前編
「お嬢様」
「カイ、ありがとう」
着せかけてくれたコートに袖を通しながら礼を言うと、無表情な従者はぺこりと頭を下げた。……相変わらず、喜怒哀楽のはっきりしない男だ。こんなに綺麗な顔をしているのだから、少しくらい笑えばいいのに。
まあ――こんな世の中では無理もない話か。
瞳を伏せて傍らへ立つカイに苦笑を浮かべ、私は小さく彼の肩を叩いた。
「あんまり不景気な顔してるんじゃないのよ」
「――地顔です」
カイの言い様がおかしくてしばし笑ってしまったが、あまり時間的余裕がない事に気が付いて、私は玄関ホールを早足で抜けると、横付けされている車へと体を滑り込ませた。カイが扉を閉めると、車が音もなく発進する。向かいに座るカイは当然のように瞳を伏せていて、合わない視線になんだか切なくなった。
あともう五年――いや、三年もすればきっと世界は変わる。そう、私は信じている。
「ルシルド国主は、やってくれるかしら」
「リリアは最近そればかりね」
「当然じゃない! もしも国主が掲げた言葉が本当ならば、世の中は一気に変わるわよ」
「まあそうねえ、あなたのずっと掲げている半獣制度撤廃を本当に掲げてくれた方ですものね」
鼻息荒く頷く私に、クラスメイトのミモザは苦笑する。このクラスでは私以外で唯一の女子生徒だ。
私たちが通う魔学高等学校は、この国の最高学府だ。そしてこの国に最高学府は二つしかなく、もう一方は技術高等学校――あらゆる職人を育てる為に作られた学校だ。そちらの男女比はそんなに変わらないか、女性が多いくらいなのだが、手の力量ではなく頭の力量を試すこちらの学校は、男性が圧倒的に多い。二つとも余程の才がなければ入学がかなわないというのは同じで、どちらも卒業出来れば確かな職業に就く事が出来る。一般的に、ここの生徒は国に関わる仕事をする者が多い。文官や武官、その他だと研究職もあるけれど、そちらに進むには在学中に実績を残して支援者を見つけなければいけない。研究にはお金がかかるのだ。学校でも大規模な研究施設があり、やはり実績があればそのままそちらに進む事が可能だ。
私は、魔法研究は果てがなく楽しいと思うし、本当ならばそちらに進みたいとも思う。恵まれすぎているが我が家は裕福なので、両親が支援をしてくれるとも話しているのだが。
「本当にリリアは文官志望なの?」
もったいない、とため息交じりに言うミモザへ、私は力強く頷いた。
「ええ。私たちもあと一年もすれば卒業だし――もしもルシルドさんが撤廃を実現するのに苦労するのならば、手助けをしたいわ」
確かに、ここへの入学がかなったのならば血反吐を吐くくらい勉強すれば――種類にもよるが政治に直接関わるものは本当に相当頑張らないといけないが――誰しもなれる文官と違って、研究者というのはセンスが問われる。閃きというのは、誰もが出来るものではない。世界すら揺るがす新しい魔法を生み出すかもしれないのだから、ロマンだってたくさんある。私は幸い、在学中に小さくはあるがいくつかの研究成果があり、実績という面では合格圏内に入っているだろう。
けれど。
「そんなにあのカイくんが大事なの?」
黙り込んだ私に何を思ったのか、ミモザが口角を上げて私を見た。
「べっ、別にそういうわけではないけど」
からかうような弾む声に慌てて首を振ったけれど、きっとミモザには私の内心が透けて見えているだろう。
そうだ、私は――この世界をいつもおかしいと感じていた。
私たちの世界では、時おり魔法を司る精霊の悪戯なのか祝福なのか、人間ともう一つ違う姿を併せ持つ者が生まれる事がある。それは血筋と一切関係がなく、忽然と彼らは生まれる。「半獣」と呼ばれる者たちだ。
彼らは生まれた時からその身分が決まっており、人間に隷属する事を課せられる。膨大な魔力を持つ彼らを人々は恐れ、逆らえば死をもって裁かれる腕輪を身につけられ、管理下に置いたのだ。半獣である事を憂えて親が秘匿しようものなら、国はその親たちを容赦なく処刑してきた。反対に、差し出せば国から金が与えられるという反吐が出るような制度があったのだ。昔はそういう背景から、捨て子になったり誘拐される半獣も少なくなかった。
今の時代は色々と改善されてきている。段々と「おかしい」と思う人間が増えて、彼らの働く現状はそう悪くはなくなった。富裕層の召使いとして仕えたり、お店の従業員として働く者が大半だ。彼らを暴力で支配する事は固く禁じられている。腕輪の呪いも、今では背いても死ぬことはなくなったし、昔のように少しでも逆らえば激痛が襲うという酷いものではなくなった。
