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幻想歴史読本 ~ファンタジーを考える~  作者: 走るツクネ
おまけ 全体に関わる話
24/84

ゲーム的世界観についての考察 テンプレについて

固まった価値観は多くの問題を引き起こします。小説執筆に置いてはどのような現象がおきているでしょうか。


キーワード:読み手のストレス、書き手の義務、不可欠なテンプレ、テンプレの利点と欠点

--ゲームのスケールと小説のスケール--


 私たちにとってもっとも身近であるファンタジー世界の一つが、ゲームの世界であることは異論はないでしょう。


 投稿小説が流行り始めたころは、今よりもゲームの世界観と似たような設定をもつものが多かったように思えます。

 ゲーム的な小説設定というものが批判を浴びるようになって、しばらくの時間が経ちました。いくつかの設定について、その矛盾点が指摘させるようになり、いまではそのような設定を持つ小説は減ったように感じます。


 代表的な例はいくつかあって、一つは回復魔法の存在です。


 昔の投稿小説は、よくヒロインなどが癒しの力を持っていたり、それに準ずる立ち位置のキャラクターが回復役を担いました。回復魔法はゲームの中では一般的に存在するものだったし、火の玉を飛ばすのと同じくらい馴染み深いものだったのです。展開にも便利に使用されました。

 しかし、実際に回復魔法があれば戦争が長期化する、などといった指摘がされるようになると、回復魔法がファンタジー世界に登場することは少なくなったのです。回復魔法を使用する際に、大きな枷を負わせる設定もたくさん出てきました。

 

 また、王様に対して横柄な態度をとる主人公も少なくなりました。


 ゲームでは王様の周りをうろついても咎める要素はありませんし、プレイヤーは画面を通してみているので、王様の存在感は薄く、モブとして認識する傾向があります。

 王族を救うというイベントも決して少なくなく、その際の力関係は大きく主人公サイドに偏ることになるので、そのような描写や価値観をもつ主人公は多かったのです。

 一国の王に対する態度の軽さは沢山の指摘がなされ、よほど王様に理由(王様が度を越したクズ、フランクな性格である等)がない限りは、主人公達もそれなりの態度で接するようになりました。逆に、一国を滅ぼしかねない力を持つ主人公には、むしろ王様が機嫌を損ねないように立ち回る、という描写も増えてきたように思えます。


 お金を大量に持ち歩けるのか、本当にスライムは最弱な魔物なのか、キャラクターごとに魔法属性をきっちり分ける必要があるのかなどなど、様々なことが日々問いただされてきました。


 この動きは非常に重要で、有用な動きと言えます。


 ゲームはプレイヤーやシステム、ゲームデザイン、期日と予算など、さまざまな枷、制約、チェック機能が備わっているために許容範囲が狭く、あらゆる要素が削ぎ落されたり形をゆがめられたりした状態で存在しています。

 ゲーム用にデザインされた世界観は、もちろんゲームを円滑に進めるための世界観ですので、倒されるべきボスがいて、レベルが挙げられるように程よい強さの雑魚キャラがいて、プレイヤーの冒険をサポートするために様々な施設があって、冒険を導くためにストーリーがあります。


 多くのRPGで「街」を歩くことがありますが、大体が門から目的の施設までたった数十秒、じっくり探索しても十分しかかからない程度の広さしかありませんし、住人も十数人程度しかいません。店も2,3件程度しかないのに、王様がいて統治しているのです。これに突っ込みが入ることがありますが、あれもゲームを円滑に進めるためにデフォルメされているにすぎないというのは、既知の事実でしょう。街の人が数千人いて町の端から端まで半日かかるようではゲームとして成り立たないのです。


 このように「ゲーム用にデザインされた設定」というのは、ゲームというフォーマットにおいてのみ機能する要素なのです。

 しかしながら初めに言ったようにゲームの世界というのは、我々にすでに認識、承認された(共有された)ファンタジー要素であります。


 分類がライトノベルである以上、ある程度はこういった物を使用する必要があるでしょう。なぜなら過度な作り込みは読み手に「読み込んで理解する作業」という労働を強制し、(本小説のように)ストレスを与えるということは疑いようもないからです。


