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 土曜の二時。僕はサークル棟にいた。

 いつも十分前には来ているというむらさきさんは、一時五十九分になっても現れなかった。

「むらさきさんは風邪で休みです。じゃあ今日も活動を始めたいと思います。今日の担当は俺で、テーマは夏目漱石の『心』をラブコメの観点から読む、です」

 澤田会長のそんな言葉で本日の活動が始まった。

 会長が配ったレジュメは、物語のあらすじが手書きのイラストとともにわかりやすくまとめられており、なかなかわかりやすい。

 夏目漱石の『心』は、主人公が友人Kから女性を奪い取る略奪愛が中心的な出来事だ。誰しも教科書で一部を読んだことはあるだろうが、主人公は女性と結婚するも、罪の意識に苛まれる、というストーリーは略奪愛の横行する現代の若者にはなかなか共感しにくい。

 少なくとも僕は共感できなかったし、これから先も共感できないだろう。

 好きな人を手に入れられたのなら、それでいいではないか。むしろ、罪悪感に苛まれる、というのは勝者の特権というか、ずいぶんと身勝手な話だとさえ思う。苦しむくらいなら、そもそも欲しいと思わなければよかったのだ。

 まあそれが人の世の奥ゆかしさだと言われてしまえばそれまでだが。

 そんな小難しい物語も、このサークルで語ればただの量産型B級ドラマに早変わりする。今日の一番のテーマは、なぜ主人公がKから彼女を奪い取ることができたのか、ということで、最終的にはKがヘタレだったのが悪い、主人公はタイミングが良かった、恋愛なんてタイミング次第なのだ、などという身も蓋もない結論に達してしまった。

 生真面目に文学を愛しているであろうむらさき氏がいれば、こんな結論に至ることはなかっただろうと思うと、今さらながら自分の所業を猛省せざるを得なかった。


「どうしてそんなに落ち込むんだろうね。私だったら、好きな人と両想いになれたらよっしゃ! って思うよ」

 部屋の後片付けをしていると、鎌田センパイが不満気に行った。

「たしかに。そんなに悪いことをしたとも思えないっすけどね」

「あれだろ、そこが人間の心ってやつなんだろ」

「そうやってテキトーに分かった気になるのもずるくない?」

「罪の重さは、その人次第で変わるってことじゃないですか」

 ぽつんと思い浮かんだことを口に出した。すると、いきなりあたりは静まり返り、みんなは僕の方を見た。

 特に問題のあることは言っていないはずだ。ともかく僕はわけを話すことにした。

「いや、あの。自分がしたことの本当の意味は、自分にしかわからないんじゃないかなって」

 また、一瞬の静寂があたりを包む。でもそれは、居心地の悪いものではなかった。

「たしかに、そうかもね」

「ちょっと納得いったっす」

「そういう感じね。まあわかんなくないな」

 みんなはすぐにまた話し始めた。自分の言葉を受け止めてもらえたみたいで、僕は少し嬉しかった。

 あと少しで片づけが終わるという頃、鎌田センパイが近くに寄って来た。

「ねえ、水上くん。仲直りできたの?」

「いや、してないですよ。あれから会ってないですし」

「え、ちょ。まじかよ」

「連絡先もわからないですし」

「じゃあ聞きなさいよ。なんだかもー、現代っ子だなあ」

「いや、聞くタイミングがなかったもので」

「そういうところが現代っ子だっつてんだよ。ったく、まじかよ。じゃあ今日は仮病かな。よし、行くぞ、水上くん」

「え、どこにですか?」

「決まってるじゃろ。むらさきちゃんちだよ」

 なんだか話し方に統一感がない人だなあ。僕はそんなことを思った。

 鎌田センパイは見舞いに行くと一言言って、さっさとサークル棟を後にした。きっと他の人がついてくるのを避けたかったのだろう。僕は黙って鎌田センパイの後に続いた。

 途中でスーパーに寄って、スポーツドリンクとゼリーを買い込んだ。一人暮らしの大学生が風邪を引くと確かにこういうのはありがたいのかもしれないが、もし仮病だったらただの皮肉でしかない。

 まあでも、仮病なわけがないだろう。あの人が僕ごときに会うのが嫌でサークルを休むとは思えない。

 鎌田センパイはいかにも普通のコミュ力高めの女子大生で、むらさきさんの家に行くまでの間、まったく会話は尽きなかった。人の話を良く聞いて、いちいち細かくリアクションを取り、気になった事は即座に質問し、時々ボケたり茶化したりする。

