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幻想歴史読本 ~ファンタジーを考える~  作者: 走るツクネ
おまけ 全体に関わる話
25/84

表現者の困難 本小説の目的

 エッセイというカテゴリーにかこつけてまたしても本題からそれた話をし始めます。人による話ですので、どの程度のレベルの問題なのか私自身把握していない事柄ですが、大事な事だとは思います。

 また、本文でも言ってますが、偉そうになってしまってすみません。


追記:第36話から本頁に移動しました。

 ある職業につく人は、作品を通して何かしらの思いを他人に表現しようとします。

 小説家のみならず、音楽家、陶芸家、料理人、建築家等々、生産者でもあり表現者でもあると考えることができる職業は山のようにあります。ある業界では監督やプロデューサー(制作に関する認識があいまいなので間違っていたらすみません)と呼ばれる職業がそれにあたるでしょう。


 そういった人々(以降表現者と呼びます)が発表するために創作した際、作品が出来上がるまでには多くの困難が待ち受けています。創作する上での各分野の専門的な技術面での問題は言わずもがなですが、分野関係なく共通した問題が一つあります。それは作品の指針を定める立場にある人なら、誰でも考える問題です。


 まずどういうものを作るか、という根本的な問題と向き合わなければなりません。

 これは非常に規模が大きく容易に解決できない問題でありながら、絶対に答えを出さなければならない問題です。

 (あくまで私個人の経験ですが)この問題ははっきりと認識していないと、創作の際や評価を得る際に苦しめられることになります。


 この話は本小説の前身となる原稿の前書きに書いていたのですが、いつの間にか消え去っていました。ファンタジーと歴史を反復横とびする上で、表現者が共通して抱えるこの厄介な問題を持ち出すことにどれほどの意味があるのか、どれほどの需要があるのかわからなかったのです。

 また、どう頑張っても上から目線な結論になってしまうので、やめた方がいいかもしれないと思ったのです。ちなみに今でもそう思っています。


 しかしやはり書いておかなければ、本小説を一定の興味を持って読んでくださる皆さんにご迷惑をおかけすることになりかねないと思い、随分と後ろになってしまいましたが書くことにいたします。



【お客さんの種類について】


 ある程度慣れてきた表現者は、今回の作品はどこをターゲットとするか、ということを考え始めます。

 これは表現者が社会的地位が確立されるまで、つまり自分への一定の要求が正確に形となって示される(例えば作品が安定して売れる等して需要が定まる)まで、常に付きまとってくる問題です。むしろ、自分のスタイルを確立するために悩むのかもしれません。これがある程度確立できた時がプロと呼べる時なのかもしれません。


 本題から外れますのでここでは書きませんが、ターゲットとなる対象は自分、消費者、同業者(評論家、会社、組織等の業界人)の三つです。

 簡単にいえば、自分が良いと思えたり自分らしさが出せる作品か、消費者に売れたり喜んでもらえる作品か、もしくは同業者に評価や理解を得やすい作品か、という事です。

 もちろん、すべての要求を満たすところまですり合わせたり、上手くはまる作品がいきなり出来あがればそれが理想ですし、そうなる場合もあります。しかし大抵の場合上手くいきません。時間制限もあるし、三者の性質の違いがそうさせるのです。そうするとどこか一つに照準を合わせることになるのですがこれが大変難しい問題であります。



【どのように作り込むか】


 そしてその問題に対して暫定的なものであれ答え(決心とも言えます)が出れば次の段階に進みます。


 まずターゲットとするお客さんの知識量、読解力、興味がどの程度なのかということを正確に把握しなければなりません。


 例えばゲーム的設定はゲームをよくやる人にとっては常識であり許されたお約束事ですが、あまりゲームをやらない人にとっては知らないことでしょう。

 ゴブリンやスライムならまだしも、オークとオーガとサイクロプスと巨人の違いを何かしらのイメージをもって把握できているかどうか、という問題は個人によって分かれるところです。あまり知らないお客さんを相手にしていると思うならばある程度詳しく描写を入れなければなりません。慣れている人相手なら単語だけで伝わり、場合によっては充実した描写が全て煩わしいものになってしまうかもしれません。


