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 父の部屋はいつでも僕の憧れだ。入って右側の壁を埋め尽くす書棚と、そこに並ぶ、重々しい装丁の専門書は、タイトルを見るだけで、父の偉大さを実感することができる。

 でも、僕にとってもっと大切なのは左側の壁に据え付けられた陳列棚に並べられた、奇妙な民芸品の数々だ。

 父は技術者だ。二年前からは、途上国の技術支援のために、月の半分以上は海外を飛び回っている。そして、帰国後には必ず、新しい民芸品が棚に増える。

 土産物ではなかった。それらは、現地の人々から贈られた感謝のしるしだった。

 その国に、その地域に行けば、似たようなものがたくさん土産物として売られている。しかし、それらの商品は、もともと持っていた意味を失った抜け殻に過ぎない。彼らの文化や生活が凝縮されたこれらの品々は、文字通り彼ら自身の生の記録だ。だからこそ、感謝のしるしに贈られる意味がある。金銭では贖えない、聖なる捧げものが、これらの民芸品なのだ。それは、父の活動が、金で買われた技術ではなく、生きることそのものを伝える行為であることの証明でもある。

 というのは父の言葉だ。だから、この棚を見上げるときの僕は、誇らしい気分で体の隅々まで満たされる。

 そして、昨日帰ってきたばかりの父は、昨晩すでに新たなコレクションの陳列を終えていた。それは、この部屋に入った瞬間から分かっていた。

 新しい香り――煙でいぶしたような、それでいて鼻の奥に清冽さを感じるような、心躍る香りが新たに加わっていた。民芸品は必ず、その土地の香気をまとっているものだが、このように強烈で、にもかかわらず穏やかな香りは初めてだ。思わず手が伸びる。父は僕が部屋に入ることを好まない。でも、その香りと、その先にある人形の姿には抗えない。木を組んで作られた体に緻密な刺繍の入った真っ赤な衣服、そして茶色い毛糸で頭髪を表現した造形は決して珍しいものではない。ただ一点、全体のサイズに対して異様なほど大きな手を除いては。

 バランスがおかしいなんていう指摘は無意味だ。それほど、その手の実在感は圧倒的だった。木で組まれた指の一本一本は、その柔らかさを疑いえないほどになめらかで、関節に至っては継ぎ目がどこにあるか分からない。手の平も、手の甲も、その武骨な力強さは、この手にモデルがいたとして、彼の働き手としての力強さがひしひしと伝わってくる生々しさを宿している。ただ木目の存在だけが、その表面の層だけが、それら二つの手が木であるという事実を伝えていた。

 そして、ここまでリアルに造形した上で、指先は、再び民族的な意匠を帯びる。長く伸ばされた爪には、海のように深い藍色の顔料で、一つ一つ異なる文様が施され、親指を除く四指は先端がナイフのように鋭く尖らされている。また、指そのものの方にも、爪の文様につながる装飾が彫り込まれていて、さながら戦いの儀式に向かう戦士の趣だ。

 これは、父の姿そのものなのではないか、とも思う。手指の技術だけで、貧困という敵に立ち向かう戦士。であればこそ、その爪の先の鋭さに、触れるものを傷つけずにはいられない研ぎ澄まされた繊細さに、父のもう一つの姿を見出し、苦しさを覚える。

 僕は父のようになりたい。

 しかし、僕は父のようにはなれない。


 中三になって一週間が経った。学年で三クラスしかないので、半数以上が知った顔だが、教室の隅で三人の男子からいじめられている生徒は、僕の記憶にはなかった。

「高村、知らないの? 柚木のこと」

 去年から同じクラスの律野は噂好きだ。生徒でも教師でも、三年前の先輩のことでも、十年前の伝説でも、彼が知らないことはないんじゃないかと思えるほどだ。とはいえ、この聞き方からすると、どうやら僕が知っていてもいい範囲の話らしい。彼は、みんなが知らない話をする時は、もっと嬉しそうに話す。

「去年、何回か、ツイッターの書き込みのことで注意があったの、覚えてる?」

 そういえば、学活や朝礼で、何度かそういう話があった。授業中の様子や部活動の風景を無断で撮影して、口汚い罵りとセットでツイートしている生徒がいる、というようなことだったか。それが原因で、授業中のケータイの使用が禁止されたんだ。僕はもともと持っていなかったので、あまり気にしなかったが、何人かのクラスメイトは文句を言っていた。

「その犯人が、あの柚木凜太。――三学期の間、病気で入院とか言って休んでたみたいなんだけど、多分、ほとぼりが冷めるのを待ってたんだろ。残念ながら、あれだけのことやっといて、そうそう簡単に禊ぎはすまないよ」

 三人のうち一人が、腹を殴った。誰も気に留めない。

「あそこの中の一人、澤田って覚えてる? 高村は一年の時に同じクラスだったと思うんだけど」

 いつものことながら、律野の情報網と記憶力には驚かされる。

「あいつが、書き込みの発端。もともと、あいつの方が柚木をいじってたらしいんだけど、その仕返しに、サッカー部の練習中にすっころんだところを写真に撮られて、ツイッターに上げられたんだ。で、その後、柚木をいじってたやつらが順番にさらされたってわけ」

「でも、それじゃどっちもどっちだろ」

「昔だったら、手を上げた方の負け、だったんだろうけど。今は、ネットに上げた方の負け、ってことかな」

 撃ちやすいという理由で拳銃をぶっぱなすような奴は、バカ以外の何者でもない。ネットは武器になる。バカに開放すれば無法化するのは当然だ。

 というのは父の言葉だ。

 でも、と僕は立ち止まる。初めて拳銃を与えられた子供は、興味本位で何かを撃ってみたいと思うのではないか。そして、もし撃ってしまえば、自分が手に入れた力に、しばし陶酔するのではないだろうか。だからと言って、その子供を責めることはできない。拳銃の使い方を教えなかった大人が悪い。

「ほら、とっとと座れ」

 担任の坂城が教室を見回しながら入ってくる。しかし、その視線は教室の隅の四人の上を素通りした。

「ま、俺も、止めるぐらいのことはしてもいいんじゃないか、とは思うけどね」

 律野は肩をすくめて席に戻った。最後に澤田ともう一人が柚木の足を踏んで席に戻った。坂城は無表情のまま出席を取り、連絡事項を話す。数学の授業中と全く同じ口調だ。僕も柚木も教室の一番後ろの席だ。左側をそっと伺うと、窓際の柚木は、虚ろな目つきのまま、なぜか口元を嬉しそうに歪めている。

 柚木は確かに悪いのかもしれない。だが、それが彼を攻撃する理由になるとはどうしても思えなかった――などと、同情的になろうとするが、正直なところ柚木の表情は少し怖い。律野の話があったからか、どうしても嗜虐的に見えてしまう。

「ああ、それからな、第三公園と中央公園、あるだろう。あそこ、しばらく近づくな、だってさ」

「なんでですか」

「理由が言えるなら言ってる。そもそも、俺も聞かされてないんだ。誰かググれよ」

「スマホ使っていいんですか」

「ああ、そうか、放課後まで使っちゃいけないことになったんだったな。なんでだっけ」

 クラス中に笑い声が広がり、柚木の名前が小声で飛び交う。坂城はにこりともしない。自分のやっていることの意味が分からないという風ではなく、ハエをつぶしたところで面白くもないといった様子で。

 このクラスは嫌だ。

 でも、それ以上に、どうすることもできない僕自身が嫌だ。


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