(3)手の大きさが違うということ
ありえないくらいの至近距離で、無言のまま視線を合わせている私と磯崎君。
―――どうしてこんな状況になっているの?
人間というものは、パニックになりすぎると僅かな声も出せずに硬直するらしい。磯崎君に見つめられて頬を撫でられながら、私はひたすら目を瞠るばかりだ。
グランドを走り回っている運動系部活の声が時折聞こえてくる以外、3階にあるこの教室は静まり返っている。
遠くのざわめきを聞きながら、私は緩やかに弧を描いている彼の瞳から目を逸らすことが出来なかった。
どれだけの間、そのままでいただろうか。
私も磯崎君もただ、お互いに視線を合わせたままで、何も言うことなく向き合っている。
その時、廊下を歩く数人の足音が耳に届いた。
それを聞いてようやくハッと我に返った私は、頬を撫でていた彼の手をとっさに振り払って一歩後ろに下がった。
「何すんのよ!」
怒りと恥ずかしさで顔を真っ赤に染めて、私は開口一番、磯崎君に怒鳴りつける。
それでも、彼の飄々とした様子は崩れることもなく、
「残念、時間切れだ」
と言って、ヒョイッと肩を竦めるだけ。
何が残念なのだ?何の時間切れなのだ?
このところの彼の言動は、さっぱり意味が分からない。
こちらは混乱しまくりだというのに、磯崎君はいつもと変わりない。そんな彼の様子に、やたらと腹が立った。
「ふざけないでよ!」
目を吊り上げ、更に怒鳴る。
廊下を行き交う人達が私の大声に気が付いて、何事かと教室を覗き込むかもしれない。
そんな事が脳裏をよぎったけれど、かまうものか!
だって、彼の態度はあんまりだ。
私が磯崎君にひどいことを言って傷つけたのは認めるし、本当に悪かったと反省している。
それでも、ここまで私をからかうなんて、そんなのって、そんなのって、あんまりだ。
私は泣きそうになるのを必死にこらえて、グッと目に力を篭める。
「私のことが嫌いなら、もう、放っておいてよ!私だって、これからは磯崎君に近づかないから!」
大好きな彼に意地悪されるくらいなら、叶わない片想いを抱えて遠くから見ているほうが何倍もマシだ。
「こんなの……、こんなの、ひどい……」
俯いて奥歯を噛み締め、強く拳を握って、漏れそうになる嗚咽を必死に抑え込む。
すると、磯崎君は私の拳にソッと指先で触れてきた。
「高塚、違うよ。そういうことじゃないんだ」
優しい声で囁く磯崎君。ほんの少しだけ、焦りを感じさせる声だった。
「じゃあ、どういうことよ?」
低く問い返せば、彼はなぜか周囲を見回し始める。そして窓際に目を向けると、ニコッと笑い、
「じゃあ、ちょっとだけ時間延長」
と言って、磯崎君の手がすっぽりと私の拳を包み込む。
同じ身長なのに、磯崎君の手は私よりも一回り大きかった。
こういうところが男の子なんだなと感じて、私の心臓がドキンと跳ね上がる。
ドキドキと跳ねる心臓の音を聞きながら磯崎君の答えを待っているけれど、彼は何も言ってくれない。
それどころか、私の手を握り締めて静かに窓際へと歩き出した。
今日は天気もよく、窓は大きく開けられている。そしてタッセルで留められていないカーテンが、静かに吹き込む風にそよそよと揺れていた。
そのフワリと広がっているカーテンの影に私を連れて行く磯崎君。
「え?ちょ、ちょっと、磯崎君?」
私は彼に先ほどの問いに答えて欲しいだけなのに、どうして磯崎君はこんな場所に私を連れ込んだのだろうか。
まるで人の目を避けるように。
彼が何をしたいのかさっぱり分からない私は、どうしようもない不安に襲われていた。
「い、磯崎君……?」
戸惑いながら、オロオロと彼を呼ぶ。
私の呼びかけに応じない磯崎君は、カーテンの端を掴んでクルリと腕を回した。途端に、辺りが明るいベージュ一色に染まる。
教室の床まで届きそうなほど長いカーテンに包まれた私たちの姿は、廊下を行きかう人たちからは見えないだろう。
それにしても、こんな場所で一体何をするつもりなのか?
