(1)唇の位置が同じということ。
うららかな日差しと穏やかな風に包まれて、私、 高塚 波那は高校の門をくぐる。
「おはよう」
「あ、おはよう、高塚さん」
昇降口へと向かいながら同じクラスの人に声をかければ、同じように挨拶が返ってくる。
そんなやり取りを昇降口に着くまでの間に数人と交わしながら、私は襟元で揺れているリボンタイを見下ろした。
三月に中学を卒業し、そして半月ほどで高校一年生になって。
六月の誕生日が来ないと歳は取らないけれど、それでも、真新しい制服に身を包めば、それだけでちょっと大人になったような気がする。
それに、中学とは違うブレザータイプの制服は、ますます自分を大人っぽく見せてくれるような感じがするのだ。
そんなくすぐったい感覚を胸に抱いていると、ポンと頭に軽く触れてくる手が。
「高塚、おはよ」
ニコッと笑って挨拶をしてくるのは、たった今私の頭を撫でた男子。
彼は磯崎 千里といって、同じ中学出身。何の偶然か、この高校でも私と同じクラスである。
中学三年で同じクラスになった磯崎君とは、委員も同じになった。
彼の明るい性格もあって他の男子よりも割りと気軽に接することが出来るし、磯崎君も同じように気軽に接してくる。
人懐っこくて、すごく責任感があって、面倒見が良くて、勉強はそれなりに出来る。
運動神経はずば抜けていたから、体育祭の時はいつだってヒーローだった。
オマケに奥二重の切れ長な瞳と適度に通った鼻筋が、羨ましいほどバランスよく配置されている。
ほんのちょっとだけ茶色の柔らかい髪はいつだってまっすぐサラサラで、まるで彼の性格そのもののようだ。
もう少し成長して大人びた雰囲気がそこに加われば、今よりも女子に騒がれる存在になることが簡単に予想できた。
そんな磯崎君に、私は淡い恋心を抱いていたりする。
いつ、どんなきっかけで彼を好きになったのか思い出せないほど、自然に磯崎君が私の心の真ん中にいた。
だけど、天邪鬼で意地っ張りな私は、当然のように彼にはひどい態度で接してばかり。
彼がこうしてコミュニケーションを図ってくれることが本当は嬉しいくせに、私の顔は不機嫌の色に染まり、そして声も不機嫌そのもの。
「いきなり人の頭に触らないでくれる?」
睨み付けるとまではいかないものの、チロリと呆れたような視線を向けてしまう。
私はなんて可愛くないのだろうか。自覚はあるが直せないというところが、本当に手に負えない。
ところが、彼はそんな私に機嫌を損ねた様子もなく、
「だって高塚の髪はいつ見ても綺麗だから、つい触っちゃうんだよ。艶々の黒髪って、憧れなんだよね」
クスッと笑って、こちらに手を伸ばしてきた。
あっと思った時には、彼の手が肩下で切り揃えられている私の髪を再び撫でている。
思わずフルリと首を振って、彼の手を避けた。
「今、言ったばかりでしょ!いきなり触るなって、何回言えば分かるの!?」
このやり取りは、彼と他愛ない会話を交わすようになってから数え切れないほど繰り返してきた。
よく飽きないものだと、私は半ば磯崎君に感心する。そんな彼に毎回同じ反応を返す私も私だけど。
はぁ、と深いため息をついていると、磯崎君は、
「じゃあ、前もって“触らせて”ってお願いしたら、触らせてくれるのか?」
と言ってきた。
そのセリフに、伏せていた顔をバッと上げる。
「触らせないわよ!」
驚きと呆れの入り混じった顔で彼を見遣れば、楽しげに小さく笑う磯崎君。
「だったら、いきなり触るしかないじゃん」
そう言って、また私の髪に手を伸ばしてきた。
運動神経のいい彼の動きに私は反応することが出来ず、再三に亘って触られてしまう。
「いいねぇ、高塚の髪」
「だから、触らないで!何なのよ、もう」
不覚にも髪を数回撫でられてから、私は自分と同じ高さにある彼の瞳を、今度こそ強く睨み付ける。
