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ゆるゆると虹色に変える空の真ん中に、三つの月が一直線に並ぶ。
この聖域の空は相変わらずだ。
綺麗と言えば綺麗だが、だからといって見入っているとなんだか目が回り気分が悪くなる。
それを目に俺は道とも思えない瓦礫だらけの道をいく。
「フロー様お待ちください!
いくら王子の剣の腕が確かでも、此処は危険です! 」
手前まで乗ってきた馬をつないでいたせいで、少し遅れてきた俺付きの男、パライバが声を荒げて追ってくる。
「だから、待っていられないんだろ?
ここにはあいつがいるんだ。
あの人食いのロク鳥が」
僅かに背後に視線を送り、足は止めずに俺は先を急いだ。
この聖域を守るその巨大な鳥は侵入者を嗅ぎつけるとすぐに姿を現す。
おまけに肉食で人間なんてひと飲みだ。
見つかる前に帰る方が利口ってものだ。
「もうへばったのかよ、体力ないな」
どうしても遅れがちになる、パライバを俺は振り返る。
「無茶言わないで下さいよ。
私はもともと文官で、王子のデスクワークのお手伝いをするためにお仕えしているわけですから」
荒い息の下から、男は言う。
「に、したって。
お前一体幾つだよ? 」
「お忘れですか?
先々年ご成人なさったフロー王子より七つほど上ですよ」
当たり前のように言う。
いや、それはわかっている。
嫌味も通じないのかと半ば呆れながら視線を戻した。
こっんっ!
その瞬間、何かが降ってきたと思ったら軽い音をたてて地面に転がる。
「靴? 」
反射的にそれを拾い上げて俺は首を傾げた。
どう見ても婦人向けの小ぶりなそれは、革ではなく布製で底は何だかわからない樹脂でできている。
素材も珍しいが、デザインも見た事がない。
「ごめん。それ、あたしの! 」
素材の珍しさに惹かれひっくり返して眺めていると、不意に靴の降ってきた辺りから声がする。
顔をあげると、少女の域を僅かに出た歳くらいの若い女が一人、傍らの木の枝にしがみついていた。
あろうことか脛から太ももまで、あられもなく丸出しのとんでもない姿で。
通常お目にかかれない下品な状態に、思わず目を背け足の持ち主の顔に視線を逸らす。
「……っ!
ルチル? 」
見知った女の顔によく似た容貌に俺は息を呑む。
その隙に、パライバが素早く俺の前に出て剣に手を掛け身構える。
「あのっ。
怪しいものじゃないんです。
ただここから降りるの手伝って欲しいんだけど」
靴と同様見慣れぬ服装の女が言う。
ほとんど下着にしか見えないぺらっぺらな半そでの上着一枚。
下はフリルもレースもなく太ももが半分隠れるかいなかの長さしかない布を腰に巻きつけたような、多分スカート。
普通の女なら恥ずかしくて男の前に晒せる姿じゃないと思うのだが、女は恥らう様子が全くない。
怪しくはないと言う言葉どおり、一見武器らしいものは身につけていないようだ。
その何処にも隠しようのない簡素な服装で、ひと目でわかる。
「パライバ、手を貸してやれ」
判断を仰いで視線を送ってきた男に俺は頷いた。
「ありがとう、助かりました」
程なくパライバの手を借りて地面に足をつけると女は軽く頭を下げた。
次いで俺に向かって手を差し出す。
「なんだよっ」
その無遠慮な行為に俺は少し腹を立てた。
「靴、返してくれる? 」
そんな俺を睨みつけて女はきつい口調で言った。
「ああ、悪い…… 」
そういえばさっきから手にしたままになっていた。
それすら気にならないほど俺は女の顔に釘付けになっていた。
よく動く黒目がちな瞳に、明らかに低い鼻、柔らかなばら色の頬。
僅かに笑みを湛えた珊瑚色の唇。
髪と瞳の色が違うだけでその造作も表情も、何もかもがそっくりだった。
俺の手の中から消えてしまった、二度と戻らないあの顔に……
「フロー様? 」
「え? ああ…… 」
思わず固まってしまった俺を心配してかパライバが顔を覗き込んでいる。
それに生返事をしながら女に靴を手渡した。
「ありがとう。
それでね、一つ教えてもらいたいんだけど…… 」
戻ってきた靴を足に戻して女は俺に向き直った。
「ここ、何処? 」
「貴様、何処から来た? 」
問い掛けた女の声にパライバの警戒した声が重なる。
ついでに俺の視界を何かの影が横切った。
「不味い!
