煙る鳥兜 下
校門前に着いて暫く木陰に立ち尽くしていれば、茹るアスファルトの先に揺れる人影が現れた。その一人はあまり気乗りしない様子であったが、無理もない。
「連れてきたわよ。」
「お待ちしていました。馬渡様にはご同行願います。」
「私も行くわ。」
「いえ、成宮様と咲には何処かでお待ち頂きたい。くれぐれも熱中症になりませんよう、涼しいところで。」
「ま、待ってくれ!あんた、俺をちゃんと守ってくれるんだよな?」
「勿論です。貴方を殺しはいたしません。殺させもいたしません。しかし、協力はしていただきます。小貫創くんを殺したのは貴方ではない。しかし、追いやったのは貴方がただ。」
「……颯、行って。私も、出来る形で協力するから。」
「鈴子まで!ああわかった、わかったよ。生きていられるんなら、毒煙の中だろうが飛び込んでやるよ。ちくしょう、ちくしょう。小貫なんかにちょっかい出すんじゃあ無かった。」
トキワは項垂れる少年を横目に、必要な物だけをショルダーバッグに詰めた。残りの荷物を咲へ預けると、静まり返って異空間の建物と化した校舎へと歩き出す。唯一頼る事の出来る存在が離れていくと不安になったのか、馬渡も慌ててトキワに着いて行った。
夏の太陽は長く彼らへ顔を見せ、リノリウムの廊下をも照らす。しかし、静寂の中でカツカツと足音だけが響くのは、光では拭えない不気味さがあった。
「なあ、鈴子から聞いたよ。カイゲだとか、イコンエンだとか。よく、分からなかった。ありゃあ結局何なんだ?俺を殺したいのか?」
「…そうですねえ。貴方にお話しするのは、少し難しいかもしれません。」
「なんだよ、俺を頭の悪そうなガキって言いたいのか。」
「いいえ。詳しくお話するとなれば、専門的な知識からお教えしなければならないものですから。まあしかし、貴方もまた当事者であるわけです。少しだけお話ししましょう。っけほ、予想以上に濃いな。…致し方無い、馬渡様は此方を装着して下さい。本当は小貫創くんに顔を見せて差し上げたかったのですが。」
目に見える程濃い煙では無いものの、教室からまだ離れた場所でも咽るようではと、トキワはショルダーバッグから口だけを覆う防毒マスクを取り出し馬渡に差し出す。馬渡は彼の言葉に顔を引きつらせながらも、それを受け取った。
「や、やめてくれよ。まるで、小貫に会いに行くみたいじゃあないか。」
「会いに行くのですよ。さて、まず遺恨煙について。あれは故人の強い恨みに反応しその場へ咲き、毒煙を放つ華です。そのような特殊な華の総称が怪華です。今回の遺恨煙も、小貫創くんが貴方がたにいじめを受け、自殺にまで追い込まれた恨みに反応し咲いたものだと思われました。」
廊下には、トキワの声と足音だけが響く。マスク越しにでも微量ながら身体を蝕む毒煙の仕業か、あるいはトキワの言葉に対してか胸を痛め、馬渡は顔を歪ませた。
「しかし、事実はそれより僅かに複雑だった。」
「え…?」
「あの遺恨煙は、小貫創くんに寄生したものだったのです。遺恨煙は憎しみを抱えた対象者が死ななければ咲く事は出来ない。だから貴方がたを少なからず恨む小貫創くんの身体に寄生し、自殺を促した。」
「そんな…っ、そ、そうだったのか……」
次いだ真相を告げるトキワの言葉に、馬渡から漏れた言葉にも喜びが滲む。しかし、トキワは静かに細められた安堵の瞳を見逃しはしなかった。
「貴方の罪に変わりはありません。どんな理由があろうと、いじめはあってはならない。何かを痛めつけて愉悦に浸る事…生物にとって抗えない快感ではあります。抑制のきかない貴方がたのような子供なら尚更。…しかし、こうなってしまって理解したでしょう。ご自分が人間であるという事を。人間として、してはいけない事をしてしまったのだと。」
「…わかってる。わかってるさ。もうこんなのはこりごりだ。こんな、苦しい思いは。」
馬渡がシャツの胸の辺りをぐっと握りしめれば、胸にせめぐ渦のように強い皺が寄る。
「……小貫創くんに寄生した遺恨煙の核となるものは、研究所の者が只今処分していると思われます。それさえ済めば、教室の遺恨煙を生かすのは小貫創くんの独り歩きしている恨みのみ。」
「語りかけてどうにかなるものなのか。」
「…どうでしょうか。霊の類は専門外ですので。…っけほ、この教室ですね。……入りますよ。」