 「ゲーム用にデザインされた設定」は非常に便利で、読み手からすれば「安易な逃げ」のようにも見えてしまいますが、書き手からすれば使用することが強要されているといってもいいでしょう。プログラムが正しく走り、一定の効果を読み手に提示するという状況をつくるには、共通言語を使用するしかないのです。


 もちろん、ゲームから純粋に満足を得て、このような満足を自分の手で作りたい、という単純な動機もあることでしょうが、このような流れでテンプレや流行というものは生み出されていくのだと思います。



--流用する時の二つの手段--


 さて実際書くことになって、書き手はゲームでしか機能しなさそうな要素を小説に持ってきて、なんとか機能するように努力することになります。

 色々な小説を読んでみると、ここには二つの手段があるように思えます。


 一つはプラグインやマクロ(この例えが適当かどうかは分かりませんが)のように、ストーリーに放り込むように使用することです。

 プラグインは既に一定の流れと効果がセットになっています。いくつかのプラグインを持ってきてストーリーに置けば、そこの部分に行き当った時、読み手にも負担が少なく必要なプロセスを埋めることができます。オリジナルの設定や書きたい場面を際立たせるために、あえてそれ以外のところは負荷の少ない処理を行っているといえます。


 例えば「エルフっ娘プラグイン」というものがあります。

 これは、「主人公が奴隷商人の馬車からエルフの幼女を助け出す。里に送り届けるも、勘違いされ攻撃を受け牢屋に入れられる。誤解が解けると、幼女が実は王女であることが知らされる。女王や長老に囲まれながら宴に参加する」というものです。


 奴隷商の馬車と囚われのエルフが出てくると、多くの人はこのような展開を予想し、多くの世界では実際その通りになり、読み手は安心して半ば読み飛ばしつつページを進めることができます。助けるのは幼女でなく、同世代の女の子だったりだとか、勘違いをして攻撃を仕掛けてくるのが女官長や幼女の姉であったりと、いくつかバリエーションがありますが、大まかなながれはこうでしょう。

 成果もいくつかに決まっていて、ヒロイン候補がパーティーに加入する、エルフが信奉する精霊に会うことができる、秘術や魔法アイテムを取得する、というふうになっています。


 エルフを助けた時点で、ある程度読み手は今後の展開を安心して予想し、無意識に期待することで物語は円滑に進むでしょう。展開と結末がセットになっている。これがプラグインです。

 ヒロイン関連であれば、他にも奴隷商から助け出す、「奴隷商(以後略)」だとか、「落ちこぼれ」「幼馴染」などがあり、例えば「エルフっ娘」は「ハーレム」もしくは「三角関係」を用いなければ「魔女っ娘」と競合したりします。「奴隷商」は、「獣っ娘」や「エルフっ娘」などと非常に相性の良いプラグインです。


 主人公関係であれば「殺人忌避」「ライバル」「覚醒」などがあるでしょう。新しい街につけば「スリ」や「洗脳」というのもあります。突っ込みどころが多いものだと「温泉」でしょう。ヨーロッパの温泉地にいけば、そのプラグインを使う気はなくなること請け合いだったりします。


 プラグインは一通りの流れと結果が用意されたものであり、さして物語の根幹に関わってこないのであれば、違和感なくストーリーを進めキャラクターに性格を付与することができるでしょう。逆に根幹に関わる部分で使うとテンプレと批判を受けますし、使いすぎれば競合したり安っぽいものになってしまうので注意が必要です。



 もう一つは、画像を引っ張ってきて貼り付けるかの如く、ゲームを小説の中にそのまま落とし込む手段です。

 もちろんゲームという題材を小説にする、という意味ではありません。ここでいうのはゲーム的展開を小説媒体で再現しよう、という試みのことです。ゲームは多くの人間に満足感を与え、書き手読み手ともにそこに差異がないとすれば、確かに有効な手段といえるでしょう。