行くぞ、パライバ」
声を掛け側にあった女の手を引いて俺は走り出した。
「待って! 何? 」
握り締められた俺の手を振り解こうと抵抗しながら女が戸惑った声をあげる。
「説明は後だ。
悪いが命が惜しかったら走ってくれ」
足は止めずにそう言って僅かに振り返ると、後を追うパライバの背後すぐまで奴が迫ってきていた。
羽を伸ばしたら俺達の身長の五倍はありそうな巨鳥は、とりあえず腹は減っていないようで襲っては来ない。
ただ威嚇するかのように距離を詰め、翼を羽ばたかせて空中にとどまる。
その巨大な翼によって起こされる風が俺達の間を吹き抜け、地面の砂を巻き上げる。
視界の悪くなったその場所を抜けると、乗ってきた馬が目に飛び込んできた。
結んであった手綱を解き、馬の背に飛び乗る。
さすがに聖域の外れ付近のここまでは鳳は追ってこなかった。
それでもできるだけ早くここを離れるほうが得策だろう。
「何? あれ? 」
俺の背中にしがみついて女が振り返り不安そうに呟いた。
「後で説明してやる、黙ってろ。
舌を噛むぞ」
パライバが追ってくるのを確認してとにかく俺は馬を急がせた。
里に広がる小麦畑を突っ切る街道を一気に駆け抜け、そのままキープに急ぐ。
俺の背中にしがみつく女は身なりこそ異常だが髪はさらさら手なんかも荒れた様子がなく、育ちがいいのは明らかだ。
なのに、どうした訳か馬の乗り方を知らないらしい。
ともすれば馬の背からずり落ちそうになり異常な力で俺にしがみつく。
一度降ろしたら次には乗ってくれそうにない。
そんな予感がしたから馬を止めるのが躊躇われた。
丘に建つキープへ上る細い道を駆け上がり、古びた巨大な門を潜る。
「殿下お帰りなさいませ」
門番を任せている若い兵士が俺の帰宅を知らせるように声を張り上げた。
「ああ、今帰った」
軽く応えると手前の広場を抜けもう一つの門を潜り奥へ進む。
建物に取り囲まれた中庭の中央にある井戸の側で馬を止め、乗せてきた女を抱き下ろした。
「えっと、もう話していい? 」
興味深そうにキープの中を眺め回しながら女は言う。
「まだだ、とりあえず中へ……
着替えを用意させる」
出迎えに飛び出してきた小間使いの女に視線を送り俺は女をキープの中へ促した。
「へ? 着替え?
いいよぉ。すぐに帰るんだし」
女は突拍子もない声をあげる。
「おまえ、恥ずかしくないのかよ?
そんな下着のような形で」
「下着じゃないわよ。失礼ね!
……そりゃ今日は少し暑かったから半そでだけど。
それほどみっともない格好はしていないはずだよっ」
まるでこの格好が当たり前だとでも言うように女は叫んだ。
「フロー様…… 」
何時の間にか俺の背後に廻っていたパライバが、したり顔で首を横に振った。
そうだった。
多分、恐らく。
あの時間にあの場所にいたと言うことは、この女は異世界からの訪問者。
衣服の形態が違っても不思議はない。
だとしても……
「とにかく、着替えてもらうぞ。
おまえ、襲われたいのか? 」
俺は剥き出しになった女の足にわざとねちっこく視線を這わせた後、小間使いの女の床近くまである丈のスカートにおもむろに視線を移した。
このままでいいと言われても、目の保養……
いや、目の持って行き場に困る。
それは俺だけではない筈で、さっきからこの場にいた、通りかかった何人かの男が色めき立っている。
その一方で女達が眉を顰める。
「……わかった、わ、よ」
さすがにそれがわかったのか女は少し頬を紅く染めるとバツが悪そうに俯いた。
「頼んだぞ、プルーム」
小間使いの女に声を掛け、俺はとりあえず執務室へ向かった。
部屋に入ると出かける前にはなかった書類が書き物机の上に積みあがっていた。
「げっ、またかよ」
その中の何枚かを取り上げ俺は呟く。
「陳情書でございますか? 」
早速お茶を淹れてくれながら、俺の顔だけで内容を把握したようにパライバが訊いてくる。
「こんなの、王都に廻せよな。
父上の仕事だろ? 」
「ですが、どれもここの領地からの物のようでございますが。
ご自分の治める土地のもめごとはご自分で処理されなくてどうします? 」
ざっと目を通し、たしなめるかのようにパライバは言ってティーカップを手渡してきた。
「どうぞ、本日のお茶は王子のお好きなリンデンフラワーだそうですよ」
「こういうの俺には向いてないって、おまえ知ってるよな? 」
書類の束を乱暴に机の上に放り投げ、言われるままにカップを手にとると俺は改めてパライバに向き直る。
「実践向きなんだよ、俺は」
既に何度となくこの男に向かって言った台詞を繰り返していると、遠慮がちにドアのノックされる音が響いた。
「失礼いたします、お客様のお着替えが済みました」
声の主は先ほど女を預けたプルームだ。
それに応えてパライバがドアを開ける。
「ほぅ、これは…… 」
ドアの向こうに現れた女の姿にパライバが小さく感嘆の声をあげた。
ありがちな花模様を織り出した濃いコーラルピンクの絹布に押さえたレース飾りのドレスの肩に癖のないやや黄色味かかった黒髪がさらりとこぼれる。
やはり育ちがいいのだろう。
上質なドレスを纏ったその姿は、どこぞの令嬢のようだ。
俺の脳裏に残る消えてしまった女の面影が重なる。
「で? あたしは何時までこれを着ていればいいわけ? 」
こちらの反応とは反対に女は納得が行かないとでも言いたそうに声をあげる。
その表情はいかにも着心地が悪いと言わんばかりだ。
「とりあえずここにいる間だな」
いいながら俺は書き物机の横を廻り部屋の中央にあるソファに女を促した。