それでも力を封印され、職業選択の自由を奪われた彼らは、自身の腕一つで生計を立てる事は出来ない。雇われる立場にはなれても雇う立場にはなれないし、文官や武官、研究者や職人にはどんなに才能があったって、半獣というだけでなれないのだ。最低限の教育は受けられても、この学校に入学だって出来ない。もちろん、人間が半獣と同じ職業に就く事だってたくさんある。けれどもそれは、選択した上での事であって、そもそもの前提や心意気が全然違うのだ。それに、まだまだ差別が強い田舎の地域では低賃金で重労働が当たり前。中には国が禁止しているというのに強制的に体を売らされている者すらいるという。
まだまだ、この国に巣食う差別は根強い。半獣は、自由を与えれられるべきだ。こんな身分制度、おかしい。
「確かに私も、色んな事を学んで、今はリリイの考えが正しいと思っているわ。けれどなんというか――あなたは不思議なのよね。身近に半獣が仕えているなら、余計にそんな考えには至らなそうなのに。ご両親だって、そういう思想の方ではないと話していたわよね?」
確かにその通りだ。富裕層には――下品な言い方をするが特に成金には、彼らを隷属させているという意識が強い傾向にある。この大都市ではさすがにそんな発言をすれば育ちを疑われるが、本音では普通の人間よりも体力があり力もある彼らを都合良く使いたいと思っている者が大半だ。親も子どもにそういう思想を吹き込む輩が多いから、それが正しいと信じてしまう。
「私の両親は彼らを特に見下す事はなかったわ。けれどもかといって、彼らを自由にするべきだとも言わなかった。何も疑問を抱かず、半獣制度を「そういうもの」としか捉えていなかった。けれど私は思ったの。それは思考停止であり、いちばん残酷な行為だろうと」
差別を差別だと思わない。それは、もしかしたら彼らをいちばん貶めているのかもしれない。そう強く思えたのは、ひとえに私の中にある記憶のおかげだ。
「あなたの才能は凄いわ。当たり前を当たり前だと捉えなかった。ここに来るべくして来た人よ」
大仰な物言いに、私は苦笑して首を振る。
「ミモザだって、入学して間もない頃に私もその意見には賛成だって言ってくれたじゃない」
そう。彼女と友情を築けたのは、私の考えに共感してくれたからだ。熱心に耳を傾け、その通りだと目を見て頷いてくれた。ここに通う人間の多くは半獣を差別なんてしていないけれど、かといって私のように鼻息荒く「撤廃すべきだ!」と声高に叫ぶ人間はそんなに多くない。良くない事だろうとは思うけれど、といった程度だ。
「私だって、最初はあまり気持ちの良いものではない、くらいだったのよ。あなたが私に気付かせてくれたの。とんでもない差別なんだって。このままでは彼らと一生、対等に話をする事は出来ないんだって」
微笑むミモザに、少し申し訳ない気持ちになる。言うなれば私は、ズルをしたようなものなのだ。
だって私には前世の――本田涙として生きた記憶があるのだから。
「日本人に生まれて育って一生を終えれば、誰だって「いやそれおかしくねーか」って普通に思うよなあ……」
「え? 何か言った?」
ぽつんと呟いた独り言を耳聡く拾いそうになったミモザに慌てて何でもないと誤魔化した。まあ――研究職の閃きとやらもやっぱり日本人としての意識があるっていうのがでかいんだよね、結局。
本当なら、私もそっちに興味があったりしたけれど。やっぱりなあ……。
初恋の相手には、幸せになってほしいのよね。
「お嬢様、お迎えに上がりました」
「ありがとう、カイ」
スーツ姿に違和感なく溶け込む腕輪は、一見すると腕時計のようだ。けれどこの世界に腕時計というものは存在していない。半獣の存在があるからか、人間は腕に何かを身につける事を拒んだ。だからこの世界は日本とそう違わない文化レベルでありながら、懐中時計しか存在しないのだ。彼の腕に生まれた瞬間から付けられた重い枷。それを見るたびに、私を何かが急かしてくる。
学校の門に並ぶ迎えの車を眺めながら短く息を吐いて、扉を開く彼を一瞥してから行きと同じように車へと滑り込む。別に私だって国の交通機関を使えるんだけどなあ。空転なんて電車走ってないけど電車みたいなものじゃない、駅があるし。電車で移動するんじゃなくて空間転移魔法を使うからあっという間に着くけど、お金を移動分だけ払って乗るんだから同じだもん。護身魔法だって一通り習ってるわけだしなあ……。