 本小説的にいえば、どのくらい中世という設定にまつわる描写を入れるか、という事がこれにあたります。

 そこまで熱心に読んでくれそうもないのに長々と描写してしまってはせっかくの伏線が埋もれてしまうかもしれません。封建制、という単語にまつわるイメージをお客さんがどれほど持っているのか、ということも分かりません。


 どの描写をし、どの描写をはじくのか。描写不足で全くイメージが伝わらなかったり、逆に嫌味たらしくなってしまうかもしれないと不安になる経験はどなたにもあると思います。

 これはお客さんの持っている知識量がどれくらいなのかというのが、非常に把握しづらいために起こりうる問題です。


 本小説についていえば、私の想定としてはそもそもかなりいい加減なものしか設定はしていませんが、それでも、如何にも面倒くさそうなものを読もうなどという方はある程度読み込もうという気持ち(興味)を持ってくださるのではないか、と期待しています。

 自分の考えを文章にして上手に伝える、という技術や作法を少しも持っていない私としては、そこに甘えるしかなく申し訳なく思っていたりします。



【知識と設定と覚悟】


 これと似たような問題がもう一つあります。

 どのくらいまで詳しくするか、つくり込むかということです。


 この小説的にいえばどの程度史実に基づいた設定を取り込むか、という事であります。

 正直な話本小説で書いてきたことは、私自身、設定づくりから実際の執筆に至るすべての時間、全く無視してかまわないと思っています。


 ではなぜこのような小説を書いたか。もちろん書きたかったから書いたのですが、思うところもあります。

 知識の取り扱いとそれに基づいた世界観についてということになりますが、それについて良い(というか、とても共感できた)例が一つあるので、出させていただきたいと思います。


 大ヒットを飛ばしているという事で話題になっているガルパンというアニメがあります。この作品の特徴、つまり成功した要因というのは山のようにあると思いますが、一つ我々が注目すべき大きな特徴があると思います。


 それはこのアニメは戦車を大きな要素として設定しているのに、戦車の性能をある程度無視しているということです。しかしながらとても面白く様々な人に受け入れられています。これはいったいどういう事でしょうか。


 イギリスの歩兵戦車が他の戦車と同等のスピードで走行したり、ソ連戦車に対して他国の戦車が雪上戦闘でも運用に枷がなかったり、ドイツの中戦車がありえないほどの登板能力をもっていたりします。挙げればきりがないでしょう。

 このアニメが各国の戦車の特徴忠実に再現をして、それを活かした戦いとして描いたとしたらあれほどヒットした作品にはならないはずでしょう。もちろんそういうのも面白いはずですが、それはアニメというフォーマット向けではなく小説向きの作品となるのだと思います。アニメというフォーマットでやれば、性能を無視するという事も、穿った見方をしなければ気になりません。


 戦車のアニメなのに戦車の性能をある程度無視するということは、作り手の大きな決心があったのではないかと思います。実際に出来あがった作品を見れば面白い作品ですが、初期段階でこのような感じでいく、と方針を定めるのは大変なことだったのではないでしょうか。


 格好良く嘘をつくとは別作品(SHIROBAKO)での発言ですが、水島監督の名言だと私は思っています。一方で細かい設定を知ったうえで無視するのと知らないで書くのとでは違うというようなセリフもありました。

 おそらく我々が思うような矛盾点やおかしいと言える点は、すべて制作サイドは把握していることでしょう。そして、そのうえで作ったのだと思います。


 アニメが持つフォーマット(何ができて何ができないのか、得意不得意等の性質)、表現者としての意思、客層とその需要、組織の意思、という全ての項目でその要求を正確に把握し、作品の要素を決定づけるすべての場で要求を満たしているかチェックするという、非常に根気と決断力がいる作業ではないかと思います。