 ゲームには倒されるべき敵(果たされるべき目的)がいて、主人公はもちろんその敵を倒すことが決まっていて、倒した暁には名声、財力、女性といった報酬を得るという流れです。


 しかし前述のようにゲームの世界観というのは、プレイヤーが過程を楽しみながらストーリーをクリアし満足を得るために、圧縮処理(これも適当かわかりませんが)をされたものです。必要な要素だけ抽出し、要らない部分を削ぎ落し、足りない部分をつけ足したものが、ゲームデザインでありゲーム的設定です。


 例えてみるならば、解像度の低い画像がゲームであり、好きなだけ高めることができるのが小説ともいえます。小説のスケールに合わせてゲームという画像を拡大したとしても、目が粗かったり、インターレースがかかっていたりと残念な状態にしかならないのです。

 そこで書き手は設定を足し、描写を細かくし、いびつな部分を直し、解像度を高める作業をしていきます。例えば先ほど書いた「ゲームの街」であれば、一日かけてやっと一区間回れるほどの広さに増したり、武器屋も数件あるように描写してみたり、主人公を迷わせてみたりと細かくしていきます。他にもなぜか落ちている宝箱を削除したり、勝手に他人の家に上がり込めないようにしたりといった作業があります。たった数分で探索が終わるような街を小説のスケールに合わせて解像度をあげるのです。


 「ステータス画面」や「技の名を叫ぶ」などのあからさまにゲーム的な都合の部分は、特殊な処理を施しそれと分からないようにするか、もしくは前面に押し出すという大胆な手法で、小説というより大きな解像度を必要とする媒体でも、上手く満足を与えられるように工夫するのです。



--問題と解決策--


 ゲーム的設定をプラグイン的に利用するか、画像的に利用するか、というプロセスでライトノベルは構成されているというと、少し乱暴であり不快に思われる方もたくさんいるかとは思いますが、概ね外れてはいないかと思います。


 ゲーム的設定には読み手にも多くの利点があり、書き手はそれを使用せざるを得ないということですが、もちろん問題点もいくつかあります。


 初めに出したいくつかの例のように、突っ込みどころという齟齬を生み出してしまうことです。


 この小説的な立ち位置から言えば、例えば、世界観的には各国が封建的社会を築いているのに人と物の流通が活発である、というのは多くの世界で見逃されがちな問題であるといえるでしょう。

 これは「騎士」と「飛行船」という二つのゲーム的プラグインを使用、もしくは共存した「ゲーム的画像」を引き延ばすという作業を行う時に、適切な処理が行われなかった結果です。競合するプラグインが同時に入っている、とも言えるでしょう。


 筆者としては違和感を覚えてしまうのですが、それはまだ表層には出づらい問題ではあるし、多くの人に許された矛盾点ではあります。


 もう一つ筆者が気になるものといえば、史実から輸入された弓騎兵などがあります。

 弓騎兵はその機動力と強力な騎射を行う兵科で、割と人気な要素です。合成弓は数百メートルの射程を誇るが高価、騎射の難度は高い、という理由からか「高価だが強力」という騎士と同じようなイメージを持つ兵科です。しかし彼らの持ち味である機動力が活躍できるのは野戦です。ごく少数の例外を除けば、発生条件にステップ気候という特殊なものが入っています。

 ゲームに輸入された時点で「高価だが強力な機動ユニット」という以外の因子は削ぎ落され、それが更に小説に入ってきている、という状態はよく見る気がします。攻城戦の際、騎兵の扱いに迷いが出ている作品もたくさんあるように思えます。



 こういった記号的な要素とオリジナルな要素(作品の展開等)の齟齬は、ぼんやりと読み手に違和感を与え続けます。物語が続いていくと、要素が増えてますます増大する、違和感を持つ時間が長い、などの現象を経て、なんだかなぁという感情を呼び起こすようであります。


 この問題のたちが悪いところは、小説もゲームも私たちがいる世界ではない世界で展開される出来事であり、その矛盾点やおかしな点の判別が容易ではないということです。

 その結果、ゲームでは異質ではなくても小説になると矛盾点を生み出す、という設定がたとえあったとしても、書き手はその問題がある要素に気が付くことなく、その要素は小説の世界に入ってきて居座ってしまうのです。

