後書き2 考察小説を書いてきての雑感
なろうでここまで長々と考察物を書いてきた1人として、今回は批判に関して書いておきたいと思います。
"中世ヨーロッパ風ファンタジー小説"に一体どのような要素があったらおかしいのか、というまとめにもなればと思っています。
本小説では、基本的になろう小説でのテンプレ要素をほとんど認めた上で考察をする、という立場を取ってきました。
なぜなら、そういうものだからです。
歴史は歴史であり、ファンタジーはファンタジーです。史実は史実だし、娯楽は娯楽です。
とはいえ、少しはリアリティがあった方が設定に深みが出るだろうし、それによってより物語に入り込みやすいというのが現状です。
それは魔法に科学的な知識が取り入れられたり、現実世界の要素がファンタジー世界に輸入されている点を見ればあきらかです。
そこで本小説では歴史、地理、社会、文化といった面をファンタジー要素と合わせることによって、リアリティのあるファンタジー要素を作り出し、それによって、既存のものとは違ったファンタジー要素を生み出すことが少しはできたのではないかと思っています。
ただ読み手がリアリティを追い求める姿勢は、成果を生み出す反面多くの弊害を生み出しているのも事実です。
本小説では史実中世を大きく取り上げてきましたので、それによって中世ヨーロッパ風異世界との差異が所々に出てきたのではないでしょうか。
2年前に書いた”はじめに”にも書きましたが、よく「中世ヨーロッパ風」世界に入るツッコみとしては、絶対王政やフルプレートアーマーです。またカタカナ語や四字熟語、ことわざなども、書き手が苦労しているのを目にします。
本編ではそれに加えて、宿屋の存在や攻城戦に適さない城、封建制度を容易に崩しかねない飛行船などを挙げました。職業層もそれぞれ問題を抱えていて、領土間を移動する冒険者、国に所属している騎士団、問題を起こす宗教団体、決まって腐敗している貴族は社会を崩壊させかねないと書いてきました。
ドワーフの職業で書いたファンタジー要素と中世欧州社会の価値観との相違や、稲作が始まると社会にどういった影響が出るのかという点、どんな魔法が社会を壊し法律で禁止される可能性があるのかといった、設定の範疇でどうにかしなければならない問題もありました。
小さな範囲では回復薬は許されるのではないか、魔法使いが実際にいたらどうか、モンスターの存在はどれほど人間の社会や思想に影響を与えるのか、といった面でも考察を行いました。
一方でそれぞれの要素に対する強力な反論として、共通認識としてゲーム的設定の使用は許されるべきなのだ、ということも書いてきました。
ここに挙げた以上にいろいろな事に触れてきましたが、こう書いてみるともはや絶対王政やフルプレートアーマーの存在などはどうでもよい些細なことに見えてくるのではないでしょうか。
ファンタジー要素を中世ドイツにもちこむと、予想以上にいろいろな事が起こるのです。
事ここに至ってそのような些事を論うことに、一体なんの意味があるのでしょうか。
このような考察を書いている間、様々な作品の感想欄を覗いているとやたら○○がこの時代にあるのはおかしい、というようなことを喚き散らして書き手を苦労させている場面に出くわします。個人的にはつっこむところはそこではなかったと思うし、仮に言おうとするならばそれ以上におかしな要素があったりします。
言葉に関して突っ込むのも同じです。
カタカナ語を指して、この時代にこの言葉はなかったはずだからおかしい、ここで読む気なくしたというような事を言っている人もなろうの感想欄に関わらずよくいますが、ではなぜ熟語には突っ込まないのでしょうか。
例えば、数学、という言葉は中世にあったのでしょうか。近代アメリカの時点でも数学は自然哲学と言っていたようです。他にも我々が日常的に使っている熟語の中には和製漢語というものがあり、これはだいたい近世以降に日本で生まれたものです。
これらは日本語の中に潜んでいるわけで、そしてもちろん中世にはなかった言葉です。
なぜ批判論者たちはこれに触れないのでしょうか。いや、触れられないのでしょう。
理由は2つあって、そもそもその知識が無い場合と、あったとしてもそこに触れればただの難癖つけたいだけの人に成り下がってしまうという事をなんとなく感知している場合です。