 コミュ力とは話す力より聞く力なのかもしれないとぼんやり考えてみたりしていると、いつの間にかむらさきさんの住むマンションのインターフォンを鳴らす段階になっていた。

「よっ、むらさき。風邪だって? 大丈夫? 救援物資持って来たわ」

「ありがとうございます。どうぞ」

 ガラスの扉が開き、エレベーターへの道が開く。

 僕はそろそろ何を言うかを考え始めた。まあともかく謝るべきだろう。それほど傷つけているとは思っていなかった。まさかむらさきさんが僕の言葉ごときにそれほど傷つくとは思わなかった。いや、ダメだ。これも嫌味でしかない。

 エレベーターに乗り込もうとすると、鎌田センパイが敬礼のポーズを取った。

「じゃ、私はもう行くから。しっかりやりたまえ」

「え? まじっすか」

「報告ヨロ」

 彼女はそう言うと、引き返していった。ここまできて、インターフォンまで押しておいていなくなるなんて、中々に畜生な先輩だ。

 仕方なく僕はむらさきさんの部屋の前に立ち、呼び鈴を鳴らした。

 すぐにドアは開き、むらさきさんが姿を現した。

 彼女はグレーのパーカーに、膝ほどの丈の緩いズボンを履いていて、いかにも部屋着という感じだった。普段の真面目そうなお固い服装よりも似合っている。若い女の子というのは私服よりも部屋着の方が可愛く見えるものなのだろうか。いや、そもそも彼女の場合、私服が可愛くないだけだろうか。

 しかし彼女の表情は、僕の顔を見た途端、いつも通りの可愛くないしかめっ面に早変わりした。

「どうしてあんたがいるのよ? てかティーちゃん先輩は?」

「インターフォンで見なかった? 俺一人だよ」

「バカ言わないで」

「風邪で頭がぼーっとしてるんじゃない?」

「風邪なんか引いてないわ」

「あれ、仮病だったの? まあ立ち話もなんだから、とりあえず入れてよ」

 むらさきさんは一瞬悩んだようだが、僕を部屋に上げてくれた。

 部屋はピンクや白の物が多く、思ったよりも女の子らしかった。まあ別に人形やら写真やら雑貨が置いてあるわけではなく、あくまで思ったよりも、というだけだ。お年頃の女の子としてはきっと地味な方だろう。実際、本棚に並んでいる本がどこのおじいちゃん家の書斎ですか? 状態であることは否めない。

 リビングに置かれた四角いテーブルにつき、ビニール袋を置いた。

「はい、これお見舞い」

「風邪じゃないってば」

「鎌田センパイも半額出してくれたんで、一応受け取っといてよ」

 そう言いながら、スポーツドリンクを一本取り出し蓋を開ける。久しぶりに飲むとなかなかおいしい。

「で、すみませんでした。この間、ひどいこと言って」

 むらさきさんは傍にあったティッシュ箱を僕へ投げつけてきた。

 僕はそれを手で払う。

 彼女は諦めたように息を吐き、

「私も、悪かったわよ、水かけたりして」

 とこちらを見ずに言った。

 ティッシュを投げた上でようやく許せる程度だということだろうか。

「別に、そっちは気にしてないよ」

「そっちはって。もう一個も悪かったわよ。軽率だったわ」

 ようやく彼女はこちらを向いてくれた。

 よく見ると、やはりむらさきさんは美人というか、可愛らしい顔立ちをしていた。

「僕もからかい過ぎたよ」

「ほんとよ、一対九であんたが悪いわ」

 むらさきさんはそうぼやきながら、ビニール袋からスポーツドリンクを取り出し飲んだ。

「むらさきさんは思ったことをぜんぶ口に出すのを控えたほうがいいよね」

「私だってべつに、全部言ってるわけじゃないわ」

「えーほんと?」

「ほんとよ。たとえばさ、髪切ったでしょ?」

「それが?」

 たしかに、僕は飲み会の次の日に髪を切った。

「失恋して髪切るとか女子かよ、女々しいな、って思ったけど、言わなかったし」

「せっかく言わなかったのに、なんで今言ったの?」

「いや、それは……。たしかに。ごめん」

 やはりこんなふうに性格が残念だから今まで彼氏ができなかったのだろう。

「でもさ、私だってムカついたからあんなこと言ったんだ。私だって、なんも考えないで言ってるわけじゃないから」

「どういう意味? 教えてよ」

「あんた、飲み会では永遠の愛だのなんだの言ってさ。加奈さんが自分の全部だったって言ってたくせに、失恋なんかなかったみたいにヘラヘラしてさ。初めて会った女の子といきなりごはん食べに行ったりして。そんなに加奈さんのこと、好きじゃなかったんだって思ったら、なんか、ムカついてきて」