その扉の淵から、目に見える程濃く淀んだ煙が滲んでいた。むせ返るような空気に、思わずトキワも掌で口を覆う。扉を開くと、生き物のようにむわりと煙が飛び出し、辺りに立ち込めた。
「小貫創くん!けほっ、僕は、天草研究所から参りました。トキワと、言います。」
突然花へ自己紹介を始めるトキワに、馬渡はマスクの内で引きつった笑みを浮かべる。花に、話しかけているのか。こいつ、頭が可笑しい。トキワはそのまま煙の中へと進んでいく。馬渡はそれに着いて行く事を躊躇った。
「貴方の話は、お母さまから伺いました。貴方は、本当は死にたくなんて無かった、はずです。そして、死してなお人を恨み、苦しまなくても…良かったはず、です…けほっ、けほっ!」
トキワの咳き込む数が徐々に増え、言葉も途切れ途切れになっていく。しかし馬渡は未だ、寡黙な花に何と話しかければ良いのか分からずにいた。
「馬渡くんも、貴方にしたことを…、反省、しています…。だから、こうして、会いに…っ、……ねえ、馬渡、くん。」
「ひっ……あんた、鼻血がっ。」
振り向くトキワの鼻から一筋血が伝い、ぽたりぽたりと床に斑点を作るのを見て、馬渡は小さく悲鳴をあげる。トキワも馬渡の言葉に鼻の下を拳で拭い、赤く染まった手の甲に自分が危険な状況という事を漸く知ったようだった。しかし知った時にはすでに遅く、視界が段々と歪む。ガタンと一際大きな音が鳴ったと思えば、それは自らが床へ叩きつけられるように倒れる音であった。
教室には煙を撒く花と、倒れて自分を守る所では無い男。馬渡はまた、ちくしょう、と小さく呟くと防毒マスクを投げ捨てた。
「……誰が、誰が反省なんかするかよ。お前なんかに!」
トキワは虚ろな目で、馬渡を見上げる。遺恨煙が怒りを露わにするように煙を吐き出した。
「俺が恨まれても仕方ねえのは、小貫創だっ。小貫の恨みなら、いくらだって受け止めてやる!小貫になら、何遍だって謝ってやる!お前なんか知るかよ。小貫、俺だ。馬渡颯だ!そんな花なんかに呑み込まれてしまう程、お前の俺への怒りは薄っぺらなのか?」
小さく集まって頭を垂れるアメジスト色の花が風の無い教室の中で小刻みに揺れ、吐き出す煙の吐息がか細くなる。希望を見出したのも束の間、馬渡にはもう、彼へ掛ける言葉が見つからなかった。
「小貫…っ、小貫、頼むよ…、俺の声を聞いてくれ…」
「小貫くん!私も…見て見ぬふりをして、ごめんなさい!」
一人恐ろしい花に向き合う恐怖に、足が震える。次の言葉が出てこずにいたその時、廊下から聞き覚えのある声が小貫へと声を掛けた。
「こ、小貫、ごめん。俺、馬渡に言われて、逆らえなくて…。」
「違うだろ。皆、皆の意思でやったんだ。小貫、本当にごめん。」
「私も、男子が勝手にやってる事だって、関係ないって…ごめんね、ごめんね…っ。」
声は段々と増えていく。馬渡が振り向くと、そこには自分の、そして小貫のクラスメイト達が集まっていた。懺悔の渦が毒煙を呑み込んでいく。
「小貫……ごめん。」
馬渡の謝罪が止めとなって遺恨煙は何も吐き出せなくなり、痙攣したように震えながら萎び、机の上へと倒れた。トキワも朦朧とした頭で遺恨煙が息絶えた事を何とか理解し、重たい瞼を閉じる。暗闇の中で、安堵の声が悲鳴に変わっていくのを感じた。
「お前たち、マスクが無いならせめてハンカチで口を覆え!用が済んだなら撤退しろ!…トキワ?トキワ!おい、しっかりしろ!」
男の声が聞こえる。温かく固いものに包まれる感覚。これは、木の幹だ。しかし、ドクンドクンと脈打っている。これは、一体。
『まあ、お母さんを描いてくれたの?大和は本当に絵が上手ね。お世辞じゃないわ。本当にお母さん、大和の絵が好きなの。』
『大和、可愛い私の大和…。』
『お願い、神さま…守ってください。あの子を…あの子の、右手を…。私の、愛する息子…。』
「…お母、さん?」
トキワが次に瞼を開いた時には、視界に真っ白な天井が広がっていた。呟いたその言葉は、自分の視界だった人間のものであると気付く。トキワには、母の記憶など無かった。
「っ、気付いたか、大馬鹿者!どうしようもない奴め。お前が元気なら一発ぶん殴ってやりたいところだ。」
「……乙丸さん。いてて、…あれからどうなりました?
