社会と魔力 魔力をどう考えるか
魔力をいったいどのように考えるか、というのも設定を構築するにあたって大きな要素になってくるでしょう。
魔力はもちろん現実世界にはない物です。そのため、設定を作っていくとなにかしらの矛盾が生じてしまうかもしれないし、考えていくにも土台が必要になります。
なにか基になるものがあれば、現実社会の発展の中にその扱い方を見つけることができるかもしれないということです。魔力は訓練して増えるものなのかだとか、魔力量が大きいとどのような扱いを周りから受けるか、ということが想定しやすいかもしれません。
そのためにモデルをどこからか持ってくるのもいい手でしょう。
我々の生活のなかで、欠かせないエネルギーといえば電力です。
電力がなくなれば、我々の行動の多くを制限されてしまうわけで、ファンタジー世界の魔力と非常にその役割は似ていると思われます。
電力を社会の中で使用するには、その他もろもろの条件が必要になってきます。物理学、燃料、インフラ整備など、大量にある前提技術や意識の上に成り立っているというのは言うまでもないでしょう。
段階を非常に簡略化してしまえば、化石燃料を電力に変換し、個人のもとに輸送、そのエネルギーをさらに道具によって目的に合った形へと変換する、という流れです。
燃料を魔力に変換する、魔力を輸送する、魔力を目的に変換する、という3段階をクリアできれば、魔力を人間社会で使用できるという事になります。
ただそのような状態で、遠くの人と会話ができる、映像が見える、物が冷やせる、などの魔法を出したところで、現実の家電と大差がなくなってしまいます。
ファンタジー世界の魔法は現実世界と明らかな差がなければならないので、社会規模の基盤が整った状態で活用される技術にしてしまうわけにはいきません。
魔法の特徴といえば、何もないところから、手品のように物を出すことでしょう。
しかし今のファンタジーの魔法は、代償としてなにかを消費しなければならない、という決まりがあるように思います。魔法使いがちょちょいと杖を振って何かをする、という出来事の裏側を描写されることになってから、随分と長い時間が経ちました。
その代償は寿命や時間、記憶などだったこともありますが、やはり代表的なものは魔力です。
電力との差は、自分で生み出せるか否か、というところでしょう。魔力という自分に備わっている物を消費して、なにかを出現させるのが魔法という技術なのです。
ファンタジー世界の設定を作る上で重要なのは、万人が使えるが、場合によっては特別な力になりえる、というところでしょう。
私たちの身体に、なにかそのようなものはないでしょうか。
例えば声などはどうでしょう。
我々は特殊な場合でない限り、声を発することができます。日常生活にも、意思伝達ツールとして頻繁に活用しているものだし、それは社会の始まりから変わることがありません。
一つ一つファンタジー世界の魔法という事例に変換してみましょう。
まず、すべての人が、声(魔力)を操るという技術によって恩恵を受けています。そして声質(魔力の性質)には、生まれつきの個人差があります。人によって、声量(魔力量)が多かったり少なかったりします。
滑舌(魔力操作)も拙い場合がありますが、訓練すれば、ある程度は改善できます。ほとんどの人にとって、声(魔力)はただ使えればいいというものです。しかし、ある特定の職業に就く人は、さらに特殊な訓練をつまなければなりません。
例えば、歌手(魔法使い)になりたい人は専門的なトレーニングをしなければなりません。しかも、オペラ歌手になりたいのか、ポップスなどで活躍したいのか、ということでも発声法は異なってきます。また、演説家や俳優なども声は重要です。
彼等は総じて声(魔力)によって、人に何か特別な感情(魔法)を呼び起こさなければなりません。さまざまな工夫や才能が求められることでしょう。
このように、声に当てはめてみると、いろいろ判明する気がします。
専門職に付いた人々も、日常的にはそこまで一般人と変わらないところ、などは設定を作る上では重要です。どれくらい訓練するか、どのような日常をおくるか、いかなる教育形態が存在するのか、ということもある程度は考えやすくなるでしょう。
以前感想で、魔法を社会がどう制御するのか、という問題をいただいたことがあります。少し違うかもしれませんが、声に当てはめてみましょう。
例えば、日本では人が大勢いるところでは、特殊な事例を除き大声を出すことが禁じられています。電車で騒ぐことはいけない、というやつです。電話をする人もあまりいません。
これはどういうことでしょうか。恐らく、法律や条令で禁止されているから、というわけではありません。我々がいる社会がそういうふうにできているのです。試しに外国に行ってみると、躊躇なく電話しているし、周りの人が嫌な目でみる、ということはしません。
大勢の人がいるところで大声で話されると、日本人にとっては都合が悪いので(うるさいのを不愉快におもうのかもしれませんし、統制や調和がとれていないというように受け取って無意識に忌避するのかもしれません)、社会的に禁止にしようという意識が表れるわけです。
民族特有の道徳観念ともいえるでしょう。
声だと危険性がないので、刃物の取り扱いとしてみてはどうでしょう。
我々は殺傷能力がある刃物を、日常的に身の回りに置いています。包丁やハサミ、カッターナイフなどは手に入るわけで、力を行使しようと思えば簡単にできるでしょう。
ではなぜ殺伐とした世の中にならないのか、といえばやはりそういうふうに社会が出来ているからになりません。声と違って、人に危害を加えてはならない、と法によって定められています。よって声とは違って根底にある意識は、ダメだからダメ、そんなことをしても警察に捕まって、というものかもしれません。
しかし中世にだって法はあります。もともと人は殺人を忌避する感情を持っているとも言います。ファンタジー世界でも十分に機能し、社会はそのように形作られていくことでしょう。
とはいえ、きこりや鍛冶職人が中世では嫌な目で見られていたというように、大きすぎる力を持ったり、その道の専門家は、何かしらの差別を社会から受ける可能性はあります。
魔法使いがポジティブなイメージをもって社会に受け入れられていればいいのですが、鉄という中世にとっては必需品、文明の最先端を扱う職人がそのような扱いを受けることもあります。魔法使いが必要悪かのような扱いを受ける可能性はゼロではないのです。
このように、魔力や魔法を何か現実のもので置き換えることで、社会の中でどう扱われるか、どのように発展していくか、魔法使いとはどのような人種なのか、ということを考えることができるでしょう。