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幻想歴史読本 ~ファンタジーを考える~  作者: 走るツクネ
おまけ 主に歴史に関わる話
31/84

番外編4 芸術家という金魚 ビザンティン等に見る宗教と芸術

主に音楽と美術について書いていますが、この芸術家、というのはあらゆる創作活動を行う人々に適応されます。


 今回で宗教に関することを書くのは4ページ目(注:順番を入れ替える前の話です)であり異様な頻度で登場しておりますが、これは創作物やログに見られる、日本人の宗教に対する固定概念があまりにもいびつであると、筆者が感じているためです。


 これまで本小説をお読みいただいた方は、本小説(筆者)の宗教に対する考えというものを理解していただいているかと思います。

 違う考え方もできるのではないか?というスタンスをとっていきたい本小説としては、恰好の的なのであります。


 歴史には答え(結果)は一つしかありませんが、考え方や見方は様々にあるのが面白いところの一つです。


 是非一方の立場を取るなどという勿体ないことをせず、多角的に様々なことを考えていただきたいのです。



 さて、芸術と宗教とテーマにありますように、今回は芸術や芸術家にとって宗教がどのようなものであるのか、社会の中でどのように創作活動をするのかということを書いていきたいと思います。


 よく見かける意見としましては、宗教が芸術の可能性を狭めているのではないか、創作という分野において宗教は枷になっているのではないか、というものがあります。


 宗教の管理下にある芸術のいびつさを取り上げ、信仰者や宗教の視野の狭さや過ちを指摘する、という論調があるように思えます。このような意見が極少数派であったとしたら申し訳ないのですが、そういう意思が見え隠れする描写はよく見られる気がします。


 宗教とは基本的な価値観や道徳観を説くものであり、人間の人格形成に重大な影響を及ぼします。一日のスケジュールから始まって、食べ物や寝る場所、時には歩く位置まで指定してくるのです。


 当然芸術活動の方向性も定められることになります。

 芸術における宗教を批判する人々は、おそらくこれを指して滑稽だと言っているのでしょう。



 しかしそのような考えは、現代(日本)人独特の思考であり、芸術の特性や芸術家の事情を度外視している意見ではないでしょうか。



--芸術の発展と社会様式--


 芸術が発展するには何が必要か、という点を考えていきたいと思います。


 歴史上、芸術が大きく発達した時代地域は、いくつかあります。

 例を挙げるなら、古代ギリシア、ビザンツ、フィレンツェ、ハプスブルク等がそうでしょう。


 挙げていけばキリがありませんが、どれも芸術史的には重要な国家であり、一般的な歴史でも"芸術を大きく育てた"という一種の称号的なものを与えられて語られます。

 彼らは独自の文化を育て上げ、現在では広い人々に一定の評価を得ています。


 これらの文明に共通するのは、潤沢な資金を持つ指導者や権力者が芸術家を支援して芸術を発展させる、という流れでしょう。


 この中で宗教はどう作用したのでしょうか。


 結論を見る前に芸術家の創作活動とその成果について、例を一つだして見てみたいと思います。




--芸術家という金魚--


 芸術の発展度、完成度は、"水位"であるといえます。水の量や質ではありません。

 どういうことかというと、大きな「たらい」が必ずしも芸術家にとって良いというわけではないという事です。


 芸術家は用意されたフィールド、つまり容器の中で創作活動をします。


 桶の中で泳ぐ金魚をイメージしてください。


 確かに桶の面積が大きければ金魚は自由に泳ぎ回ることができるでしょう。様々な創作活動ができる社会が用意されているといえます。

 しかし高いところまで泳ぎに行けるか、となると話は別です。


 高い位置まで泳いでいくには水が必要です。水の量とはすなわち、時間と資金であります。

 水の量は芸術家自身で増やすことができず、与えられたものです。そして社会の状況がそのまま反映されるでしょう。


 同じ水の量なら底の面積は狭くしてもらった方が、不自由であっても高いところまで泳いでいけるでしょう。竹筒と桶に同じ量の水を入れれば、水位が高くなるのは筒の方です。



--宗教の効果--


 宗教は桶の面積を減らす一つの要素であります。

 要求や価値観が定まれば、芸術家達は鯉のぼりのごとく上を目指して泳ぐことになります。当然その社会が持つ文化は独特なものであり、レベルの高い芸術になるでしょう。


 なにしろ、作れば売れるのです。

 芸術家は自分の作品が一定の評価を得られるという保証を宗教によって得ているのですから、制限の中でも多様な変化が生まれていくのです。


 宗教の価値観という大前提があるのだからとりあえず外れない、という安心感もあったでしょう。

 芸術家は非常に臆病な生物であります。常に人の評価という無慈悲な判決を喰らうので、その保証は重要であると思われます。



--創作活動における2つの利点--


 ではその芸術の内容についてはどうでしょうか。どのように影響するのでしょうか。

 これには二つの利点があると思います。


 一つはインスピレーションの宝庫である点です。

 宗教は人の空想力に理由づけをし落ち着かせる役割も持っています。


 つまりその民族の空想力の結晶であり、"この世にないもの"が沢山出てきます。

 この世にないものをこの世に顕現させよう、具現化しようというのが芸術の一つの試みなわけで、芸術家にとって宗教という題材は非常に住み心地の良いものだったのではないかと推測されます。