「ねえカイ」
「お答えいたしかねます」
「まだ何も言っていないわ」
「わざわざ送迎をしなくて良いというお話では?」
「――わかってるんじゃない」
むう、と唇を尖らせて向かいに座るカイへと視線をやれば、カイは首を振った。
「お嬢様、何度も申し上げました通り、不特定多数の輩が乗り合わせる交通機関は危険です」
「社会人になったらそうもいかないじゃない?」
「文官になれば、国舎と直通の陣が敷かれるでしょう」
「そうかもしれないけど、寄り道をするようになるでしょう、一人暮らしをすれば」
「旦那様がお許しになるとは思えませんが」
「私は大人になるのよ? 止められないわ」
「いずれにせよ、私がお傍に仕える事になるでしょう」
カイの言葉に、口を開いたまま数回まばたきをする。それはつまり――。
「あなたと私が二人で暮らすという事?」
「お嬢様と私の契約は、そういう契約ですから」
お父様が私専用の従者に、とカイを雇ったのは、私が五歳、彼が十歳の時だった。そんな年齢から働き出すのも、半獣だけだ。つくづく、この世界はおかしいと思う。子どもが子どもである為の期間を強制的に奪うなんておかしい。まあ、その頃は私の兄代わりのように過ごしていたから、仕える仕えないという意識は低かったのだけれど。カイとお父様の交わした契約によると、私が死ぬか、伴侶を決めるまでカイは私の従者として仕えなくてはならないらしく、初めてそれを知った時には驚きすぎてはしたない悲鳴を上げてしまったくらいだ。
富裕層に仕える半獣は、給料が良いものの自由がほとんどない。カイのようにどこから仕事でどこからプライベートなのかわからない労働体制の者が多いのだ。魔力は弱まっているとはいえ人並みにあるし、力も強いから護衛として雇われる事はままある。とはいっても、さすがにそんな長い期間や時間を拘束するような契約なんて滅多にない部類に入るのだけれど。
私はため息を吐いて、頭を抱えたままカイへと声をかける。
「だから、十八になったらその契約を解除するって話したじゃない」
「致しかねます」
――え?
即答に驚いて俯いていた顔を上げると、珍しくカイが真っ直ぐこちらを見つめている。黒髪に黒目という、日本人としては馴染み深いその見た目を眺めながら、彼の瞳に私の赤茶色の髪とオリーブ色の瞳はどう映っているのだろうかとぼんやり考える。
「……どうして、断るの? あなたは自由になれるのよ?」
私から解放されるというのに、即答で拒否をするだなんて、一体何を考えているのだ。
「先の事を気にしているのかもしれないけれど、きちんとした紹介状を用意するわ。今よりも拘束時間の短い、けれども今とお給料が変わらないかそれ以上の条件で雇ってもらえるように」
「致しかねます」
「カイ」
思わず瞳を眇めて彼を見つめると、カイは、僅かに口角を上げて、本当に一瞬、微笑んだ。
「自由などと――」
「!」
後半は音になっていなかった。けれど、カイの言わんとしている事には予想が付いて、私は目を見開いた。
半獣が、今の世で「自由」だなんて。なれるはずがない。ましてや、人間にそれを言われるだなんて――どれだけの屈辱だろう。
私は、あまりの恥ずかしさに顔が熱くなるのが自分でもわかった。きっと真っ赤に燃えている頬を隠す事も出来ず、ただ固まるしかなかった。
なんて、醜いんだろう、私は。
なんて、酷いんだろう、私は。
初恋でいまだに恋い焦がれている相手に――カイに、私は。
謝る事すら烏滸がましいほどの言葉を放ってしまった。
車中はまるでお葬式のように暗く、静かなものだった。運転手は車を降りた瞬間に私とカイの空気を訝るように首を傾げたが、きっといつものような軽い喧嘩でもしたと思ったのだろう。苦笑して「お嬢様はまた」と呆れたように呟いていた。
私はふらふらと玄関ホールを抜けて、階段を上り私室へと向かう。着替えを手伝うかとメイドに訊かれたけれど、私は大丈夫だとなんとか微笑んで礼を伝えた。
「あああもう! 失言! いやもう失言なんて生やさしいもんじゃない!」
広いベッドを制服のままごろごろと転がりながら、最終的に枕をぼすぼすと殴りつつ私は涙をこぼす。
「どうしよう、嫌われるどころか軽蔑されたかもしれない……」
