麦と米と社会
(追記)47話から移動しました。
欧米人の主食と言えば麦というイメージがあります。
オートミールや丸パン、黒パンなどは、あまり日本人の好みに合わないといわれているため、転生物の主人公は食についてストレスをためることが多いでしょう。
実際それらはあまり美味しいとは思い難いものですが、ホテルなどの朝食に行くと、ドイツ人は普通に黒パンを食べてますし、丸パンでバーガーのようなものを作って食べています。
これに限ったことではありませんが、食べ物は慣れてしまえば問題ないということでしょう。幼少期から中世的な世界観で育った転生者が、果たしてどれくらいもとの世界の味を求めるかは分からない問題です。
さて、日本人の転生者であれば、割と高確率で魚、米、醤油に飛びつきます。
これはだれもが共感できることであり、そこに疑問は起こりません。米を求めて、苦労の末にそれを口にした時の主人公の喜びは、予想できることとはいえ陳腐なものには感じません。
しかし、米の栽培には何千年にもわたる先人の苦労があったことは明白であり、そんなに簡単にできるものなのか、という問題はよく指摘されるようになりました。農業に関する専門知識を持っている方からすれば、そこで読むのを止めてしまう可能性もあるのでしょう。
とはいえすでに稲作の実践的な問題や技術史については指摘されていることと思いますので、本小説的には別のことに注目したいと思います。
米の栽培に成功した暁にはなにがおこるか、という事です。
農耕の発見は定住の必須技術であり、社会の成り立ちの根幹にかかわる技術なです。
度々言われているように、面積当たりの収穫量は米の方が格段に多いようです。
食の好みだなんだといっている場合ではない中世という環境では、すぐに稲作にシフトチェンジすることでしょう。
ではなぜヨーロッパでは米が作られてこなかったかといえば、気候や地形に問題があったことが挙げられます。
アジアはわりと高温多湿であり、稲作に適した地域でした。
住む土地から麦からスタートした民族と、米からスタートした民族という差ができました。
その結果、ヨーロッパ社会とアジア社会の性質の差、人々の気質の差が生まれるのです。
以前、1000年頃の中国はヨーロッパに対して非常に先進的だったと書きました。また、アジア諸文明は王朝を欧州文明に比べて長く継続させられるというのは、なんとなく感じられる部分です。
中央集権というワードは政治にとって重要ですので、これをどれほど成し遂げられていたのかという事は社会の成熟度を示すものでしょう。
この差は何によって生まれたのか、といえば畑と田んぼの違いに一つ理由があるでしょう。
よく言われることして、田んぼは村単位で共同作業するために社会的意識を生みだし、畑は家単位でやっていけるため独立的な意識になるという事です。
国全体のことを考えるという社会性の部分については、稲作を行う人々の方がよほど優秀でしょう。
軍事的に見ても、例えば"一定の収穫量を守る"とした時、稲作を選択している民族は少数の軍隊で済むことになります。
これは地方に軍隊を分散させなくて済むという事であり、中央集権の助けになることでしょう。もし地方に軍隊を分散させてしまえば、それの指揮を執る人が従わなくなる可能性もあり、中央の守りが薄くなってしまうのです。
しかし、これは社会の膠着させるという事でもあります。
欧州がなぜ先に工業化や先進的な火砲を手に入れられたかといえば、慢性的な争いが絶えなかったから、という理由を本小説は挙げました。
耕作地をどんどん拡充しなければ増え続ける人口を養うことができない、という理由を持つ彼らは、外に進出しようという気質をもともと持ち合わせていたのだと思います。そしてその気質があれば争いが常におこり、技術の進歩に拍車がかかる、という仕組みがあるのではないかと思います。
もしファンタジー世界の人々が、気候や地形といった割とどうしようもない諸問題を解決し、稲作をスタートさせたとしたら、どのような変化が起こるでしょうか。
まず、地形を田んぼに適した形に変えることができる技術者集団を保有している家が、急激にその力を伸ばすでしょう。
騎士は田んぼがある限定的な土地のみを守れば良いので、より精強になるかもしれません。
襲撃の頻度は変わらないかもしれません。というのも、周辺の勢力が田んぼそのものやその技術を手に入れようと、以前より頻度を上げて攻めてくるからです。
今まで大規模農地を持っていて、国全体の食糧庫という役割を担っていた領主は急激に力を失う可能性があります。色々な事情から、土地は簡単に手放せるものではないかもしれませんが、もしそれが可能であれば先進的な農耕知識と稲作を掛け合わせて挽回を試みるかもしれません。
食糧生産能力が格段に向上したその国家は、人口が一気に増えることになります。栄養状態が改善され、人々の健康状態も体格も良くなるでしょう。
この増えた人口をどうするのか、という問題は多くの国家が直面するものです。
例えばフランスは軍の増強にあて、イギリスは生産活動にあてました。未来が見えていない状況だとどこに人員を当てるのが最善か、どこまで増えるのかということが全く分からないようです。
ファンタジー世界の統治者も人口問題に頭を悩ますことになるでしょう。もしかしたら、魔族に一気に攻勢に出るかもしれませんし、新たな鉱山開発や余り出した農地を別の生産施設に変えるという先進的な技術が生まれる可能性もあります。
余剰生産が生まれれば、子供が教育を受けられる期間が延びます。この余裕は社会全体の学習能力に差を生み、より高度な思考ができる可能性があるということです。
また先述した通り、気質にも変化が生まれる可能性があります。
民主主義、といえば聞こえはいいですが、ともすれば個人主義、はたまた自分勝手、という言葉になりかねないこの気質は、統治にとっては厄介なものです。
社会全体の利益を考えるということは、法律や官僚制が上手く機能する前提でもあります。哲学の方向性も変わってくるでしょう。外に向かう意志が減れば、発展は緩やかになるかもしれません。
ファンタジー世界にて稲作技術が開発されて成功すれば、大規模領地が分裂する可能性があります。小規模領地がかつての大規模領地を制する可能性もあるわけで、まさに下剋上のような状況が発生するでしょう。日本の戦国時代のような有様に突入し、半世紀ほどごちゃごちゃした後、強力な王朝ができることになりそうです。
モンスターの章でも書いた通り、その集団が何を食糧としているか、ということは重要な問題です。
転生者が米や和食が食べたいと思うのは非常に共感できるのですが、その行為がどれほどの変化や混乱を生む可能性があるか、ということに焦点を当てた話も面白いかもしれません。