表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/17

腹宿る桃 下

少年に教えてもらった二つ隣の家は、蔦を纏って緑の闇の中に佇んでおり、確かに異様な雰囲気であった。苔むした塀が、その空間をこの集落から遮断しているようにも見える。塀の先へと足を踏み入れれば、強い誘甘香の匂いが鼻から脳への侵入を試みる。そう錯覚してしまいそうなほど、もう頭はその甘美な香りに支配されそうだった。

「トキワ、しっかりして。」

「すまない。…ああ、脳が蕩けそうだ。」

早々に済ませようと、インターホンを押す。暫くして玄関の引き戸から顔を出したのは、不名誉ながら魔女と呼ばれるに相応しい、醜く爛れた顔を持つ女性だった。その顔にすっかり怯んだトキワの脳も冴えわたり、彼もまたぴんと背筋を伸ばす。

「と、突然、すみません。僕は、その…」

微動だにせず、ただ黒い瞳をこちらに向けるだけの顔が恐ろしく、言葉に詰まった。甘い香りが逃すまいとこの空間一体を囲う。沈黙が続くその時、咲が女性の足に抱き着いた。トキワは真っ青になり、彼女を引き剥がそうとする。

「こ、こらっ、咲!すみません、すみません。」

「可愛い子ね。」

しかし、女性が奏でた声は、鈴のように美しいものだった。咲の萌黄色の髪を撫でる白い手も、その顔の持ち主とは思えないほど美しい。

「…お上がりなさい。」

そう言って咲と手を繋ぎ、家の奥へ消えていく魔女を追うように、トキワも急いで靴を脱いで後を追った。

庭のよく見える居間まで案内される。障子は開けっ放しで、庭越しに柔らかく甘い風が吹き込んだ。庭はしっかりと手入れされているようで、美しい草花が規則正しく並んでいる。その端、一際目立って生い茂っているのが、誘甘香の木だった。

「あの木は、どうされたのですか。貴女が育てられたのですか。」

「そうね。友が私に遺してくれたのよ。だから、育てた。」

魔女が座卓越しにトキワの向かいに腰掛けると、咲はその膝に乗る。

「かつての私は、とても美しかった。…いいえ、違ったわ。もう彼女は、死んでしまったもの。」

その次いで出た鈴の音のような声が、木漏れ日に光る箱庭を彩って揺らいだ。

「昔話をさせてちょうだい。あの木に興味がおありなんでしょう。

…都会のとあるお屋敷に、その家主と、彼に飼われる美しい鳥籠の娘、それから二人のお世話が出来るだけの数の女中が暮らしていたの。

家主は美しい娘が好きだった。だから、お屋敷に閉じ込めたの。でも、娘も家主が大好きだった。娘は、この美貌を家主が愛しているのだと知っていたわ。自分の美しさを、自分でもよく分かっていたのね。だから毎日家主の為に、その美しい姿を保つ努力をした。愛情は慎ましく。男の人って愛するのが好きなのよ。

そんな幸せは、一人の女中の手によって砕け散った。その女中も、家主を愛していたの。自分のものにしたかったのね。…だから、娘の顔に、熱した油をかけた。」

よく見れば、歪んだ顔はその日の火傷を残している。過去に馳せ傷が疼いたのか、その顔が一層歪んで、痛々しかった。

「家主は、女中に重い重い罰を与えた。可哀想ね、愛するがゆえにやった事で、愛する人に永遠に嫌われて、永遠に会えなくなってしまった。そんな事、誰にだって分かる事なのに。恋は時に、人を狂わせるものね。…そして、家主は醜くも辛うじて生き延びた娘を見て、泣いた。

 ああ、なんて醜いんだ。俺のカナリアは死んでしまった。

彼には娘の顔を元通りにするだけの経済力があったわ。でも、作り物の顔など良しとしなかった。…私は一生働かずに暮らしていけるだけの、それこそ整形して人生をやり直せる程のお金を渡された。

出て行ってくれ。俺には彼女しか愛せないんだ。

…娘には、もうそれだけで痛いほどの愛情が伝わったの。だから、彼女は生き返ることを止めた。醜い顔で生きていこうと決めた。愛しい人のため。最初から最後まで、美しい鳥籠の娘が家主さまのものであるよう。」

「……分かりませんね。貴女は、その一生分の金を愛情と仰る。」

「あら。それは、見える形としてよ。

まあ、私はこうしてこんな辺境の地までやってきた訳だけれど、やっぱりこんな醜い顔を快く迎え入れてくれるような人はいなかったのよね。子供は怯え、大人は避ける。いつしかこの家も、魔女の住む家だなんて呼ばれるようになってしまった。…そんな時。あの子だけは私を受け入れてくれた。」

「あの子、とは?」

「野良猫よ。キジトラの、可愛い野良猫ちゃん。いつからか私の庭に遊びに来るようになってね、ご飯をあげるようになったのよ。…今の私になって、初めての友達だった。可哀想だって、思うかしら?」

「いいえ。だってトキワなんか、ともだちいないもの。」

咲の返答に、魔女はクスクスと笑う。その上品な所作は、生前の娘を思わせた。トキワはと言えば、バツが悪そうに口を結んで、話の続きを待っている。

「あの子は、毎日遊びに来てくれた。ご飯の為だったのかもね。…それでもいいの。頼りにされるって、素敵なこと。私、このままあの子と生涯をともにしても良いと思ったの。

…それからあの子が死んだのは、間もなくだった。玄関の前で…。私を忌み嫌う誰かの仕業かとも疑ったわ。…酷い亡骸だった。何かが、体の中で破裂したような…、本当に、惨かった…。」