声に出すと「かもしれない」という可能性ではなく「きっとそうに違いない」という断定的な気持ちが増してくるのはなぜだろう。好かれてるなんて端から思ってはいない。けれどもせめて、人間の中ではまだ話せる人くらいには思われたかった。
私たちが彼らを差別するように、彼らだってきっと私たちを差別や区別している。私は常にそう考えながら生きてきた。だからこそ、両者の間に果てしなく深い溝があるのは仕方がないとも思う。人間を恨みに恨んでいる半獣はきっと大勢いるだろう。けれど、そのカイにとって「恨んでいる人間」という枠の中に私が入らなければいいな、と願うのは贅沢すぎただろうか。
初恋が実るなんて夢は見ていなかった。けれどもこれはあんまりだ。いや、自分が悪いのだけれど。自業自得でしかないのだけれども。
「だって黒髪黒目って時点ですごく親近感沸いたし! 獣姿は滅多に見せないけどもっふもふの狼姿で可愛くも凛々しいし! たまに撫でさせてくれたりして!! だからちょっとは好かれてるかもとか期待しちゃうじゃない!! たまに笑ってくれたりとか優しく撫でられたりとかしたら好きになっちゃうじゃないいいい!!!」
ぼすぼすぼすぼす枕を叩きながら思いのたけをぶつけていると、部屋にコール音が響いた。備え付けの通話機だ。私は顔を上げてベッドのヘッド部分にある緑色のボタンを押した。
「はい」
『リリア、書斎に来てくれるかい』
「わかりました」
お父様の声に頷いて赤いボタンを押すと、通話は切れた。
しまった、まだ制服着替えてなかった。……とりあえずいいか、そのまま向かって。いや待てよ、泣いたのバレバレだとまずいから顔を洗ってやっぱり着替えて行こう。
私は私室に備え付けてある洗面台へと向かって顔を洗い、着替えもそこで済ませる。洗濯籠へと汚れ物を放り込むと、埋め込まれた小さな移動陣が洗濯場へと転移してくれる仕組みになっている。籠もいくつかあって、下着など種類によって入れる場所が決まっている。シャツはいちばん左へ、制服のワンピースとブレザーはその隣の籠へと放る。陣は常に展開するわけではなく、時間になると一斉に動く仕組みだ。たまに時間を逃すと洗濯場の責任者であるマーサさんから説教されてしまうので気を付けている。
簡易な白いシャツとグレーの膝丈スカートを身につけて私は私室を後にした。
「お父様、失礼いたします」
扉をノックして、声に従い中へ入ると、少し予想はしていたがカイが扉のすぐ傍に控えていた。私は視線を合わせるのが怖くて、なるべく彼を見ないようにしつつ、ソファで微笑む父へと「お父様、どんなご用事ですか」と声をかけた。
「まあ、とりあえず座りなさい。カイ、珈琲を」
父の向かいに腰掛けると、カイが扉の傍にある通話機を使って厨房へと珈琲を頼んだ。その様子を一瞥して、また父に視線を戻す。
「リリア、あともう少しで君も卒業だね」
「はい」
学校生活はまだ八ヶ月ほど残ってはいるが、きっとすぐに過ぎてしまうだろう。
「前々から確認していた事だけれど――やはり研究職に就くつもりはないのかい?」
父の言葉に、私は力強く頷いた。
「私は二ヶ月後の文官試験を受けます。そしてその三ヶ月後に行われる国仕えの直属試験を受けるつもりです」
「狭き門だが、君ならきっと成し遂げてしまうのだろうね」
まず、文官試験に受かれば、国に雇われる仕事が出来る事が決まる。そしてその資格を得た後は、それぞれの職業試験を受けるのだ。役場で働きたい者もいれば、図書館で働きたい者もいる。教師になりたい者もいる。そして――私のように、国主館で働きたい者もいるのだ。
国主館に雇われる事が決まれば、私は国の舵を取る者の一員として働く事になる。それぞれの課があるから、どこに配属されるかはわからないが、希望は出せる。それが通り、半獣制度を扱う課に配属されれば微力ではあるが細かい制定の可否を決める一員になれる。出世すれば、国主の傍仕えになるまで時間はかかるだろうが可能性はある。いつか私が国主補佐になれば――半獣制度を撤廃させる事がきっと出来るはずだ。
何年かかるかはわからない。けれども絶対に、カイが生きている内に実現してみせる。もしかしたら私が何をせずとも撤廃されるかもしれないが、指をくわえて見ているのではなく、私も出来る事がしたいのだ。
家族とも根本的な部分で寄り添えず、世界でひとりぼっちなのではないかとすら思えた私を、あたたかく包み込んでくれた彼。孤独に押し潰されそうになった私の隣に、いつだって居てくれた。
