第二話 斬新! 実践物理授業
《十月十日 水曜日》
一組のクラスメート達は、この日の朝は学校へは向かわず直接、JR徳島駅前に集合した。物理担当の山ノ内先生からそうするように指示されていたのだ。
朝のホームルームもこの場所で行われることになっていたので、担任も来ていた。かなり迷惑そうな表情を浮かべながら。
「ちかちゃん、山ノ内先生ってけっこう面白い先生だよね、授業内容はチンプンカンプンだけど。髪型が最高。おでこの所が島みたいになってるんだもん」
「そやな、あの淡路島型ヘアーには最初見た時笑ったわ。本人は江田島型ヘアーって言ってたけど。穏やかな広島弁で話すし、えびす顔で親しみやすいよな。今日は実験やるって言っとったけど、理科室やなくて野外でやるのも斬新なアイディアの持ち主や」
「ジャマノウチーは中学の時も学外で何度か面白い実験やってくれたんじょ。ワタシ、ニッシーの次に好きじゃわ」
「確かに、授業は面白くて、髪の毛の生え方はとてもユニークなんだけど、わたしはあの先生大嫌いだな」
麻衣は顔をしかめながらそう述べた。
八時半。担任は一組のクラスメートたちが欠席の子を除き全員揃ったのを確認すると、連絡事項を手短に済ませて急ぎ足で学校へと向かっていった。今日も一時限目から他のクラスで授業が組まれてあるのだ。
それからほどなくして、
「ごっきげんようーっ、おまえさんら。ワシのしょうもない授業なんかのためによう集まってくれたのう。ワシは今、ごっつい嬉しいわー。それではご褒美に、今から相対速度というものをお見せ致します! やっぱ物理っていうもんはな、ビジュアルで体験するんが一番脳内にインプットされやすいからのう。百聞は一見にしかずっていうじゃろ? おまえさんらは市バス。ワシは、高速バスに乗っちゃる!」
トコトコ小走りで颯爽と現れ、元気よくご挨拶した彼こそが山ノ内先生だ。年齢は四十代半ばで、丸い顔も特徴の一つ。駅構内で四十名近い一組のクラスメートたちに向かってマイクは使わず、阪神タイガース応援用メガホン片手に大声で叫び回る。
「先生、うるさい。もっと小声で話しや」
四人が座っていた場所はその先生のすぐ近くだったため、かなりの騒音域となっていた。
「紅露よ、ワシのテノールボイスを迷惑がるとは一丁前やのう。ワシにカラオケで『瀬戸の花嫁』歌わせたら右に出るもんはおらんのに。罰として携帯番号教えてー」
山ノ内先生は応援メガホンを右手に持ったまま、千花ににじり寄ってきた。
「ちょっと先生。やめてーな。それ、セクハラちゃうんですか?」
千花は少し迷惑そうに、けれども笑顔で対応した。
「まあまあ、いいやないか。なっ!」
山ノ内先生はさらに顔を近づけてきて問いつめる。
「チカリン、ぜひジャマノウチーに教えてあげて。今回の実験に使うだけやけん」
彩は山ノ内先生の髪の毛をペタペタ触りながら千花を説得する。
「わっ、分かった。彩がそう言うのなら……」
こうして千花は、しぶしぶ山ノ内先生に自分の携帯番号を教えてあげたのであった。
「よっしゃ! それより美馬よ、ワシの髪、そんなに触り心地ええのんか? ハハハッ」
上機嫌な山ノ内先生はスキップしながら高速バス乗り場へと向かっていった。それ以外のみんなは、指示通り市バスに乗り込む。
運賃は全額各自自腹で負担するように、とおっしゃっていた。
〈まもなく、発車します〉
車内アナウンスから約三秒後、ブザー音と共に扉が閉まった。そして市バスは動き出す。当然バス内はぎゅうぎゅう詰めだ。事情を知らない一般利用客は不思議そうにこの光景を眺めていた。
〈徳島中央郵便局前、徳島中央郵便局前〉
このバス停でお客さんがさらにまた二人乗って来て、バスが動き出したそのわずか数秒後のことだった。千花の携帯の着信が入った。もちろんマナーモードで。
「はいもしもーし。山ノ内先生やろ?」
「ピンポーン! 正真正銘ワシじゃあ」
とても嬉しそうに応答した。
市バスは吉野川バイパスに差し掛かると左折し、北方向に向かって進み出した。後発の高速バスもそれに続く。
「もうすぐ追いつくからのう。ほんの一瞬じゃけぇ、見逃さんようにな」
市バスは降客がいたため、次の公園前バス停にも停車した。その数秒後に客席窓右側を眺めると、高速バスがこのバスを一気に追い抜いていくのが見受けられた。
「ほら、今追い越してったじゃろ? ワシの姿見えたかな? これが、相対速度っていうもんじゃ。おまえさんらの乗っとる市バスはさっき、停車しとったけん速度は0で、ワシの乗っとる高速バスの方が時速五十キロくらいかな。つまり、高速バスに対する市バスの相対速度はマイナスの符号がついて五十キロメートル毎時というわけじゃ……」
