはフロー、あたしのことお客さん扱いしてないじゃない」
やや拗ねたように蛍は言うと俺の顔を覗き込んだ。
「一度でもご飯一緒にしてくれたことある? 」
それを言われるとグウの音も出ない。
確かに毎日忙しすぎて、食事などおざなりで執務中に書類を片手に適当に済ます始末だ。
「ユークレース王子が来てからは時々一緒に食べてくれたけど、今日は駄目だって言われたし……
いいでしょ?
一人でご飯食べるのつまんないんだもん」
「悪かった。
機嫌直せよ」
折りしもそこへ出先から戻った者が馬の手綱を牽いて通りかかった。
「来いよ。
少し走ろうぜ」
その男を制して馬の手綱を受け取ると、俺は蛍を馬の背に抱え上げた。
「やっぱり高いねー 」
ゆっくりと歩を進める馬の背の上で蛍ははしゃいだ声をあげた。
城壁で取り囲まれたキープの中より此処のほうがいちだんと風が通って心地いい。
「馬乗ったことなかったのか? 」
「うん。
あたしのいたところじゃね、乗馬なんて一部のお金持ちの趣味だよ」
「それより、食事ちゃんと摂ってるのか? 」
本当は聞きたいことは沢山あるが、この話になると必ず曇る蛍の顔を見たくなくて俺は話をはぐらかす。
「うん。皆とのご飯楽しいよ」
「そうじゃなくて、お前好き嫌い激しいだろ?
きちんと食えてるのかよ? 」
「ああ、そのこと?
元々は好き嫌いなんてなかったんだけどねー。
なんか、此処に来てから食べられる物が少なくなってって言うか?
あたしの味覚が変わったのかなぁ? 」
蛍は不思議そうに首を傾げた。
蛍の食が進まないのはパライバをはじめとする使用人から報告は受けていた。
どうやら此処の食べ物は蛍の口には合わないものが多いらしい。
「でも、ありがとう。
ずっとお礼をいわなくちゃって思っていたんだけど、なかなかチャンスがなくて」
「何がだよ? 」
別に礼を言われることをした覚えはない。
「食材。
わざわざ手配してくれたって聞いたよ。
お肉だけじゃなくて、牛以外のミルクや乳製品も苦手って言ったから、どこか遠くから取り寄せてくれているって」
「ああ、この辺りには乳牛がいないからな。
牛以外の乳は苦手、って奴は割と多いし。
気にするな」
「ほんっとに、手を掛けさせてごめんなさい。
今ね、帰る方法探してるから。
もう少しだけ、お世話になっていい? 」
「探してる?
どうやって? 」
「うん、プルーム達に紹介してもらって村のお年寄りに話を聞いたり、本を読んだりしてね」
「お前、本なんか読んでたのかよ? 」
「いけなかった?
パライバさんは書庫の本好きに呼んでいいって言ったよ? 」
蛍が首を傾げる。
「いや、だって。
此処の字読めるのか? 」
子供の頃から奉公に出される貧しい階級の人間は文字を読めないこともままある。
ましてや蛍はこの世界の人間じゃない。
読み書きができなくても当たり前くらいに思っていたのだが。
「うん。
不思議とね。
文字の羅列目で追っていると、意味がわかるんだよね。
イメージとして頭の中に浮かんでくるって言うか。
だから、書く方はさっぱりなんだけどね」
蛍はバツが悪そうに言う。
「それで、見つかったのかよ? 」
半ば恐れながら俺は訊く。
「まさかぁ。
見つかったらもうとっくに帰ってるよ。
お風呂で溺れるとか、高いところから落ちるとか色々やってみたんだけど、効果なし! 」
「お、お前っ!
溺れるとかって……
何やってんだよ? 命惜しくないのか? 」
さすがにこの言葉には俺が白目を剥いた。
呆れるを通り越している。
「あ、安心して。
そんなに危ないことしてないから。
あくまでも真似だけだよ。真似だけ。
あっちの世界に戻った時に息がなくっちゃしゃれにならないじゃない。
それにさすがにあの、聖域って言ったっけか?