それは仕事だからかもしれない。けれどそんな事はどうだって良かった。
昔、半獣制度がおかしいと、両親がわからないと泣いた私に、ただ「ありがとう」と言ってくれたカイに、手を握ってくれたカイに、わずかでも報いたい。
今の私を動かしているのは、馬鹿みたいな恋心だけだ。
「けれどもリリイ。もしも卒業する前にその撤廃が決定されたらどうするつもりだい?」
「え?」
思わぬ言葉に目を丸くしたけれど「あり得ない話ではないだろう」と私を見やる父に、それは確かにその通りだろうと頷いた。
「そうだとしても、その後すぐに差別がなくなるわけではないと思うの。むしろ撤廃されてからの方が私がお手伝い出来る事がたくさんあるかもしれないわ」
「うん、そうだね。でも、君が掲げている目標は達成されるだろう? ああ、ありがとう」
「エミル、ありがとう」
私の言葉に微笑んで頭を下げたメイドが、静かに部屋を退出して行った。届けられた珈琲はなんともいえない香りで、日本でこれ飲もうとしたらいくらするんだろう、などと馬鹿な事を考えてしまう。父は喉を湿らせたかったのか、中断した言葉の続きをすぐに話すでもなく、まずは一口黒色のそれを流し込んだ。私も同じく、香りに誘われて口内へと滑らせる。ゆったりとした動作でソーサーへカップを戻し視線を上げると、父は真っ直ぐこちらを見ていた。
「燃え尽きてしまわないかい? 文官の、ましてや国主館で働くというのはそう簡単な事ではない。気苦労も多いだろうし、出世欲の強すぎる連中がわんさといるようなところだ。希望の課ではない場所に配属される可能性だってある。そうなった時、本当に前を向いて働けると言い切れるかい?」
「…………」
父の言葉に、情けないが私は即答出来なかった。
確かに、人生の目標と言ってもいい『半獣制度撤廃』が決定したら、私の士気は下がるどころか枯渇するかもしれない。その後の、いかに半獣差別を無くすか、彼らの自由が尊重されるかは、ひょっとすると国主館に勤めるのではなく別の職業のがより深く関わっていけるのかもしれない。
「リリイ、よく考えなさい。君の人生だ。迷いのないようにね」
「……はい、お父様」
微笑む父の顔はおだやかだけれど、重く響く言葉に自分がこの先何を背負う覚悟があるのかを考えさせられる。軽々しくその目標を掲げていたわけでは決してないけれど、勢いで突っ走っていたのは紛れもない事実だ。改めて、冷静にならなければと痛感した。
ふう、と短く息を吐いて、少し冷静になろうともう一度カップを持つ。
「それからカイの事だけれどね」
なんの準備もしていなかったので思わず飲んでいた珈琲を吹き出しそうになった。冷静にカップを傾けた状態からゆっくりと戻して、ソーサーに置いたけれど思いきり「ガチャン」という音が響いてしまった。
「私と彼が契約を交わしたのはまだ君が幼かったからだ。十八になれば、カイの契約主はリリイへと移るように手配してあるから、今後、彼との契約をどうしたいのか良く話し合うといい」
十八というのはこの国の成人を意味する。だからこそ、私は父にそういう風に契約の形を変更して貰おうと思っていたのだが手間が省けた。最初から父はそのつもりだったのだと安堵しながら「わかりました」と頷いた。
「旦那様」
「!」
微笑んで父を見つめていた私は、扉の方向から唐突に割って入った声に驚いてそちらへと視線を向けた。寡黙なカイが、いつも影のように徹しているカイが――私とお父様の会話に口を出してくるなんて。
驚きすぎて目をこれでもかと見開きながらまじまじとカイを見る私の視線に気付いているんだかいないんだか、父の方だけ真っ直ぐ見て彼はさらに言葉を重ねる。
「わたくしは今の契約内容で問題はございませんが」
「うん、カイの希望がそうだとしてもね。リリイの意向もあるから。あくまでも二人で決める事だからね」
にっこりとどこか威圧的にカイへと微笑む父に、私はそろそろと右手を上げて「あのー」と声をかける。
「それって、私とカイがお互いにどーしても! 譲れなかったら、交渉決裂で契約解除もありえ……る、んですよね?」
「そうだねえ、そうなるかなあ」
「!」
私が思わずバッ! とカイへと顔を向ければ、カイから「チッ」という音が聞こえた。え? 今のなに? 舌打ち? もしかしなくてもカイが舌打ち? え?
