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父は言う。
力を揮うことを許されない者は、自分に与えられた唯一の武器を――その爪を、拳を――常日頃磨きながら、その時を待ち続けている。力は、そういう者にこそ与えるべきで、自分に与えられた力の意味を考えてみることすらしない人間からは、力は奪うべきだと。
自警団の活動中、僕は繰り返しそのことを考えた。爆弾を仕掛けた犯人は、どちらなのだろう。柚木の儀式は、どちらなのだろう。僕は力を持っているのか。僕は爪を磨くべきなのか。
途上国の支援を始めてから、父は黙り込むことが増えた。そして、時折口を開くと、教訓めいたことを語り、グラスのビールをあおる。母はそんな父の様子に怯えるようになった。晩酌の用意だけして風呂に入り、一時間も二時間も出てこないことが増えた。
だから、自警団の活動で夜に家にいない理由ができるのは、少しだけ嬉しかったし、母には申し訳なかった。父は僕のやることに決して口出ししなかった。父が口出ししないことに対して、母は決して目を向けなかった。
何事もなく一週間が過ぎ、自警団に参加するメンバーも次第に減っていった。水田さんと一緒に見回りする機会は結局一度も訪れず、律野が同情を込めてジュースをおごってくれるのに、反論する気力も湧かなかった。
日曜日の夕方、父は再び出張に出ていった。一人分の夕飯を作り終えた母は、仕事に出かけていった。それが本当に仕事なのか、僕には分からないし、そうじゃなかったとしても仕方がないと思えた。
父の部屋で一人、僕は棚のウィスキーを飲む。コップの底に二センチほど入れて、少しずつ喉に流し込むと、溶けた鉄を飲み込んでいるような気分になる。僕が一振りの剣になればいい。僕自身が力を持てば。
気が付くと、あの人形が僕の手の中でこちらを見ていた。長い爪の隙間から、皮肉っぽく笑いかけているようにも見える。その爪の先端に人差し指の腹を当て、肌の弾性を確かめるように力を加える。圧力をかけられて赤みが逃げるが、どこまで行っても痛みが感じられない。いったん離して、ウィスキーをもう一度流し込む。指先が、へこんだ部分を中心に鼓動している。僕はもう一度人差し指に爪を立て、さっきよりも容赦なく突き刺した。皮膚は抵抗することなく受け入れ、鮮やかな赤い花が痺れと一緒に広がった。
僕は、ウィスキーに血を垂らし、一息にあおると、人形を学校の鞄に入れた。
月曜の放課後は委員会の時間だ。僕と律野は体育祭委員会に所属していて、一時間ほどの話し合いの後、教室に戻って、今夜の自警団の活動について話していた。机の中に入れっぱなしだった教科書を鞄にしまっていると、その様子を見ていた律野が突然うめき声をあげた。鞄の中には、人形の手と爪だけが教科書の隅から覗いていて、まるで本物の手が入っているように見える。実は、僕はこの瞬間まで、自分が人形を学校に持ってきてしまっていることに、まるで気づいていなかった。
「なんだよ、それ。気味悪いな」
「いや、父さんがもらってきたお土産」
「高村の親父さんって、エンジニアだっけ」
「うん。今は途上国の技術支援をやってる」
「そのお土産ってことか。見てもいい?」
学校で見る人形は、父の部屋で見た姿とは似ても似つかなかった。手に宿っていた職人のような力強さは失われ、老人のごとく骨と皮だけになり、鋭く研ぎ澄まされていた爪は、魔女のように毒々しくねじ曲がっていた。神秘的だった木の香りもまた、腐肉のような臭気を絡みつかせている。赤がまぶしい衣装も、ふわりと盛り上がっていた頭髪も、十年遊んだぬいぐるみのように薄汚れいてる。
「なんだよ、律野、それ。呪いの人形か」
委員会を終えて教室に戻ってきた人たちが、挨拶代わりのように人形をバカにしていく。そのたび、僕は律野から人形を取り上げようとするが、何が気になるのか、律野は人形を返してくれない。
「それ、〈爪研ぎ〉じゃない?」
聞きなれない声に振り返ると、柚木凜太がそこにいた。口元に力が入っていて、意を決して話しかけたのがよくわかる。
「これじゃ、爪は研げないよ」
「違う。〈爪研ぎ〉っていうのは、神様の名前。アフリカのどこかの民族の。もとはなんていう名前か忘れたけど」
早口だが、言葉を丁寧に伝えようとしてくれている。あの時、手を差し伸べてよかった。僕の中のわだかまりは、もう溶け始めていた。
「なるほどね、神様か。服とか爪とかに模様が描かれているのは、何か宗教的な意味があるんだな」
律野が感心したようにうなずく。わだかまりは柚木のことだけじゃなかった。人形の評価が覆るのを聞いていて、全身の力が抜けるのを感じる。知らず知らずのうちに緊張していたらしい。
「見せてもらってもいい?」
「もちろん」
律野から受け取った人形を柚木に渡す。全身を子細に眺めながら講釈する柚木を見ながら、あの夜見た儀式は、ネットの表面的な知識だけで行われたのではないのだ、と実感した。父の攻撃対象から柚木が外れたのが、有難かった。
「何だろう、これ。背中にデジタル時計がついてる。実用品? 何かの儀式に使うのかな。時間、合わせてみていい?」
「うん、いいよ」答えた瞬間、父が気づく可能性に思い至った。しかし、この返答を覆すのは嫌だ。「今、四時四十分」
「あれ、柚木君、自警団に参加する気になった」
教室に戻ってきたのは水田さんだった。
「今日の代表委員会は早かったんだね」
クラス委員の所属する代表委員会は、会議時間が長いので有名だった。
「只野先生がこの後出張なんだって。だから、今日はわたしも参加できるよ」
律野が肘でつついてきたので、むこうずねを蹴り飛ばした。律野が声を出さずに、おぼえてろよ、と言ったが、覚えがいいのはお前の方だろと、無言で返した。
「僕も行っていいのかな」
柚木がおずおずと手を差し出した。僕はその手を握り返し、強くうなずいた。上から水田さんが両手をかぶせ、僕の目を見てウィンクした。律野が足を蹴り返してきたが、彼の相手をしている場合ではなかった。