 そういえば、飲み会の席で永遠だかなんだかとむらさきさんが言っていた気がする。

 そうか、そういうことか。それならたしかに、少しは僕にも非がある。

「……気を張ってないと、崩れちゃいそうなんだよね」

 きっとむらさきさんには、変に嘘をつかないほうがいいのだろう。

 彼女はきっと、とてもピュアなのだ。

「飲み会の席で話してたときとか、それからの振る舞いとかで、全然気にしてなくて、立ち直ったように見えたのかもしれないけど。実は、そんなことないんだ。今も、毎日加奈さんのことばっかり考えてて。それこそ、良くないことばかり考えてしまうくらい落ち込んでて、立ち直れなくて、どうしたらいいかわからなくて……」

「良くないことって?」

「たとえば、加奈さんを誘拐して、どこかに拉致監禁しようとか。何か派手な事件を起こして遺書でも残して自殺すれば、加奈さんに僕の悲しみに気付いてもらえるんじゃないかとか。芸能人になって、初恋の人としてゲストに加奈さんを呼んでもらおうとか。今から理系の学部に入りなおして、タイムマシンを作ってあの日に戻ろうとか」

「どこまで本気?」

「ぜんぶ、本気なんだよ」

 嗚咽とともに漏れ出した声に、むらさきさんが驚いているのが気配でわかった。

 当たり前だ。いきなり泣かれたら誰だって困る。

「本気で、好きだったんだ。他には、なにもいらない。ただ、加奈さんがいてくれれば、それでよかったんだ」

 むらさきさんはもう何も言わなかった。

「大切な人を失って、胸にぽっかり穴が開いたとか、言うでしょ。でも、僕は、加奈さんがすべてで、加奈さんがいるから僕があって、加奈さんを失ったら、心に穴が開くんだじゃなくて、心がバラバラに砕け散って自分が自分でなくなるんじゃないかって、思ったんだ。僕は、それが怖くて、普通の大学生を演じてたんだ。初対面の女の子といきなりごはんに行っちゃうような、普通の大学生を」

 むらさきさんはまたティッシュ箱を投げつけてきた。

 もう少し他にやり方はないのだろうか。

「普通の大学生は、そこまでチャラくないわよ。あんたの大学生像は歪んでるわ」

 涙を拭き鼻をかんでいると、むらさきさんが口を開いた。

「私、あんたに興味が湧いたわ」

「へ?」

「そんなに誰かのことを想えるなんて、素敵だと思うわ」

 初めて僕に対してむらさきさんから好評価を頂けた。いや、正しくは、酔っていないむらさきさんから、か。

「あまり良い例えじゃないことは百も承知で言うけれど、あんたはまるで、物語の主人公みたいに魅力的だわ」

 意味の分からない前置きだったが、たぶん彼女なりに気を遣おうとしてくれたのだろう。

「それって良い例えじゃないの?」

「うん、ひどい意味で言ってる。でも、それ以外に上手い表現が出てこないの。ともかく、私はあなたのことが気になるっていうか。あんたのことをもっと知りたい、この後あんたがどんな人生を歩んでいくか興味があるって思うの。これは、いうなれば、愛の告白よ」

 彼女はそう言うと、もう一度ティッシュ箱を投げつけてきた。

 愛の告白。いくらなんでも話が飛躍し過ぎだろう。というか、物を投げつける愛情表現など平安時代にも考えられないだろう。というか、紀元前だ。

 自分がしたことの意味は、自分にしかわからない。

 つい数時間前の自分の言葉が、こんな形でブーメランになって返ってくるとは思わなかったが、まあ、そういうことなのだろう。

 彼女は、僕に何かを思い、僕に愛の告白をし、僕にティッシュを投げつけた。

 そこにはきっと、彼女にしかわからない意味があるのだろう。


 僕がこの後、何と言ったか。

 そして僕とむらさきさんがその後、どんなキャンパスライフを送ったか。

 それは皆さんのご想像にお任せしたいと思う。



最後までお読み頂きありがとうございます。


あまり良いオチが思いつかず、強引に終わらせてしまいました。

群像劇にして、他の登場人物たちの話にスポットライトをあてるとかもいいかと

色々考えたのですが、ともかく一旦終わらせました。


何か良いオチがありましたら、ご提案して頂けたら嬉しいです。

オチだけでなく、ご感想、アドバイスも是非よろしくお願いいたします。


中途半端なものをお読み頂いて申し訳ありませんでした。ありがとうございました。



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