 蓄積した違和感が引き起こす崩壊は、まるで花粉症のように突然やってきます。


 ここで念のために書いておきますが、この「設定や世界観」についてはなにも「ゲーム用にデザインされた設定」だけをあげつらおうというわけではありません。エキゾチックな宗教や現代日本、宮廷恋愛、異世界転生、VRMMOなど、どんなカテゴリーやどんな題材でも一定以上、この利点と問題点は存在しているのだという事はご理解いただけるかと思います。



 どうしたら書き手はこの問題に気が付き、適切な処理を行うことができるでしょうか。

 言い古されたことですが、確かに有効な手段が一つあります。


 それは、違う価値観で作られた物を鑑賞、観察するということです。宗教でもいいですし、芸術、料理、スポーツでもいいでしょう。数学や語学や科学を見てもいいかもしれません。これらが辿って来た経緯や、それらに従って作られた現物を観察することで、ゲームの設定や、我々が持っている共通認識を精査することができるでしょう。


 非常にありきたりですが、これがやはり、普段住んでいる世界やそこで構成されていく思考を冷静に見る有効な手段だと思います。


 また、年齢が低ければ物理的に、見聞きしてきた時間の量、つまり価値観を疑う機会をどれくらい得たのかというのは、長く生きてきた人に比べれば少なくなります。

 ネットでいろいろと投稿された物やログを読むと、なぜこの人はこんなに自信満々に「客観的にみて間違っている事」や「的外れなこと」を堂々と言えるのか、ということが多々ありますが、これは価値観を疑う機会が非常に乏しい日常生活を送っているということに起因しているといえるでしょう。


 いろいろなものを見て、素直に観察し、様々な立場から考察する。


 これは何事にも重要なことですし、大変難しいことです。大人でさえも、その機会を持ちながらも見過ごしてしまっている様子はありますが、それも人間である以上仕方のないことです。もともと我々人間が持つ思考パターンはそのようにできているようです。


 普通の人間ならばそれでいいでしょう。しかし、創作活動をして世に作品を発表するという職業にいる以上、この呪縛と戦いながら生きていかなければならないのです。義務といっても過言ではないでしょう。

 なぜ「作家」がニュース番組や情報番組のコメンテーターになるのかといえば、この作業を怠らずにしているために、恐らく普通に日々を過ごす人よりは見識や違ったものの見方があるだろうという、番組制作者の期待感があるためでしょう。



 なろうやネット投稿小説という世界に生きる我々が共有する、既存の価値観のいくつかはゲームが発祥であることは疑いようはなく、そして容易に否定できることではありませんし、安易に否定していいものでもありません。

 ライトノベルである以上、書き手がゲーム用にデザインされた要素をいくつか小説の中に用いることは許されるべきであり、一方で、書き手がそれに甘えることは許されるべきではありません。


 先に挙げた例の他にも、宝箱の存在や敵が落とすお金の存在、そもそもダンジョンってなんだよ等の突っ込みや矛盾点に対しては、たくさんの書き手の努力によって、作品の中で説明付けられ、斬新なアイディアがいくつも生み出されてきました。

 ゲーム的設定を小説というフォーマットに落とし込む研究がなされてきているのです。まだまだたくさんの矛盾点は存在しているように感じますが、先人の努力によって概ねその違和感は解消されたようにも思えます。

 今も「テンプレ論争」や「作品レベルの低下論争」など沢山の議論が各所でなされていますし、いろいろな実力ある、実績ある書き手ユーザーがエッセイを出しています。今でも多くのプラグインがバージョンアップされたり、新たなものが開発されたりしています。


 こういうふうにみてみると、私たちが住むネット小説界にも、自浄作用が存在しているようであり、これから先も名作や斬新な設定がテンプレになっていくという可能性は残されているようです。



 もしかしたら、その設定はエキサイト翻訳に数回かけられた状態かも知れませんよ、というお話でした。


 今回の話は「表現者の困難」という回につながります。どうぞそちらも合わせてお読みください。

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