宗教について 我々の宗教観
我々になじみがない宗教。
その描写は城と同じく、大きな揺らぎが見えます。
さて、ついに宗教について書くときがやって来ました。
宗教は社会体制とともに、その社会を見るときに重要な要素としてあげられます。それを今の今まで書かなかったのはいくつか理由があります。
もっとも強い理由としては、ファンタジー世界に宗教描写が大変偏っていて、少ないような気がしていたことが挙げられます。どのような方向で話を進めるのがいいのかいまいちわからなかったのです。
宗教に対しては偏見に満ちているように思えます。現代に生きる我々日本人は宗教について、知識や実体験が乏しいのは事実でしょう。
ファンタジー小説には様々な宗教が存在しますが、主人公たちは宗教について懐疑的である場合がほとんどであるとおもいます。
もちろん主人公の価値観は我々に準じていれば、書きやすいだろうし読みやすいでしょう。
しかし状況に沿う感情という面では、それがリアルかどうかという点においては微妙なところがあります。
宗教について書こうとすれば、話はずいぶんと現実世界よりになってしまうことは明白であり、色々と出そろうまで書けなかったのです。
さらに非常に敏感な話題であるために書くことをためらった、というのも理由のひとつです。
しかし世界や歴史を考えるうえで外すことのできない要素であり、やはり書かなければならないでしょう。
本題に入る前に一つ書いておきたいのは、本小説は宗教を勧めるわけではない、ということです。
私が言いたのは宗教についてもう少し偏見をなくして、素直に観察、考察すべきではないだろうかという事です。
筆者は信仰者、ことクリスチャンはどのような考えをもって日常生活を送っているのか、非常に気になっていました。
偶然メソジスト系の教会に知人がいたので、主日礼拝に度々参加する機会を得ました。数年間もの間、散発的ではありますが説法を聞き、教会の方々と少なくない交流をしてきました。
(すべての教会、信奉者が信用できるわけではありません。これに関しては後書きをご覧ください)
説法を聞いて抱いた感想としては、宗教とは道徳を示すにすぎないという事でした。
殺してはいけません、盗んではいけません、嘘をついてはいけません。だらけてはいけませんといったことを話します。
それに加えて感情の処理の仕方、という二輪で説法が展開されることが多いように思いました。そもそも聖書に書かれている説話はそのような色が強いのです。
筆者としては結論や展開のために、するりとキリストや神の存在を入れてくるところがどうにも受け入れがたく(乱暴な言葉でいえばペテンにあったようでした)、勉強こそすれど信者にはならないかなというところです。
またなんでも神のおかげだ、というクリスチャン(カトリック系やバブテストの信者さんでした)に数人出会ったことがありますが、私が説法を聞く限りでは神は何もしてくれていません。
大雑把にいってしまえば、ただ頑張れるように、正しいことができるようにキリストを通して、そばにいてくれるという話でした。つまり頑張れたのは神のおかげで、その結果成果が出せたのでありがとうございます、という流れのはずでした。
そんな人達との出会いもあって、私は入信を見送ったのでした。
牧師先生の話を聞いていて思ったことは、キリスト教に関していえば、教義は西暦と同数だけ研究されてきたものだということです。
我々が思いつく程度の(しばしば鬼の首をとったかのような顔で投げかけられる)疑問は、既に語りつくされ、答えが用意されているようです。
民衆のあらゆる疑問に彼らはすんなりと答えを示すことができるのでしょう。
宗教は道徳を示し、法で縛れない部分を戒め、活力を与える。
そんな側面があるように思えました。
それは確かに神学が重要視された理由でもあるように思えます。
それと同時に信じてこそ宗教だ、とも思いました。
理論理屈をこのようにこねくり回したところで、所詮は理解することなどできず、入信し信仰生活を送るという事でしか、真に宗教の本質を把握することはできないでしょう。英会話みたいなものです。
さて、そんな宗教はどの文明にも付き添って相互に助け合って発展してきました。
どの言語や生活習慣にも宗教的観念は深く入り込んでいます。
宗教は人々の価値観、優先順位に影響を与えて社会を補佐し続けてきました。
日本にしても例外ではありません。太古の精霊信仰から仏教まで、尽きることなく宗教が身近にある生活を営んできました。
我々が使っている日本語にも精神的、宗教的な心構えは現れています。
我々一般市民が宗教に否定的な感情を向けるのは、戦後の風潮であるのは間違いないといっていいでしょう。
