5
むらさきさんは目に涙をいっぱい溜めて、僕を真っ直ぐに睨み付けていた。
彼女の姿がぼんやりと歪んでいく。
それはきっと僕の頭から滴り落ちる水が眼に入ったからだろう。
近藤さんとごはんを食べに行った次の日、2限の宗教学の授業に行くと、これまたむらさきさんがいた。
「こんにちは、よく会うね」
「また出た」
彼女はため息混じりにそう言った。まあこういう人だというのはもうわかっていたので特にツッコミ入れない。無視されなかっただけ感謝しよう。
「今日は近藤さんは一緒じゃないの?」
「毎日一緒にいるわけないでしょ。馬鹿じゃない」
まあ近藤さんの性格的に考えて、宗教学なんて授業は取らないだろう。
「僕ずいぶん嫌われてるみたいだね。安心してよ、サークルのこととか何にも話してないから」
「なに。あの後ごはん行ったの?」
「うん、楽しかったよ」
「年上の女を落とすボクっ子はやっぱり手が早いわね」
痛いところをついてくるな。むらさき氏の毒舌は躊躇がない。
「別に、ただごはんに行っただけだよ。普通でしょ? 大学生なんだから。それで、ロミジュリに入ってることは内緒なの?」
彼女はぐっとこちらを睨み付け、「余計なこと話したら許さないから」と囁くと、すぐさま前に向き直った。
どうやら肯定という意味らしい。まったく、めんどくさい性格だ。
頭の禿げたおじいさんが入ってきて、授業が始まった。
宗教なんて正直、信じていないどころか、興味さえない。
聖書の話をときどき加奈さんがたとえに使うことがあるから取ってみようと思っただけだ。つくづく僕は加奈さんが好きだったのだと思い知らされる。
十二時。授業が終わった。
僕はダメもとでむらさき氏を食堂に誘ってみた。近藤さんと行っておいて、むらさきさんを誘わないのもおかしいかと思ったからだ。
意外にも、彼女はオーケーした。元々、食堂で食べるつもりだったらしい。
彼女は塩ラーメンをもぐもぐと食べていた。
食べているときと寝ているときは動物は無防備になるというが、むらさき氏も食事をしている姿はなんだか愛嬌があった。
「誰かと食堂に来るなんて、一年ぶりくらいだよ」
「私もよ」
「そうなんだ、やっと共通点が見つかった」
カレーライスは不味くも上手くもない。ただただカレーライスという感じだ。
「今週の土曜の活動ってなにやるの?」
「会長の企画で、夏目漱石の『心』をラブコメ的視点から解釈してみよう、だって」
「なにそれ、面白いの?」
「そもそも一般的な視点から解釈できてるかも怪しいものだけどね」
「まあ、ロミジュリの人たちにはネタは関係なさそうだよね。基本、大喜利だと思ってるっていうか」
「あら、わかってるわね。その通りよ」
僕はカレーライスを食べきってしまった。
綺麗な黒髪が前に垂れないようにかきわけながら、もくもくとラーメンを食すむらさき氏をずっと見ていてもよかったが、怒られそうなのでやめた。
食堂にごった返す人々をぼーっと見ていると、むらさきさんが口を開いた。
「ねえ、どうして一人称が僕なわけ? すごい気になるんだけど」
どうやら気を遣って喋ってくれたわけではないらしい。彼女は本当に気になっているみたいだった。
「加奈さんが、俺って言うの嫌いだったんだ。高圧的で、夫みたいだからやめてって。だからなんだ」
むらさき氏はあからさまに顔をしかめた。
「一人称まで強制したくせに、挙句の果てに捨てるなんて、その加奈さんて人は相当良い性格してるのね」
無意識のうちに悪態をつく。それは彼女の性分なのだろう。僕はそう思うことにした。
「そうかもね」
「あなたも早く忘れればいいのに」
悪意はないのかもしれない。もしかしたら、僕に気を遣っているのかもしれない。
「うん、そのとおりなんだけどね。もう、抜けなくなっちゃってるんだ」
でも、彼女がどんな意図のもとに言葉を発しようが自由なように、僕がどんな風にそれを受け取っても自由なはずだ。
「ねえ、むらさきさんはさ、どうしてこのサークルに入ったの?」
答えを待つために、水の入ったグラスを傾けた。
「恋愛がなんなのか知りたいって思ったからよ」
「失恋したからじゃないんだ?」
「むしろ、人を好きになったこともないわ」
大学生にもなって、そんなことを恥ずかしげもなく言えるなんて。
僕は思わず少し笑ってしまった。
