灯篭流し
鈴くんが来て、消沈したすみれを背負ってくれた。
雲がどこかに吹き飛ばされたのか、夕焼けの空が森の中を赤く染める。
「……肝試しの時、あの子が教えてくれたんだ」
鈴くんがわたしに言った。
「社の花畑を見せたい子がいるって。東京のどこに住んでいるのかもわからないまま別れちゃったから、手紙も出せない。でも、祭りの日に桜の木で待ち合わせをしたから、必ずもう一度会えるって…」
ドロドロ、ボロボロのすみれの背中を見ながら、鈴くんの影を追いかける。
「もし……“しーちゃん”を探している子がいたら……桜の木に連れて行ってあげて…って」
激しかった川の勢いは、山から下るほどに勢いは収まっていった。押し流される木の枝が、緩やかにわたしたちを追い抜いた。
「目印の屋台のラーメン屋の看板が変わってしまったから…きっと迷うかもしれない…………そう言ってた」
「…でも、間に合わなかった……」
その時初めて声を発した。長い間雨に打たれていたからか、それとも叫んだせいか、喉がひりひりと引きつって、掠れた声になる。
先を歩いていた鈴くんが、立ち止まってわたしを振り返った。
彼の背後の夕焼けのせいで、表情があまりみえなかったが、優しく声をかけられる。
「でも、あなたは…ちゃんと来た」
わたしはゆっくり首を振る。
会えないのに、約束を果たしたとは言えない。
俯くわたしの耳に、鐘の音が聞こえた。町はすぐ近くだと教えてくれた。
この音を8年前も聞いたことがある。
夕日の色も山の向こうに消えていった頃……いつしか木の道が途切れて、わたしたち三人は小高い崖の上に立っていた。
気付かないうちに川沿いから離れたのか……目下の景色には河川敷と周囲を住宅街が並んでいる。河川敷にはたくさんの人が集まっていた。
そうだ……あの鐘の音は灯篭流しの合図だ。
彼らが手にもっている光のない灯篭を見て思い出した。鐘の音が3度なった時、一斉に川に浮かばせるのだ。
8年前、わたしとしーちゃんは、同時に桃色の灯篭を浮かばせた。
手元を離れる光は、いくつもの光とともに川を漂っていく。子供の言葉では、とてもいい表せないくらいの幻想的な光景だった。
下流へと流される光を追いかけて走れば、星空の中を泳いでいるような気分になった。
―― 願い事をするんだよ
―― 願い事?
―― うん。神様に、
―― 神社でもいっぱいしたよー?
―― あ、ほんとだ!きっと、神様は太っ腹なんだね
―― すごいや、神様!……うーんと
―― ………何をお願いしたの?
―― えーっとね、モデルの仕事がたくさん入って、オーディションにも合格して、外国の舞台に立てますようにって!
―― ななちゃんは欲張りなんだね!
―― むむむ、笑いすぎ!しーちゃんは何をお願いしたの?
―― ぼくはね…
その時、月と星と灯篭の光があの子を照らし出した。
電灯も建物からの明かりでもないのに、こんなにも優しく明るい夜を見るのは初めてだと思った。
両手を合わせて、わたしに笑顔を向けると……そう言った。
―― ななちゃんの願いが叶いますように……って
町のスピーカーから、イベントの説明が流されている。それを聞きながら、河川敷の人々の賑わいが大きくなった。
鈴くんは崖の横にある緩やかな階段を下りて行く。
わたしもそれに続こうと、河川敷から顔を背けたとき、目の前に小柄な人影が立っていた。
「……!」
夕方から、夜へと空が移り変わるあいまいな色の中で、その存在だけは鮮やかともいえる白に光って見えた。
河川敷の方をじっと見つめる横顔は、優しくほほ笑んでいる。
「……………」
小学校高学年の中では背は高い方だろうか。髪形は女の子とは間違えられないくらいに、すっきりと短くなっていて、綺麗なあごのラインを強調させる。
この子は……………あの場所で、ずっと待っていてくれていた。
わたしを待ってくれていたんだ。
「……しーちゃん、だったんだね」
わたしの方にようやく目を向けた彼は、ゆっくりとうなずいた。
シズミヤ市の春祭りでは………春の新しい生命と、冬に命の手綱を手放した生命が交差する。
きっと神様が……死んでしまった人間を忘れないように、生者の中に生き続けるように……こうやって引き合わせてくれたんだ。
これは夢だ。ここの春祭りが見せている、奇跡のような夢なのだ。
目の前の少年の姿が、波打つ水面を覗き込むように揺らいで掠れた。目を手の甲でこすったら、自分の涙だったことに気づく。
大きな涙のしずくが落ちるのも構わずに、彼に顔を向けた。
……そして、ずっと今日1日、伝えたかった言葉を言った。
「、ごめんね…っ」
その時、時間が止まったように感じた。
風にこすれる葉の音も、お祭りの賑わいも、すべての音がかき消される。
いまわたしたちを見つめるのは、中途半端にかけた月とはるか遠くにある星だけだ。
地面に落ちていく涙が、星のかけらになったようにキラキラと光っている。
その子が一歩、わたしに踏み出した。
「……ぼくこそ、ごめん…」
その言葉に驚いて、涙が止まる。
わたしは激しく首を振った。彼が自分を責めることは何もないのだ。
「なんで、謝るの?…しーちゃんは悪くないよ」
「ななちゃんを、ちゃんと待ってあげられなかった」
そんなことない、と言おうとした唇が震えてしまって言葉にならなかった。
悲しい涙がまたあふれてくる。
そんなわたしを見た彼の表情から、微笑みが消えた。
「ぼくのせいで、たくさんの人を苦しめた……生きているのに、みんなが6年前にとどまってしまっていた」