昨今の中東情勢やオカルト集団の引き起こした事件が身近に宗教を知る機会ですし、歴史的に見ても宗教が戦争にかかわっている事例が少なくありません。教育の面でも否定的であると思います。
中学校での歴史の授業で進化論や地動説をかたくなに否定し続けるキリスト教は、随分滑稽に見えたものです。
そのせいか宗教などを信奉することは愚かで、精神的に弱い人しか信仰しないと、多くの人が特に考えもせず思っている節があります。
キリスト教徒でいえば十字軍だとか、スペイン人の南米侵略。イスラム情勢や、日本史になんども登場する寺社勢力の様子など。それに加えて新興宗教の悪逆非道な行い等の事件で、日本人の宗教に対するイメージは最悪でしょう。
宗教は洗脳し盲目にさせ、戦争をおこすのだと。
そのことを挙げて、よく「法が整備され、それを遵守する精神があるのだから、日本人は道徳でよい」という主張を目にしますが、道徳と宗教には決定的な差があります。それは絶対的な力を持つ存在の有無です。物事の良し悪しを述べることはどちらの方法でも可能ですが、その根拠を求められた場合、道徳では最終的に太刀打ちできないでしょう。なぜ人を殺してはいけないのか、という問題は難問としてよく語られますが、宗教であれば神が禁止していると言ってしまえば、(その宗教の教えを守らなければいけないという前提が必要ですが)非常に簡単なのです。
話はそれますが、決して少なくない人たちが俺たちは歴史を学べる賢い人間だから、宗教なんて間違っているって知っていると疑いもなく信じています。日本人は無宗教だぜ。だって盆もクリスマスもやるんだから、と発言しているのをよく耳にします。バレンタインに七夕に縁日にお正月。ほらどうだと。
しかし、それはつまりお祭り騒ぎが好きという事であり、そのお祭りはそもそも宗教に発端があるわけで、結局お祭りの多様さを例に挙げて無宗教というのは滑稽なのであります。
一方でその結論をだして我々は無宗教ではないという人たちには、本気で信じてこそ宗教だと言ってやりたいのです。罪を禁止する神、例えばあの恐ろしい姿をした蔵王権化などを心から恐れなければ、人は容易に悪事に手を染めることが出てきてしまうでしょう。それでは宗教の持つ意味合いは薄れてしまうのです。
閑話休題。
宗教は戦争を起こす。
そもそもそれは本当に正しいのでしょうか。
確かにその要素はあるでしょう。たとえば前の頁で書いたザルツブルグ城は、カノッサの屈辱の報復を恐れた教皇が立てこもった様子もあります。
ですが今までさんざん書いてきたように、戦争が不思議な経緯、神秘的な要素で起こった事例はほぼありません。
おこるべくしておこっているのです。
そこに宗教の有無や種類は、特に関係ないと考えることに無理はありません。
宗教のように意思や価値観を統一する手段は、指導者にとってずいぶん魅力的に思えたことでしょう。ただ相手を悪だと教義の中で決めてしまえば、信徒を動員できてしまうのです。つまり宗教が戦争を起こしたのではなく、戦争が宗教を利用したのではないかということです。
ナチス政権は民族主義を武器にして世の中を動かしていましたが、それは果たして宗教といえるでしょうか。
動員できればなんだっていいんです(反宗教が反戦教育の一環だろうと思うのはこのためです)。
宗教が拝金主義、権力主義で汚職にまみれているという描写は、おそらく免罪符や寺社勢力のイメージが強いのでしょう。筆者も別の体験によるものですが、そうしたイメージは持っています。カトリック系の学校に遊びにいった際、権力者と思われる人にペコペコしている教師らしき人たちを見て、そしてふんぞり返る偉い人を見て、幻滅した覚えがあります。権力に弱いのは組織の常でしょう(それにしても偉ぶる聖職者は許せませんが)。
とはいってもそれは一部、もしくは限定的な面でしかなく、市民の日常生活においては宗教こそが希望になることは多々あったのだと思います。
今ほど指導者や有識者の見解を直接知ることができない、というのがどれほどの不安になるか。
死ぬということに、どれだけ理解を得て過ごすことができるか。
今よりもあらゆる分野で開けていない状況では、日常生活の多くの部分を想像で補うことでしか世界を見ることはできなかったでしょう。
最近思うのは、地球が丸かろうが平面だろうが農民にとっては関係ないだろう、ということです。
地面が動いているといわれるよりは、天が動いているといわれた方が信じられるし安心できる、と想像するのは愚かなことでしょうか。普通に暮らしてる限り、学者が必死になっていることというのはどうでもいいことなのです。