「先生、声もっとしぼって。やかましいねんよ。ていうか車内で通話はあかんで」
「まあまあ、そんな細かいこと気にせんでもいいやないけぇ」
千花は注意するも、山ノ内先生に悪びれる様子は全くなし。
〈次は、徳島大学前、徳島大学前〉
「先生、うちらもう降りますよ」
千花がそう伝えると、クラスメートの一人がブザーを押してくれた。
〈次、停まります〉
「まだそこなんか。やっぱり市バスは遅いんやのう。ワシの方はもう吉野川大橋の所まで来てるのに」
山ノ内先生は自慢げに伝える。
「ところで山ノ内先生は、これからどうされるつもりなんすか? それに乗ってもうたら高速舞子までは降りられんやろ?」
千花は周りの多くの乗客に気を使ってか、ボソボソ小声で話している。
「・……あっ、しまった。今気付いたーっ。まあいいか。このまま終点の三宮まで乗っちゃおう。三宮着いたら近くの布引ハーブ園と、北野異人館と、南京町、それから王子動物園もついでに観光してこよう。というわけで、授業の残り時間は自習!」
高速バス車内にいる山ノ内先生は、他の乗客の迷惑などかえりみず大声で叫び回った挙句、ようやく電話を切ってくれた。
「あっ、先生。それ、完全授業放棄やないですか?」
プープー音の流れる千花の携帯、千花は電源ボタンを押して止めた。
「何なんよ? あの先生」
そして即、メニュー画面に切り替えて、山ノ内先生の携帯番号を着信拒否設定にしておいた。
千花は笑うと共に、彼の予想外の行動に拍子抜けしていた。
「大胆な行動する先生じゃろ。チカリン、驚いた?」
「そりゃそうや。あんなんで、よう今まで教職務まっとるよな」
市バスが徳島大学前バス停に到着し、扉が開くとクラスメートたちは一斉に降りた。学校へ向かって歩き進む。
「ジャマノウチーは、時に体を張って物理現象をパフォーマンスしてくれるんじょ。ベルヌーイの定理の時はもう少しで大型トラックに轢かれそうになってたけんね」
「あいつ、無関係の人にもかなり迷惑かけてるよな」
千花は苦笑いしながらしゃべる。
「チカリン、あれとか今日のもまだマシな方なんじょ。中学の時にやってくれたドップラー効果の説明の時はサイレンの音聞かすためだけに学校に救急車と消防車と、パトカーまで呼んでたし。しかも大雨の日に。あのあとジャマノウチー、隊員と警察官と校長先生にすごい叱られてたんよ。見る分には面白かったけどね」
彩は楽しそうに語る。
「わたしは遠心力の説明の時が最悪だったな。遠心力をお見せしますとか言って山ノ内先生にわたしのカバン、廊下までぶん投げられたの。中に入ってた大事なペンケースや手鏡も割れたし。実践を通じて理解を深めるという山ノ内先生のお考えはわたしも共感出来るけど、他人に迷惑かけたらダメだってことをもっと理解して欲しいな」
麻衣は少しムスッとしながら中学時代のちょっと嫌な思い出を述べた。
「傍若無人なえびすさんだね」
由巳はにっこり笑った。
「私立やから異動もないし、三年間ずっとあの先生なんよなあ。なーんか頼りないよなあ。ただでさえ物理苦手やのに」
千花は不満を漏らす。
「チカリン、あいつの授業が受けられるのは、高等部では理系クラスだけやけん、楽しまんにゃ損なんじょ」
彩は微笑みながら言い、千花の肩をポンッと叩いた。
学校へたどり着いた頃には二時限目、古文の開始時刻を少しだけ過ぎていた。
「みなさん、おかえりなさい」
担当は三十歳くらいの女の先生。怒っている様子は全くなく、むしろ快く出迎えてくれた。
「あのう、先生。山ノ内先生は授業ほったらかして徳島の方へ行っちゃいましたよ」
「これは昔からよくあることだからスルーしてあげてね。あいつはね、わたしの恩師なの。もう十年以上は前になるな。当時からこんながさつな感じだったのよ」
千花の発言に対し、先生はさらりと言い張った。
「……そうなんですか」
さらに先生は、こんなこともおっしゃっていた。
「あいつ、物理教師のくせして生物の知識の方が詳しいもんだから、みんなに“偽物理”なんてあだ名もつけられてたな」
【四時限目 数学Ⅱ】
「ではでは、昨日予告した通り、小テストを行うよーん。教科書ノートはしまって、机の上は筆記用具だけにしてねん」
西島先生はそう告げて、プリントの束を教卓から見て左端、つまり廊下側の列一番前の席から配り始めた。
真ん中くらいの列に配る際、
「おーい紅露さん、今さら悪あがきしたって無駄だよーん。焼け石に水っさ」
「分かっとりますって」
西島先生は微笑みながら千花に優しく注意。千花は指示されたあとも教科書を眺め続けていたのだ。しぶしぶ片付けた。