死んでいても彼は、知っていたのだ……。
政治と権力に絶望を持った駐在のおじさん。
真実を隠したことに自分を責めた蘭。
誰かを助けることで罪を償おうとした羽柴くん。
逃げ出せない罪にがんじがらめになったすみれ。
好きな子の苦しみに気付いていた鈴。
それぞれが、6年前の事件に囚われていたことを……。
「だから………願ったんだ。 ぼくのことで、誰も悲しい思いをさせたくない。ぼくのことを、みんな忘れてほしいって………それなのに………逆にそれがみんなを苦しめてしまった。この町に住むみんなの優しさを、傷付けてしまったんだ」
彼のその“思い”が、みんなの“記憶”を消していたのだろうか。
顔も名前も思い出も、年が立つごとに記憶から消えていく。一見、初めから何もなかったかのように。
けれど、記憶は消えても、後悔の感情が消えなかったことで…………“忘れる”ことの罪に彼らは苦しむことになった。
「…………ぼくは、間違っていたみたい……ななちゃんも、巻き込んでしまった」
しーちゃんは、幽霊になっても相変わらず優しかった。
我が身に起こったことよりも、周囲の人を気にかけてしまう。
そんなこと、誰でもできることではない。
誰も恨まないで、憎まないでいられることなんて難しいのに、彼の心には一切の闇が感じられない。
「ごめんね……ななちゃん」
今みたいに、彼の真っ白な心に驚いた記憶がある。
あの日…………一緒に海に流れていく灯篭に向かって願い事をしたとき、彼は自分のための願いをしなかったことだ。
だから、あの時わたしは…………
―― えー!そんなの願い事じゃないよ!
―― え…?
―― わたしの願いはわたしのだけど、しーちゃんのじゃないでしょ?わたしの願い事はわたしが叶えるもので…それで、…うーんっと、とにかくしーちゃんのは願い事じゃないよ
―― そ、そうなの?でも、ななちゃんの願いが叶ったらすごくうれしいし…
―― だーかーらーそれじゃだめじゃん!……あ!そうだ!じゃあ、わたしは来年、しーちゃんの願い事をするから!それで、おあいこ!
―― え?ななちゃん、ぼくのお願い事してくれるの?
―― うん!だから、しーちゃんはそれまでちゃんと考えててね
―― ……そう言われたの、初めてだ……うれしい、ありがとうななちゃん
その時、人に想われることは、とても幸せなことだと思った。
両親からひどい扱いを受けるという悲しい過去を持っているはずの彼は、人をどこまでも愛そうとしてくれる人だった。
「約束を……果たさないとね」
時間は動き出した。
町の明かりが次々と消えていく。
それと同時に、彼の姿が暗闇に溶けてしまうように、半透明になっていた。
2度目の鐘の音が響き渡った。あと、一度の合図で…始まるのだ。
「しーちゃん、願い事を教えて」
「ぼくの……願い事……」
町が闇の中に消えていく。電灯の明かりも消え始めた。
ぼんやりと灯るようなしーちゃんの体が、徐々に消えようとしていた。
もう少し、待って。
彼ともっと話をさせて。
やっと、やっと会えたのだ。
引き留めようと、足を踏み出して、手を伸ばした。その指先が彼に触れようとしたとき…………
彼の声が、わたしと出会ったときの幼い声と重なるようにして、鮮明に響いた。
「ぼくの……願いは」
3度目の鐘の音が、世界を闇に落とした。
幾千万の星がその闇の中で、静かに輝く。
彼の声が、星の声となってわたしに降り注いだ。
―― あなたの、願いがかないますように
河川敷で、桃色の星がそれに答えた。たくさんの灯篭に明かりが灯され、夜を明るく照らしていく。
そして、その明かりがゆっくりと水面に浮かばせられた……。
わたしは、そんな光の世界に背中を向けて、その場で膝を付く。
伸ばした手はしーちゃんに触れることはできなくて、そして、どこまでも優しいあの子の言葉にただ涙があふれてきた。
わたしは一体、なんのためにこの町に来たの?
大切な人を思い出したからなんだというの?
別れは、次の約束があるから乗り越えられる。
けれど、次のない別れをするのは……こんなにも悲しい。
こんな気持ちになるなら、忘れたままでよかったじゃないか……。
寂しい気持ちをわたしは永遠に抱えることはないんじゃないの?
わたしを待っていたしーちゃん。
事件にかかわった人たちをずっと案じていたあの子は、どうしてそのまま消えてしまうの。
あんなに、優しい人なんだよ。
自分のことよりも、人のことを気遣う人なんだよ。
少しくらい……いいや、もっと…もっと、報われてもいいじゃないの。
あの子の、あの子自身の……幸せが…あるべきなんじゃないの。
眼下に広がる幻想的な光の芸術が、憎くて仕方がない。
彼の切ない願いばかりを叶えてしまうなんて、そんなの願いとは言えない。
へたり込んでいた場所から立ち上がって、ゆらゆらたゆたう星の川に叫んでいた。
しーちゃんが、自分の幸せを願わないのなら、わたしは………
「神様、妖精サマっ!!誰でもいいからっ!!あの子を…優しいあの子を一人にしないで……!!」
―― 人は“忘れられて”……消えてしまうのだと思うわ
覚えているのなら、生きている。
まだ、彼は生きていると信じる。
大きく息を吸って、すべての物に届くように声を張り上げた。
「しーちゃんを幸せに、してください…!!」
誰も知らない、覚えていないあの子の笑顔を想って、わたしは空と地面の星の世界に心から願った。
キラリと、夜の空を滑るようにして星が流れた。
お祭りは、終わった。