「むらさきさんてさ、世の中の人みんなバカだと思ってるでしょ?」
「は?」
また眉毛がへの字に曲がり、眉間にしわが寄る。もう少し笑ったら可愛いだろうに。
「だってさ、恋愛がわからないんだったら、恋愛してる人は全員バカに見えるでしょう?」
「それって世の中の人全員が恋愛してるって意味?」
「そうだよ。世の中の人はむらさきさん以外みんな、誰かに恋してるんだよ」
「なに言ってんだか」
真面目に聞いて損したと言わんばかりだ。
「でもあってるでしょ? 少なくとも、ロミジュリの人のことは全員、バカだと思ってるよね」
むらさき氏も食べ終わったらしい。箸を置いてグラスを口に運んだ。
「バカとまでは思っていないわ。たしかに、なんで恋愛程度に一喜一憂しているのだろうって思うときはあるけど」
「恋愛がわからないから、失恋してる人の中に飛び込むとか。むらさきさんてさ、性格悪いよね」
「はいはい、もうそのセリフ、人生で何回も言われたから飽きちゃったわ」
飲み会のときは初対面だから隠していたのかもしれないが、むらさきさんはよくよく知るとめんどくさい女の子らしい。
「そうやって開き直ってたらいつまで経っても治らないよ。それに、むらさきさん以外がみんないい人だからってそれに甘えてていいのかな」
「なに、説教?」
多少はイラついているのだろうか。いつもイライラしているように見えるから、ちょっとよくわからない。
「うん、ちょっとムカついたから。みんな話したくない失恋の傷を晒し合ってるのに、自分だけすまし顔で観客席にいるなんて、良い性格してるよね」
「よく言うわ。みんな好きで話してるだけじゃない」
「腹を割って話さないと、信頼っていうのはなかなか築けないもんなんだよ。だからむらさきさんはいつまで経っても深い人間関係が築けないんじゃないかな」
なんて言い返してくるかな、と期待していたら彼女の瞳にぐわっと涙が溢れてきた。
あら、と思った次の瞬間、顔に水をかけられた。
手のひらで顔を拭う。
むらさきさんは目に涙をいっぱい溜めて、僕を真っ直ぐに睨み付けていた。
彼女の姿がぼんやりと歪んでいく。
それはきっと僕の頭から滴り落ちる水が、眼に入ったからだろう。
「なんであんたなんかに、そんなこと言われなきゃなんないのよ」
彼女はそう言い残すと、食器を持って立ち上がり去っていった。
こんなときまでちゃんと食器を下げていくなんて、実は律儀な人なのかもしれない。
よくよく考えれば、ラーメンの方じゃなくて助かった。水ならほっとけば乾く。実は人並みの気遣いができる優しい人なのかもしれない。
ぽたぽたと髪の先から滴る水滴を見つめ、僕は今さらそんなことを思った。
「なにやってんだい、まったく」
自分に話しかけているとは、咄嗟にはわからなかった。
ハンカチを顔に押し付けられる。その手を払いのけると、鎌田ティーちゃんさんが立っていた。
「あ、鎌田センパイ」
「ほら、じっとして。拭いてあげるから」
タオルでごしごし髪やら顔やら首やらを拭かれる。
「なんだか、犬にでもなった気分です」
「私もトリマーさんになった気分。はいおっけ」
「ありがとうございます。ハンカチ洗って返します」
「ああ、いいよ。気にしないで」
「え、すみません」
鎌田センパイは勢いよく椅子を引き、隣の席に座った。
「どうしたのよ? むらさきちゃんが怒るのはじめて見たよ」
「見てたならわかってるんじゃないですか?」
湿った髪をかき上げる。何をどう説明してもややこしくなるのは目に見えている。さえて、どうしたものか。
「いや、みんなが見てるから何かあったのかなーって見たらびょしょぬれの水上君と泣いてるむらさきちゃんがいたから来ただけだよ」
「いや、まあ、ちょっとからかい過ぎただけです。大丈夫ですよ」
「まあだいじょぶならいいけどさ。土曜までに仲直りしなよ。無理そうだったら手出すからね」
鎌田センパイは真っ直ぐに僕の目を見てそう言った。
「センパイって、けっこう優しいですね」
「そうよ、私は優しいの。しかもお節介だから。だからほんとに口挟むから、嫌だったら自分で何とかしなさいよ。じゃ、私授業だから、がんば」
鎌田センパイの颯爽と走り去る後ろ姿は、やけにカッコよく見えた。
そろそろ一時というころだ。
僕は少しそこでぼーっとした後、アイスを買って家に帰った。