165センチの私と同じ身長の磯崎君。中学三年で出会った時は、私よりもほんの少し彼の方が高かった。
女の子の方が成長は早いというのは本当らしく、卒業する頃には磯崎君の身長に追いついてしまって。
中学最後の一年間の間に私が4センチ高くなり、彼が2センチ高くなり。そして、今は同じ身長なのである。
すぐそこにある瞳にきつい視線を送れば、磯崎君がヒョイと肩を竦めた。
「そんなに怒らないでもいいのに。俺は褒めたんだよ」
「うるさいわね!」
私はやや乱暴気味に上履きへと履き替えると、ぷいっと顔を背けて歩き出す。
すると背後から、
「仕方がないなぁ」
と、苦笑交じりの小さな声が聞こえた。
―――何が、どう、『仕方がない』のよ……。
友達とお昼ご飯を食べながら、私は磯崎君が言ったセリフを思い返していた。
私に対して言われたセリフだということは分かるけれど、私の何に対して言われたのかはさっぱり分からない。
「高塚さん、どうしたの?ボンヤリして」
私の横に座る菊池さんが声をかけてきた。
「え?」
ハッとして我に返れば、菊池さんと私の正面に座る田岡さんが不思議そうな顔をしている。
「どこか具合が悪いの?」
クリクリとした大きな瞳をジッと向けて、田岡さんが心配そうに訊いてきた。それに慌てて首を振る私。
「どこも悪くないよ。昨夜、お姉ちゃんから借りた推理小説が面白くて、ついつい読み進めて寝不足気味なんだ」
ニコッと笑顔を浮かべれば、
「そっかぁ」
「それならよかった」
と、二人ともホッとした顔になる。
―――友達にはこうして笑顔が向けられるのに、どうして磯崎君にはついついきつく当たっちゃうんだろう。
そんな自分をどうにかしたいのに、どうにも出来ない。
だって、私の気持ちを磯崎君に知られるわけにはいかないから。
彼が私に親しげなのは、きっと、『友達』だからだ。
磯崎君にとっては、私の意地っ張りな応酬が面白くて。だから、彼は顔を合わせるたびにちょっかいを出してくるのだ。
素直になれない私にとって、そんなやり取りでも彼と関われるのが嬉しくて。
だけど、彼のことが好きだと磯崎君に知られてしまったら、もうあんな気安いやり取りをしてもらえなくなる。
それは嫌だ。
磯崎君との関係が切れてしまうのは、絶対に嫌だ。
気を抜いてしまえば、彼に甘えて、自分の気持ちを見せてしまいそうで。だからこそ、私は意地を張り続けるしかないのだ。
―――ホント、私って可愛くないなぁ……。
心配性の友達に気付かれないように、私はソッとため息を漏らした。
その日の午後は身体測定があった。
男子は体育館で、女子は保健室でそれぞれ測定が行われる。
身長を測るスケール台に乗ると、優しいお母さんといった感じの保険医がメモリを読み上げる。
「高塚さんは165,5センチね」
中学三年の冬、保健室で友達と身長を測りあった時より5ミリだけ伸びていた。この伸び率を考えると、そろそろ私の成長期も終わりということかもしれない。
すべての項目を測り終え、私は友達と教室に帰る。
すると、一足先に戻っていた男子たちが身長の話で盛り上がっていた。
この時期の男子にとって、背が高いということが一種のステータスとなる。
見るからに大きいと思っていた浜田君は180センチを超えていたらしく、周囲の男子から尊敬の眼差しを向けられていた。
その他の男子も、170センチを優に超えている人が多い。
中には私よりも背の低い男子もいたけれど、これから成長期が来る男子もいるから、いつの日か私が彼らを見上げることになるだろう。
―――磯崎君のことも、見上げるようになるんだろうな。
そう考えたら、ちょっとだけ気持ちが塞ぐ。
今でさえ、彼のことを秘かな熱い瞳で見つめている女子が何人もいるのだ。