あたしが引っかかっていたあの木の生えてた場所に行きたいって言ったら皆に引き止められたから。
ね? あの鳥ってそんなに危ないの? 」
けろりと言ったと思ったら今度は慌てふためいてみせる。
かと思えば今度は媚びるような視線を向ける。
こんな風にころころ表情が変わるのもルチルそっくりだ。
ただ強いて言うなら、しっかり物のルチルと違って蛍のほうが粗忽者?
よく考えないで突っ走るタイプのようで、これじゃ心配で目が離せなくなる。
「あれは肉食だって言われている。
あの聖域に入った者は誰でも一呑みにするってな」
実際人を食らうところにはまだ出くわしていないが、何回か足を踏み入れた際必ず襲われた。
「さすがに、鳥のおなかの中はあたしの世界に繋がっていないよね? 」
何を考えているのか、ポツリと口にする。
「おい、やめてくれよ。
自分から鳥の餌になりにいくなんて自殺行為」
「判ってるって。
確証がない以上やらないよぉ。
でも心配してくれてありがとう」
「いや、そんなんじゃなくて、寝覚めが悪いだろうが。
知り合いが鳳に食われるのをみるって言うのは」
素直に言われた言葉に俺はなぜか慌てふためいた。
折りしも吹く風が髪を揺らす。
同時に前に抱えた蛍がかすかに躯を震わせた。
さすがに日が降りた今の時間に、薄着のままで馬に乗るのは無謀だったかも知れない。
少しでも暖を取らせようと蛍の華奢な躯を抱き寄せる。
「ね? そろそろ帰らない? 」
僅かに身じろぎすると、蛍が不意に口にする。
「何だ? ひょっとしてつまらないとか? 」
その言葉に俺は少し不安を覚えた。
きっと蛍のいたところには俺なんかじゃ想像もつかない楽しいことが沢山あったはずだ。
ただ馬に乗るだけでは不服と言われても仕方がないのかもしれない。
「ううん、そうじゃないよ。
馬に乗るのって初めてだし、すっごく楽しい。
お金持ちが乗馬を趣味にしてる気持ちがちょっとわかったかな?
じゃ、なくてね。
フロー疲れてない?
ただでさえ忙しそうなのに、明日からまたお客さん増えるんでしょ?
だから…… 」
「お前、それ何処から聞いた? 」
またしても蛍の予言だろうか、そんな話は俺の耳には入っていない。
来客の予定をパライバが伝え忘れたとは思えないし、かといって兄上以外に予告なく訪れる人間の心当たりもない。
「ううん、何処からも。
ただそんな気がしただけだけど…… 」
蛍は何度か睫を瞬かせる。
「でも不思議なんだよね。
此処に来てからあたしが不意に思った事って全部現実になるんだよ」
「それが、お前の能力だろう? 」
「え? 嘘! じゃ、あたしもしかして魔女になっちゃったって事? 」
「最初から言っているだろう?
お前は魔女だって」
その全くの自覚のなさに俺はため息しか出てこない。
「先日兄上が言ってただろうが、お前の能力は閃き方の予言だって。
もっとも、魔女の能力としてはそう強いほうじゃないけどな」
「う~ 」
蛍はいかにも不服そうなうめき声を上げた。
「気に入らないってか? 」
「そうだよ。
魔女になっちゃったらあたし帰れないかも知れないじゃない。
あ、でも魔女になったら自分の能力で帰れるようになるかな?
無理かぁ、あたしの持った魔力って、どう見ても派手じゃないもんね。
こんな半端な能力じゃ自分の力で帰ることもできないよね」
「拗ねるなよ。
もしかしたらこの先成長するかも知れないし、な」
「それ、本当? 」
俺は馬の首をキープに向ける俺の顔を蛍が覗き込んできた。
その視線が可愛くて、思わず抱きしめたくなる。
って、待てよ。
俺、何考えてる?
不意に湧き上がった予期せぬ感情に俺は思いっきり戸惑った。
待てよ、自分。
こいつはルチルじゃない。
それにあんな事は二度と起こさせるわけにはいかない。
自覚できるほどに火照った頬を風にさらして、キープへ馬を走らせた。