「まあ、あくまでも二人で決めてねって事だから、よろしくね。もちろん、契約内容が双方に不満が残る結果になってしまってどうしようもなくなれば、リリイの言う通り、退職って事になるけれど。カイが次の職に絶対に困らないようにするから、そこは安心しておいてね」
「はい、もちろんです。私も尽力致します」
力強く頷く私に、何故か父は苦笑を浮かべる。ん? と首を傾げると、カイをちらりと見た父は「カイも報われないねえ」と呟いた。……どういう意味だ。
「ええと、お話は以上でしょうか?」
「そうだね、休んでいるところをすまなかったね、リリイ」
「いいえ、ありがとう、お父様」
父の言葉に、共感する事はそんなに多くはなかった。根本的に、今までの環境が私の記憶と違いすぎるからだ。けれども、大人として私を諫めてくれる彼を、尊敬している。そういう人を親に持てた事を、誇りに思う。
立ち上がって、扉の前まで歩くとカイが扉を開けてくれた。お礼を言って外に出ると、カイは当然のように後ろを歩く。……いつも通りの行動なのだけれど、何とも落ち着かない。
「お嬢様」
「! なあに、カイ」
さっきの今でまさか声をかけられると思っていなくて、私はなんとか声が震えないように、振り向かずに返事をした。さすがに、カイの方を見る勇気はない。さっきは驚きすぎて思わず顔を見てしまったけれど。
広い廊下を、何人かのメイドが行き交うけれど、静かなものだ。気まずいと思っているのは、私だけなのだろうか。
「あなたは、私が本当に望んでいるものが何かご存知ですか」
「……? カイ?」
唐突に放たれた言葉が気になって、思わず後ろを向いてしまった。いつものように瞳は伏せられていると思いきや、カイは真っ直ぐこちらを見ていた。
――あまりにも強い双眸で。
「あの……」
何か言わなきゃと思うのに、思考は空回りして、何一つ浮かばない。カイが本当に望んでいるものなんて、自由以外にあるのだろうか。
私という人間のお守りをまだ幼いころから強制的にやらされて、今日まで来た。私は日本人だった記憶があるから、この国の人間らしくない思考回路にずいぶんと苦労させられたはずだ。思い付きで「こういうご飯が食べたい」「こういうお菓子が食べたい」「こういう物を作りたい」と無茶な事を言い出しては、カイを付き合わせていた。時には成功し、時には失敗した。一緒に両親に怒られた事も、私がやらかしてしまった事なのに理不尽に彼だけ怒られた事もある。二十四時間、三百六十五日、嬉しい日も悲しい日も私と過ごしてきたのだ。どれだけの苦痛だったろう。彼のこれまでを思うと、いつも胸がしめつけられる。
同時に、自分の罪深さに怖くなる。
カイの人生は、一体なんだったのだろうと、愕然とするのだ。だから早く解放したい。せめて私に付き従う人生を終わらせてあげたい。それはものすごく寂しくて、ものすごく辛い事なのだけれど。でも、私のわがままでこれ以上彼の人生を私に縛らせたくないのだ。
「――失礼致します」
静かに頭を下げて、カイは廊下を歩いて行ってしまった。去っていく背中をただ見つめる事しか、私にはできない。
「……わかんないよ」
ぽつぽつと、さっき止めたとばかり思っていた涙がまたこぼれた。