この先見上げるほどスラリとした長身に成長すれば、更に磯崎君に恋をする女子が必ず増える。
そして、そんな女子の中から磯崎君の“彼女”が選ばれるのだろう。私とは違う、素直で可愛い女子が。
そうすれば、彼とはあんなやり取りは出来なくなるのだ。
私は人の恋路を邪魔するほど、肝の座った人間ではないし。
何より、磯崎君だって単なるクラスメイトをからかうよりも、彼女と過ごす時間を優先するに違いない。
そんなことを考えていると、心臓の奥がキュウッと締め付けられた。
放課後になり、合唱部の練習を見学しに行くといって菊池さんと田岡さんが教室を後にする。
他の人たちも彼女たちと同じように部活見学に行ったり、既に入部先を決めた人たちは早々と練習に参加していた。
「私もどこかの部活を見学しないとなぁ」
高校には中学よりも部活動の幅が広く、ただの帰宅部で高校生活を終えてしまうのはもったいない。
運動神経に自信のない私としては、やはり文科系の部活を選ぶべきだろう。
体を動かすことは好きだけど、大会に出場するとなったら、間違いなく他の部員の足を引っ張りかねないからだ。
「磯崎君だったら、どんな運動部でも大活躍なんだろうな……」
一人残った教室で部活一覧が記載されているプリントを眺めながらポツリと呟けば、
「俺が、何?」
と、声がした。
「え?」
顔を上げると、いつの間に来たのか、入り口の扉にもたれかかるようにして立っている磯崎君がいる。
「高塚。今、何て言ったの?」
ほんの少しだけ目元を細め、ゆっくりとした足取りでこちらにやって来る磯崎君。
教室の一番奥にある席に座っている私は、そんな彼に追い詰められているような錯覚に陥った。
「ど……して、ここに……」
驚きに目を丸くして彼の顔を見ていれば、クスッと磯崎君が笑う。
「菊池さんと田岡さんに訊いたら、高塚が一人で教室に残っているっていうから」
「……え?」
どうして磯崎君は私の居場所を訊いたのだろうか。
どうして私が一人で残っていると訊いて、わざわざやって来たのだろうか。
楽しそうに笑う彼の顔をボンヤリと見ているうちに、磯崎君は私のすぐそばまでやってきてしまった。
椅子に座ったままの私を、彼は机に手を着いて正面から眺めている。
「ねぇ、高塚。さっきは何て言ったの?俺の名前、言ったよね?」
立ち上がれない私のことを覗き込むように、磯崎君が静かに上体を倒した。
椅子に座って彼を見上げる私。
そんな私を見下ろす磯崎君。
いつもとは違う位置関係に、トクンと心臓が跳ねる。
ところが、位置が違っても私の意地っ張りは変わらないようで。
私はムッとした顔で、勢いよく立ち上がった。
「磯崎君はあまり背が高くなくて可哀想ねって言ってたのよ!私と変わらないでしょ!」
「そうだね。今日の測定で、166センチって言われた」
「なんだ、私とたった5ミリしか変わらないのね。大して高くもない身長だったら、良い事なんかないでしょ。残念ね!」
と、可愛くないことをつい言ってしまう。
今のはさすがにひどかったな、と内心反省するが、素直に謝ることができない。
いたたまれなくなって、私は机の横に提げていた通学バッグを右手で掴み、その場を逃げるように立ち去ろうとする。
だけど、私が一歩踏み出したところで磯崎君が何も持っていないほうの私の手首をパッと掴んだ。
そのことに驚いて思わず振り返れば、
「良い事ならあるよ」
そう言って、ニコッと笑った磯崎君が静かに顔を近づけてくる。
形の良い彼の瞳がありえないほど近くに見えた時、チュッという小さな音がした。
「ほらね。同じ身長だと唇の位置が同じだから、キスがしやすいだろ」
磯崎君はとても楽しそうに笑うと、掴んでいた私の手首を開放する。
そして、
「じゃぁ、俺、バスケ部の見学に行くから」
にこやかに手を振って、教室を出て行った。