 宗教を題材とした芸術品は、一定の神秘性を保っていたことでしょう。



 もう一つは、ガイドラインがはっきりしている点です。

 どのような芸術にも指針が必要になってきます。○○派や○○リズム、もっと大きく言えば、分野というのがそれにあたります。

 宗教であれば複雑な教義がすでに用意されているのだから、それに沿って理論を作り上げれば良いのです。


 例えばビザンティン音楽や教会旋法におけるシステムや、宗教画におけるキリストの書かれ方、仏像の容姿など。ルールが予め定められていれば、開発されたものが大失敗するという危険が減ります。



 しかしこれには儀式化、形骸化するという大きな弊害があります。

 儀式化すると行為に意味を見出すあまり、美的センスという価値観から大きく逸脱しても進み続けてしまうのです。


 例えばルネサンス音楽のモテットは、譜面に起こしてじっくりと分析すれば美しいのですが、聞いても正直何がいいのかわからないのです。数々の宗教画も異教徒が見たとき、感心こそしても、心底美しいと感じることができないものも沢山あるでしょう。


 これこそ芸術における宗教の弊害ですが、それは現代音楽や現代美術においても起きている現象です。宗教の有無に関係なく、芸術が持つ生活習慣病のようなものでしょう。


 とはいえ、これも芸術の発展に置いては重要なことです。

 美的センスから大きく逸脱した状況を否定する派閥が登場することで、芸術は次の段階に進むことができるのです。もしくは美的センスから逸脱する、というのは見方を変えれば、理論が複雑に構築されすぎたということであり、研究の成果なのであります。

 

 例えるなら筒の中いっぱいに水が入ってしまって、研究の余地がなく息苦しくなってくる状態です。

 そうすると改革が起こります。筒から桶の中に移し替えるがごとく、広いフィールドに創作活動の場は広がるのです。


 美術におけるルネサンスや、クラシック音楽におけるバロック時代以降の各時代区分の変遷や成果もこれによるところが大きいのです。


 言ってしまえばテンプレが溢れていると評される"なろう"やラノベ界も、この段階にあると思われます。


 現代芸術に限界があると言われるのは、現代芸術は美的センスを否定するところから入る側面があるので、このシステムが適用されない可能性があるから、と言えるでしょう。



--芸術における枷--


 枷というのは芸術においては有利に働くというのは多々ある例です。枷は言い換えれば焦点をあわせる、ということであります。

 クラシック音楽には様々な制約が課されていますが、モーリス・ラベルのいくつかの名曲には、更に特殊な枷が設けられています。和楽器は多くの不自由さを抱えていますが、それが独特の音色を生み出しています。あえて不自由にしている部分もあります。

 ラノベのテンプレ、というのも枷であります。低俗な作品が増えたと嘆く人もいるでしょうが、数々の面白い作品が生まれているのも事実であります。


 現代日本の社会は急激なグローバル化についていけていない、という印象を受ける場面が多々あります。


 これは芸術界でも同様なのですが、どういった現象が起きているのでしょうか。


 急に桶のサイズが巨大になって、自由に創作できるようになったのがここ100年ほどであります。


 各界の創作家たちは何とかリズムと題して様々な枷をつけ、必死に桶の底を狭めて上に登ろうと努力しているようであります。

 しかし芸術家にとって現代の価値観は苦しいものがあるでしょう。


 前にもちらりと書きましたが、現代では個人の才覚や発想を如何にお金に変換するのか、という価値観のもとで社会が動いているようです。


 これは言い換えるならば、金魚に向かって水を自分で用意しろというようなものです。水は放っておけば蒸発するし、酸素も減ります。

 己が力によってのみ生き残ることができ、水準は二の次。中世ヨーロッパの様相を呈しています。必死に口をパクパクさせるだけで物も満足に言えぬ芸術家にとって、現代はまさに暗黒時代といえる世の中なのかもしれません。



 桶が広ければ自由に創作活動ができますが、焦点が定まらず研究は遅々としてすすまないことでしょう。


 対して宗教は容器(指針、要求)を用意し、水(お金と時間)を供給し、餌(題材)まで与えるのです。


 これらの点を見れば、どちらの方が芸術家にとって恵まれていたのか、という議論の意見は一方に偏ることはないでしょう。


上手い事例えられた気がします。

もともと番外編的な流れだったおまけの章に、さらに番外編をつくるという暴挙。ファンタジー要素は一切なくなりましたが、創作活動、文化、というくくりでここに載せさせていただきます。もしかしたら短編にもするかもしれません。


これは関係のない話なのですが、活動報告の方に、参考文献等のおすすめ書籍を載せようかな、と思います。

本小説内では書くことができない内容も書くつもりです。是非覗いてみてください。また、そちらでもご意見ご要望を受け付けますのでよろしくお願いいたします。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 宗教の制約は必ずしもマイナスな面ばかりではなく、芸術の発展に大いに貢献していたということですね。 水の容器の広さと深さの話はとても分かりやすかったです。 [一言] 昔は宗教画をとにかく上手…
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