明日が無事に来て、不幸が急に降りかかったときにどう納得するか。
そういう意味で宗教は一般市民にとって助けになっているはずです。
中世にあれだけ教会が力を持てたというのは、それ相応に実績があるからと考えるのは妥当な考えでしょう。
そんな中でその世界に育ってきた主人公やそのご一行が、宗教に対して否定的な感情を容易に持つことがあり得るのか。
ステレオタイプな宗教を登場させるくらいであれば、宗教などは使わない方が説得力を持たせることができるでしょう。
我々の価値観が架空世界において正義かどうか、もう一度考えてみる価値はあるでしょう。
さて恒例ですが、ファンタジー世界にて勢力を伸ばす宗教は何でしょうか。
属性に分類される精霊などが多いですし、多神教でしょうか。それともキリスト教のような一神教でしょうか。
筆者としては、当然どちらもあり得る話だと思いますが、中世ヨーロッパにおいてはすくなくともキリスト教が覇権を握っていました。
キリスト教の指導者である、イエスキリスト。
前述のように道徳や考え方を説く礼拝中の説法などではあまり詳しい内容は語られませんが、このキリスト、というのは称号であります。
旧約聖書の中では王、預言者、祭司がこの称号を与えられた指導者であり、新約聖書のイエスは全部の要素を併せ持っている存在、という設定らしいのです。
ヘブライ語であるメシアは、救世主、と訳す時もあります。
救世主。
つまりファンタジー風に言ったら勇者ではないでしょうか?
神から啓示と特殊な力を与えられ、悪の根源、すなわちモンスターや魔王を討伐する。
もし勇者が魔王を討伐したら、その冒険譚は聖典となることでしょう。それはちょうど旧約聖書にでてくる多くの指導者の活躍やイエスの旅の様子と似通います。
勇者教。これが一つの姿でしょう。
もちろん異世界の宗教団体が、容赦なく他の世界から人を連れてきたとしても、それは微塵もおかしくはありません。
その世界に生きる人たちにとっては、それが統一された意識、つまり常識であります。
よく転生者が元の世界に返してくれと頼んであっさり断られてますが、基本的に人権などという考え方がなく、さらに異邦人に対して厳しく権利が認められない中世という時代区分にて、ある意味非常にリアルだと思います。
しかし宗教に否定的な感情持つ、つまり自分のことを敬わないものを神が取り立てる、選別するというのは、どの一神教においても不自然な点なのであります。
対して、多神教ではそういう要素を見ることができます。
魔族と戦う神は、使うものは何でも使うリアリストなのかもしれません。
神話、などと銘打った物語にでてくる神々はとても人間臭く書かれています。
そのほうが神をより身近に存在を感じられる、という意識からくる描写でしょう。
多神教に基づく勇者を、唯一の指導者として教義の中心に据える。
そのような一神教と多神教が入り混じった、まさに神仏混淆の文化を歩んできた、日本人らしい独特な宗教観がファンタジー世界において形成されます。
超越した存在である神をどうにかして身近に降臨させる、というのが聖典や神話に求められる描写であります。それは多神教でも一神教でも変わりありません。
ファンタジー世界では、実際に精霊や勇者を降臨させる技術があるのですから、その教えは現実世界よりも説得力を持って伝わることでしょう。
教会などの宗教団体がもつ力は更に強かったに違いありません。この件に関してはまた別の話で書きたいと思います。
どうにも書きづらい話であります。非常に多くを考えることができる題材の為、初めは一万字を超えてもまだ膨らむ、という状態でした。
世の中の人間すべてが、自分の考えに自信をもって決断を下せるわけではありません。
私は信仰宗教を持っていませんが、よく吟味したうえでなお宗教に入らない、という選択をしました。しかし価値観に自信を持てない、どうにも揺らぎやすい、自責的である、という人は、”昔からある洗練された宗教”であれば入信して学ぶのも良い選択かもしれません。
しかしキリスト系も、やばいところは相当やばいらしいので、安易には近寄らないよう、ご注意ください。聖書をもとに学んでいるか、制限はないか、などが主な見極め方のようです。もし怖いけど勉強してみたいようでしたら、ホームページ上で礼拝中の説法の録音を公開している教会もあるので、それを聞く、というのもありかもしれません。とりあえず身に被害がおよぶことはないでしょう。
前に少しかいたファッションについてはいつか短編を書くかもしれません。
あとは文化のことを書こうと思っていますが、しばらく時間をとれないかもしれません。