目尻から零れた雫が、焼け爛れた頬をゆっくりと伝っていった。

「それから、あの子を庭に埋めて、お墓を作ってあげたのよ。そうしたら、そこから桃の木が生ったの。それも、物凄い早さで…。あの子からの、贈り物だと思ったわ。庭には甘く優しい香りが立ち込めて…、心なしか静かだった家の周りも、子供たちの声で以前より賑わっていたの。…もしかしたらあの子は、私を外の世界と繋げようとしてくれていたのかしらって…そう、思ったのよ。」

優しい口調で語る彼女に、トキワは真実を伝えようとする口を噤む。その猫は何らかの形で怪華の種子を口にし、彼女の家の前でそれを発芽させてしまったのだろう。トキワが口籠っていれば、とうとう咲が口を開いた。

「…でも、そのミは、ヒトをもころしえた。」

「え…?」

「カイゲに、ちかづきすぎては、だめよ。サキたちはただ、いきて、じぶんのシソンをのこしたい。それだけ、なんだから。」

「どういうこと…?この木は、何か悪いことをしてしまったの?」

「…花でさえ、ただ咲いているわけではない。時に毒を生み出し、また時に武器を纏い、触れる事さえ許さない花もある。この桃の木は、誘甘香という怪華です。怪華とは、心に触れる妖者。この実は、核から甘美な香りを放ち生き物の心を魅了する。そして自らの種子を食らわせ、その生き物の胃袋の中で根を張る。あとは流れ込んでくる栄養を搾取し、ある程度成長したらその体から…飛び出すのです。」

彼女は絶望した様子で口を手のひらで覆う。

「ご安心ください。この実を誤って口にした者はおりましたが、皆無事でしょう。それに、貴女ばかり気に病むこともない。人の庭にあるものを勝手に取るのは、悪いことです。」

「…でも、この木は人を怯えさせたのでしょう。この地区の人にとって、悪いことをしたの。ねえ、この木は処分されてしまうのかしら。…この木は、私の友そのものだった。たとえ友さえ殺した実としても、私にとっては私に歩み寄ってくれたあの子が、唯一遺していってくれた宝物なの。本当に、寄り添うことは出来ないのかしら。」

「…それでは、こうしましょう。」




「先生、ありがとうございました。当人たちは空腹を嘆いているようですけれど、見て分かる程にお腹も小さくなっております。お金もみんなで集めればすぐに工面できますので、明日にでも。」

「いえ、いえ。結構。期日までにお支払いくだされば。…それより。」

あれから日も暮れた為に魔女の家に一泊し、朝の白い光が空半球をゆっくりと昇り始める頃、トキワと咲は依頼者の家へ訪れていた。依頼者も回復の兆しを見せる息子の姿にとても喜んでいる。

「息子さんにも、そのお友達にも、きちんと魔女さんに謝りに行くよう言ってください。彼らは彼女の庭に勝手に忍び込み、生っていた実を勝手に食べたのですから。最も、彼女は皆さんの安否を気にされているようですが。」

「魔女…?」

「こら!バラすなって言ったろ!」

「祐司!」

「おやおや。動くと腹が減りますよ。まあ此方へお座りなさい。」

平然と秘密をバラされ憤慨し、居間まで出てきた依頼者の息子に驚くことなく、トキワは茶を啜った。心配する依頼者を宥めると、彼も居間へと招き入れる。秘密を知られた彼は、母親にいつ何を言われるかとそわそわしていたが、やがてトキワへ向け口を開いた。

「…魔女に、会いに行ったのか?」

「ええ。確かに彼女は魔女でした。」

「やっぱり…!」

「これをご覧なさい。」

トキワは、薄桃色の液体の入った瓶を取り出して見せる。瓶の蓋を開けると、ふわりと甘美な匂いが空間に広がった。

「この匂いは!」

「そうです。貴方の口にした実を、優しい魔女が魔法で甘くて美味しい、安全なジャムに変えてくれたのですよ。このジャムなら、いくら食べたって大丈夫です。」

「そうよ。おいしいわ。」

「咲、此方は佐久間様のお宅の分だ。」

そのジャムは昨夜、彼女が種子をしっかりと取り除き、果実の部分だけを砂糖と煮詰めたものだ。依頼者も、その息子もこの日常を脅かした実のジャムを見て、唖然と固まっている。咲は一口味見したジャムの蓋を慌てて閉め、依頼者に差し出した。そしてトキワが立ち上がるのを見て、急いで立ち上がり足にしがみ付く。

「このジャムは本当に大丈夫ですよ。僕が保証します。正し、彼女の庭に許可なしに入らない事。そして、あの木に生っている実はもう取らない事。そもそもあの方のものなんですから。それでは、これで失礼いたします。」

未だ驚きを隠せないものの、お見送りをと立ち上がる依頼者に結構、と首を振り、トキワと咲は依頼者の家を後にした。

「そういえば、どうして魔女は誘甘香の匂いに魅惑されなかったんだろうな。」

「あのカイゲ、うつくしいものは、ミワクできないのよ。」

「成程。勉強不足だったな。」

「あのままにしておいて、だいじょうぶ?」

「ジャムの事か?」

「ちがう。…ユウカンコウのキ。あのヒトにまかせて、だいじょうぶなの?」

「大丈夫さ。」

「あまいのね。」

「大丈夫だよ。彼女には、ご主人が娘を愛するがゆえの結末を、愛と受け入れる事が出来たんだ。」

「わからないわ。」

「僕にもさっぱり。」

「…ふう。やっぱりトキワには、サキがいなくちゃ、だめね。おんぶなさい、トキワ。」

二つの影が一つになって、木漏れ日と共に甘いそよ風に揺れる。それはトキワたちへの惜別か、都会への永別か。ほのかに切なく、鼻を掠めた。




腹宿る桃 完

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