 アニメが持つ迫力や重量感の前ではT-34がどのように優れていたのか、パンターの開発経緯と問題点について、などといった認識はどうでもいいことなのでしょう。



【知識に関する一次的、二次的弊害について】


 知識――もしかしたら私の言いたいことが厳密な言葉の意味から外れているかもしれませんが、ここでは知識という言葉を使わせていただきます――は万人に認められた物であり、決して無視できないものがあります。それと相反するものを作ろうというのであれば、よっぽどの覚悟と信念が必要になります。


 その前段階として、まずは知らなければ覚悟も何もあったものではありません。落とし穴のようなものです。分かってなければ容易にはまってしまうでしょう。

 しかしこれを回避するのは土台無理な話です。毎日新しいことを知るような日常を我々は過ごしています。逆にいえば既に作り終えた作品の中にはその知識は入っていないわけで、つまり相反する要素はどこかに入ってということになります。読み返した時にそれに気が付いて、成長したと実感する(もしくは恥ずかしく思う)ことはよくあることだと思います。


 こういったプロセスを恐れるがゆえに、創作を行う際にはいろいろ調べるわけですが――それもまた成長だと思います――、これも諸刃の剣です。



 このような小説を書いてきてなんですが、実のところ大量の知識は創作における障害にしかならない場合の方が多いのです。

 思考していく中でリアルタイムに絶えず出張ってくるこうした知識をどれだけ制御できるか、というのは表現者の大事な能力の一つだと私は思っています。


 知識は料理における、香草やスパイスのようなものです。

 ほんの少しでいいのです。山椒は小粒でもぴりりと辛いものなのです。香辛料を入れすぎた料理はもはや料理とはいえず味のバランスは崩壊するでしょう。隠し味は隠さなければなりません。

 どれだけ無視するか、取り入れるかというバランス感覚は、小説に関しては私にはまったくないのでそこは実際に書いている方々に頑張っていただくしかありません。

 制御する、というのは大事なことなのです。


 本小説が披露した考えや知識は、ひょっとしたら表現する瞬間に作用する何かしらを崩すものかもしれません。もしそれが自覚無く体内に存在しているとしたら、なかなかに厄介な状態に陥ってしまいます。

 おそらく本小説に書かれていることは、非公開設定資料にこっそりいれるくらいがちょうどいいのだろうと思います。



 そしてなんといっても、所詮知識なんぞは他人の功績です。

 自ら発見したものでまだ世間的に地位を得ていない情報は、知識と呼ぶことができません。作品創作における知識は、他人の意思であり自らの意思ではないのです。

 

 つまり作品は決して知識をひけらかすために生み出されてはいけない、ということになります。他人の褌で相撲をとる、ということになりかねません。


 知識を組み合わせて、そこから自分が何を思ったのか、何を生み出したのか、という事が大切なのだと思います。



【消費者にとっての知識】


 一方で小説を読む上では、いろいろな知識は役に立つことが多いと思います。作品の中にある要素が纏う香りのような物を察知するには、やはり知ってなければなりません。

 表現者がこちらに何かしらを頑張って伝えようとしている以上、消費者もただ享受する立場とはいえ、真摯な姿勢は捨ててはならないでしょう。作品の意図がわからないのであれば、確かに表現者が未熟である場合も多く彼等に責任はあるでしょうが、自分がそれを読み取るだけのものを持っていなかったとすこしでも考える方が、世の中楽しくなることだろうと思います。

 

 せっかく作り込んでみた要素を消費者が全スルーしたら、表現者は落ち込んでしまうことでしょう。そうすると、レベルの高いものが淘汰されていくという、ありがたくない現象がやってきます。



 ネタ提供、発想の転換、矛盾の指摘などなど、色々な結果で様々なことを書いてきた本小説ですが、このような危険や願望を持っているという事を、今更ですが是非ご理解いただければと思います。



いつもお読みくださりありがとうございます。毎度わかりづらくて申し訳ありません。こんなでも推敲の時間は取っているんです。考えたことを良い文章に変換してくれる機能、実装されないかなぁ……。

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[良い点] 私は表現者ではなく単なる消費者の一人に過ぎないが、深く考えさせられた。
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