右端の列最後尾までプリントが行き渡ると、
「それでは始めてねん」
と、西島先生から開始の合図がかかる。
制限時間は十分間。その間に五題の問題を解くようになっていた。一問二点の十点満点。
[問い1 二つの点 A(-7),B(3)について、次の点の座標を答えよ。
線分ABを3対2に内分する点、2対3に外分する点]
(えっ、いきなり内分と外分なの? えーと……)
由巳、初っ端から手に負えず。
(これは公式に当てはめたらええだけやな。内分点が…………マイナス1で、外分点がマイナス27や。楽勝、楽勝)
千花は見事正解。
[問い2 三つの点 A(-1,1),B(2,5),C(3,-2)を頂点とする△ABCはどんな三角形か]
(こっ、これは、全然分からへんわ。むずっ)
千花は即、次の問い3へ。
(……考えてみたけどダメだー、ここはとーばそ)
由巳もあきらめて問い3に着手しようとしたところ、ピピピピピッとタイムウォッチが鳴り響いた。
「はいそこまで、後ろから集めてきてねん」
ここで制限時限いっぱい。ちなみに問い2の答えは、∠A=90°の直角二等辺三角形だ。
(ギャアアアアアッ、もっ、もうタイムアップ? もう少しだけ。一文字だけでも……)
鳴り終わってもシャーペンを置こうとしない由巳。
「あのう、板東さん」
(うーん、どう解くんだろう。えっと……)
「ねえ、板東さーん!」
「……あっ、ごめんね」
後ろから集めに来た子は、由巳がなかなか手渡してくれないので困り果てていた。
「今回の小テスト、すごーく簡単だったよねん? 意表をついて基礎中の基礎問題にしてあげたし。おそらくは、ほとんどの子が10点満点じゃないかな。まあもしも、6点未満だった子がいるようでしたら、放課後再試験してあげるからねん。このクラスの子では、まさかそういう子はいないとは思うけどな」
西島先生はにこにこしながらそう申した。
(せっ、先生。わっ、私、まさしく再試験ですよーっ)
(うっ、うちも、確実やーっ)
由巳と千花は、背中から冷や汗がタラリと流れていた。
帰りのホームルーム。
「今から西島先生から預かっていた小テスト、返却するわね。自分の分をとって後ろへまわしていってね」
担任は教卓から向かって右端の列一番前の席に座っている子に全員分の答案を手渡した。由巳の席は同じ列後方なのですぐにまわってきた。
(やっぱり、再試験だった。の○太くんのレギュラーな点数とっちゃったよ)
10点満点中、由巳は0点。
(予想通りやったな。一問目しか合ってへんわ)
千花は2点。よって二人とも仲良く再試験が確定した。
掃除が済んだあとに行われる。
「すまんなあ、付き合わせてもろて」
「あやちゃん、まいちゃん。待たせちゃってごめんね。私、こんなにおバカで」
「そんなこと全然気にしなくていいよ。焦らずに落ち着いて考えて解いてね」
「公式に気づきさえすれば簡単に解けるんじょ。ユーミン、チカリン、頑張れ!」
麻衣と彩はすぐ側で応援していた。
「ハハハッ、きみたち、やっぱ予想通りだったな」
西島先生はかなり機嫌良さそうにしている。再試験になったのは由巳と千花、二人だけだったからなのか。
「6点ジャストの子はたくさんいたんだけどね。制限時間、今度は十五分間あげちゃうよん。さらにさらに特別サービス、教科書・ノート等見ながらやってもいいからねん」
西島先生はテスト用紙を二人に手渡すと「それでは始めてね」と合図をかけた。
二人は教科書を手元に置き、懸命にシャープペンシルを走らせる。
「おっ、今度はめっちゃ簡単やん」
「教科書の例題と全く同じ問題が出てる! やったあ! 西島先生ありがとう」
スムーズに進む、進む。
そして十五分が経過。
「はーい時間切れ」
西島先生は二人の用紙を回収すると、その場ですぐに赤ボールペンで採点を始めた。
「ほい、板東さんは7点だよーん」
「バンザーイ!」
由巳は受け取った瞬間、両手を高く上げて満面の笑みを浮かべる。
「おいおい板東さん、これでもまだ決して喜ぶような点数じゃないんだよん。紅露さんも同じく7点。合格点に達成。二人とも次はもっと頑張ってねん」
「なあ先生、次からはもっと簡単にして下さいよ」
千花はお願いしてみた。
「あれが一番難易度低い問題なんだよん。これ以上簡単にするなんてどうすればいいのさ」
しかし西島先生はあっさりと断わる。
「あ~んもう。先生のケチッ!」
「ハッハッハッ、それではさらに難しくなる次回の小テストもおったのしみにー」
西島先生はにこにこ笑いながらそう告げて、教室から立ち去る。
(うちな、先生の秘密知ってるねんで)
そんな彼の後姿を、千花はにやりと微笑みながら見送ったのだった。