「丸一日ぐうすか眠っていれば、頭も痛くなる。…まあ、一日で回復するとは此方も驚きだが。馬渡はこの病院でお前同様ぐっすり眠っているよ。あっちにも小娘が着いている。遺恨煙は枯れた。学校も今週末には再開するそうだ。加害者らの処罰はどうなるか分からん。しかし、それこそ俺達には無関係だ。自分の罪は自分で償う。子供だろうとな。」
「…そうですか。…咲は?」
「ああ、あの娘は庭の木の実を摘みに行った。」
「ふふ、呑気だなあ。」
「この阿呆!お前の為だぞ。あの娘がどれだけお前を心配していたか分かるか。恐らく奴は昨夜、眠らずにお前を看ていた。恐らくというのは、俺でさえ仮眠を取ったからだ。俺が起きている間、奴はずっとお前の傍にいた。…今は俺にお前を任せ、お前の為に木の実を摘みに行ったんだ。」
「…咲が。」
花瓶の乗ったサイドテーブルが視界に入る。そこには乙丸の供述が真実と物語るように、木の実が散らばっていた。瞼を閉じれば、咲の心配する顔が浮かぶ。途端胸が締め付けられ、目尻からは涙が零れた。
「…まあ、目覚めたのならお前ももう一人で大丈夫だろう。報告書は此方で提出した。しっかりと回復してから退院しろよ。じゃあな。」
「…待ってください。」
ギシ、とパイプ椅子が軋む音に目を開ける。立ち去ろうとする乙丸を、トキワは呼び止めた。
「貴方の、殻護。…それは、乙丸さんの罪の証ではない。罰ではない。それは…愛の証だ。」
「ふっ、突然どうした?俺はあの娘に頼まれてお前を看ていただけだぞ。」
「貴方は、乙丸大和さんですね?」
「……お前、何を見た。」
「その殻護で、乙丸さんは僕を包んで守ってくれました。その時、聞こえたんです。愛おしそうに大和という名を呼ぶ声を。…それは、貴方のお母さまの声だ。
…僕、思うんです。最後に遺恨煙を枯らしたのは、創くんなんじゃあないかって。もし、まだ彼の想いがあの華の内で生きていたなら、貴方の殻護の中で、お母さまの想いも生きていらっしゃるのかもしれません。」
「………下らん。明確な根拠を提示出来なければ、全てが憶測と空論になる。……しかしお前たちは、そういう考え方を大切にしろよ。」
乙丸は軍帽を深く被り、顔に影を作る。そのまま踵を返すと、荷物を抱え病室を出て行った。トキワはそれを微笑んで見送ると、丁度入れ替わりに咲が入って来る。声を掛けようにも間に合わず、突進してきた咲をなんとか受け止めては優しく背中を撫でた。
「うわっ、一応病人なんだ。優しくしてくれないか?」
「ばか!おはよう!」
「……うん、おはよう。…ありがとう、咲。」
病室に木の実が散らばる。誰か来る前に拾わなくては、と考えるのも億劫なくらい怠い身体を何とか起こし、窓の外へ目をやった。
空は何もかも忘れてしまったように真っ白だ。しかし、この事件の記憶は生徒たちの心にも、トキワたちの心にも長く根を張り続ける事だろう。
煙る鳥兜 完