―――人に見られたら性格を疑われるほど、えげつない仕返しをたくらんでいるとか!?
だから磯崎君は人目を避けられるこの場所に私を連れ込んだのだろうか。
それほどまでに彼を怒らせてしまったのだろうか。
それほどまでに……、私は彼に嫌われてしまったのだろうか。
しょんぼりと俯いて断罪の時を待っていると、正面に立つ磯崎君の右手が私の左手を握り、そして彼の左手が私の右手を握る。
さっきも思ったけれど、彼の手は私の手を包むほどに十分大きくて力強い。関節だってしっかりしているし、手の平の厚みも女の子のものとは違う。
自分とは違う“男の子である磯崎君”を意識してしまって、こんな時なのに一層心臓の音がうるさくなる。
耳に響く自分の鼓動を聞きながら、私は再び問いかけた。
「……さっきの“時間切れ”ってどういうこと?それに、時間延長って何のこと?磯崎君、何がしたいの?」
もう、いつものように強気の態度でなんかいられなかった。
磯崎君が怖くて。磯崎君に嫌われてしまったことがショックで、私の声は明らかにしょんぼりしていた。
それとは反対に、彼の声は楽しそうで明るい。
「まだ、分からない?」
ちっとも分からない私は、静かに首を縦に動かした。
伏せた視線の先には、何故か今もつながれたままの二人の手。
多分だけど、このままギュウッと強く握られたら、私の指は簡単にポキンと折れてしまうに違いない。
―――もしかして、それが目的?だから、誰にも見られないように、カーテンに隠れたの?
男子である磯崎君が、女子の私に暴力をふるって怪我をさせたとなれば、確かに大問題だ。
彼を怒らせたきっかけは私の言動であっても、骨を折るほどの怪我をさせたことを人に目撃されたら、流石に磯崎君が悪者となる。
良くて生活指導の先生に呼び出され、こってりとお説教。
悪い方向に進めば、停学処分。そして色々な大会に出場しているバスケ部は、暴力沙汰を起こした磯崎君の入部を絶対に認めないだろう。
だからこそ、彼はこうして誰にも見られないところで、私に復讐をしようとしているのか?
自分の手を包む、自分よりも少し大きな手の存在に、私は本気で泣きそうになってきた。
「ご、ごめんなさい……」
震える唇を動かして、私は小さく謝る。
だけど、磯崎君は『違う』と言わんばかりに、握っている手を軽く揺さぶった。
「やっぱり、分かってないんだね」
ちょっとだけ呆れたように、磯崎君が呟く。
「このタイミングで本当のことを言っても、きっと高塚は信じないんだろうなぁ。仕方がないけど、もう少しだけ待つか。何だか、やたらと怯えてるみたいだし」
「え?」
彼のセリフの意味がさっぱり理解出来ず、オズオズと視線を上げて磯崎君の顔を見た。
カーテン越しに差し込むやわらかな日差しの中で、彼は楽しそうでありながら、ほんのちょっぴり困ったように笑っている。
―――本当のことって、何?
涙を堪えた瞳で磯崎君を見つめると、どういうことか、やんわりと手を握られる。
それは静かに力を篭めているけれど、私の骨を折るという感じではない。
ただ穏やかに伝わってくる彼の温もりに、少しずつ恐怖が消えてゆく。
僅かに安心してホッと短く息を漏らせば、
「次は覚悟しておいてね」
と、彼が言う。
ニッコリと笑う磯崎君の瞳は優しい光を浮かべているのに、その奥には何かを決意した強い輝きがあった。