難癖になるのがわかっているというのは、つまりそもそもこういったことを気にして読むのは不毛であるということの証明に他なりません。もしくは「何か言いたいだけという人が喚き散らす」というのはどこの業界にもあるので、そもそもそういう人は話にもなりません。
もちろん明らかにおかしな、使い古された、思考停止な部分に対しては批判が入ってしかるべきだし、それによって進化してきた要素(例えば回復薬の例など)もたくさんあります。しかしその批判によって、「設定はありきたりだけど面白くなるはずだった物語」が潰されてしまった可能性もあったのです。
このような世界観や単語へのこだわりは、読み手が持つべきではなく書き手が持つべきです。これは小説に関わらず言えることです。
書き手はいくらこだわりをもって書いても良いでしょう。出力する側なので自由です。そのこだわりはその作品の進みを遅くするかもしれませんが、質をどんどん高めることでしょう。
対して、入力される側の読み手がこだわりを持つのはいけません。いや、持つだけなら勝手に持てばいいと思うのですが、そのこだわりを出力すると問題を引き起こします。
本来入力されるばかりであった我々消費者が、ネットというものを手に入れ出力するようになりました。以前は購入しないという点でしか、消費者は意思表示をできませんでした。
消費者がインターネットで意見を言えるという状況は双方にとって利益があることだと思いますが、出力先、つまり生産者及び業界へのウィルスとなる場合も多いという事を自覚しなければなりません。
こだわりを持つ状態というのは「こういう作品はもう読まない」という好みの範疇にある状態です。これはだれしも持っているし、持つべきでしょう。これによって需要がはっきりと生じ、業界が広がっていくのです。
次にこだわりを出力する状態というのは、「(私の思うところによると)この作品は良い、この作品はおかしい」という意見を言う事です。
これは本来であれば、業界の専門的な審査員や採点者の役目です。知識と経験と実績があって、初めて言う事ができる言葉だし、そこに重みが生まれる言葉です。
しかし「大衆の意見」という属性付与効果があるインターネットというツールを介すると、例え我々ど素人の一般人が同じ意見を出力したとしても、同等の効果を場合によっては生み出してしまうことがあるのです。
ど素人の意見と専門家の意見がごちゃごちゃになってしまえば、作り手は混乱し業界は縮小します(審査員の質の高さが問題になってきますが、ここでは置いておきます)。
そういった意味でも注意を払わなければならなかった本小説では、様々なことをオブラートに包んで消極的な立ち位置から発言をしてきました。
思うだとか考えられるといった守りに入る言葉だとか、批判的な発言をしたあとにすぐ擁護するだとか、今この段落だとか、とにかく突っ込みを恐れた立ち回りが目立ったのではないかと思います。
それは押し付けてはいけないと思っている以上仕方のないことで、そして「違った見方もあるのではないか」ということを提言するのが建設的な意見というものではないかと考えているからです。
なろうは様々な人が投稿した小説を様々な人が読む場です。
それぞれ違ったバックボーンを持つ脳みそから生まれた空想や物語がやってきて、違った脳みそがそれを評価していると思うと、なんだか壮大で夢のある状況です。大衆的、社会的な意識と個人的な経験が合わさって幻想は根付いていくのです。それを端から潰していくような態度で対面するのはとても健全とはいえません。
今までも書いてきましたが、本小説で私が書いてきたことは実際執筆の際には無視されるべきだし、また、批判の際にも本小説で書かれているようなことを全面に押し出すのはやめるべきです。批判したいのであれば、自分で物語や作品を書いて流行を起こすのが最も有力な手段なのです。
文学は文明の中でもっとも先に飛躍する文化です。文化は文明の成果であり、我々共通の財産です。
これからも面白い小説が生まれるように、みんなで建設的な方向に頑張っていけたらと思うのです。
ネタ、ご感想、評価、レビューお待ちしております。どうぞよろしくお願いします。ここまでお読みいただきありがとうございました。