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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

無音参り〜日給3万円、簡単なお仕事です〜

作者: シシモヨウ
掲載日:2026/07/27

2012年10月。


真鍋修司は、単発アルバイトの募集サイトで、妙な求人を見つけた。


【山間部における環境音の録音作業】

未経験者可

所要時間約3時間

交通費込み、日給3万円


仕事の内容は、指定された山中の祠まで歩き、支給されたボイスレコーダーで周囲の音を録音すること。それだけだった。


交通費込みとはいえ、3時間で3万円は明らかに高い。募集会社の名前を検索しても、所在地も事業内容も出てこなかった。連絡先もメールアドレスしか記載されていない。


怪しい。


そう思いながらも、真鍋は応募ボタンを押した。


当時の真鍋は、倉庫や引っ越しのアルバイトを転々としていた。翌月の家賃が払えないほど困っていたわけではない。ただ、まとまった金が簡単に手に入るなら、それに越したことはなかった。


それに、真鍋にはハイキングの趣味があった。


休日になると、電車とバスを乗り継ぎ、知らない山を歩いた。観光地として整備された山よりも、地図の端に名前だけが載っているような場所を好んだ。


今回の目的地も、これまで聞いたことのない土地だった。


応募した翌日、採用を知らせるメールが届いた。

面接も電話もなかった。


指定された日時に、地方駅のコインロッカーから道具を受け取り、同封された地図に従って作業を行うこと。報酬は作業完了の確認後、指定口座へ振り込むと書かれていた。


真鍋は多少の不安を覚えたものの、むしろ気楽な仕事だと思った。誰かと話す必要もなく、山を歩いて、音を録って、帰るだけだ。


当日、真鍋は午前中の電車を乗り継ぎ、昼過ぎに指定された駅へ到着した。


駅舎は小さく、改札を出ても人の姿はなかった。駅前には閉店した商店と、色あせた観光案内板があるだけだった。


指定されたコインロッカーには鍵がかかっていなかった。中には、手のひらほどの黒いボイスレコーダーと、折り畳まれた地図、それから作業手順を印刷した紙が入っていた。


【作業手順】

1.地図に従い、旧黒伏村を通って山中の祠へ向かってください。

2.鳥居の前で録音を開始してください。

3.氏名、日付、時刻を述べた後、「これより参ります」と録音してください。

4.鳥居をくぐった後は、祠に到着するまで声を出さないでください。

5.祠の中にボイスレコーダーを置き、そのまま下山してください。»


最後に、小さな文字で1行だけ追記されていた。


«無音参り(むおんまいり)のため、鳥居より先では必ずお静かに願います。»


無音参り。


初めて聞く言葉だった。

真鍋は携帯電話で検索してみたが、該当する祭りや風習は出てこなかった。


追記については、環境音の中に人の声を入れないためだろうと考え、指示書を折り畳んでポケットへ入れた。


駅から旧黒伏村までは徒歩で1時間ほどだった。

舗装された県道を外れ、草に覆われた細い道へ入り、道の両側には、長く放置された田畑が広がっていた。

やがて、傾いた家々が見えてきた。

窓ガラスの割れた民家。錆びた軽トラック。半分ほど土へ埋もれた郵便受け。人が住まなくなってから、かなりの年月が経っているらしい。


それでも、家の中から誰かに見られているような気がした。


真鍋は何度か振り返った。


もちろん、誰もいない。


廃村を抜けた先で、道は山へ続く細い石段に変わり、その入口に、黒ずんだ木の鳥居が立っていた。


注連縄は腐りかけ、垂れ下がった紙垂が風に揺れている。真鍋は鳥居の前でリュックを下ろし、ボイスレコーダーを取り出した。


時刻は午後4時12分。


山の向こうへ、太陽が沈み始めていた。


録音ボタンを押し、赤いランプが点灯する。

真鍋は指示書を見ながら、ゆっくりと名乗った。


「真鍋修司。2012年10月27日、午後4時12分」


一度、息を吸う。


「これより参ります」


その声が、やけに近く聞こえたが、真鍋は録音を続けたまま、鳥居の向こうへ足を踏み入れた。


---



鳥居をくぐった直後、真鍋は足を止めた。


何かが変わった。


目の前には、それまでと変わらない山道が続いている。細い石段の両側には杉の木が立ち並び、そのさらに奥には、日の光が届かない藪が広がっていた。


風も吹いていた。

梢がわずかに揺れ、枯れ葉が地面を転がっている。

それなのに、音がしない。


鳥居の外では聞こえていた風の音も、遠くの鳥の声も、足元の草むらに潜んでいた虫の鳴き声も、すべてが途絶えていた。


真鍋はボイスレコーダーへ目を落とした。

赤い録音ランプは点灯している。

機械の故障ではない。


自分の右手で左腕の袖を擦ってみる。


サッ。


衣服の擦れる音だけが、耳元で異様に大きく響いた。


その音に驚き、真鍋は慌てて手を離した。

声を出してはいけない。


指示書の一文を思い出す。

理由は書かれていなかった。


しかし今は、単に環境音へ人の声を入れないための注意とは思えなかった。この場所では、声を出さない方がいいと理屈ではなく、身体の奥がそう訴えていた。


真鍋は口を閉じたまま、石段を上り始めた。


ザッ。


靴底が砂を擦る。


ザッ。


次の一歩が、湿った落ち葉を踏む。

周囲が静まり返っているせいで、自分の足音ばかりが目立った。真鍋はできるだけ音を立てないよう、歩幅を狭くした。


そのとき、頭上で何かが鳴った。


しの……。


真鍋は顔を上げた。


杉の枝が、風に押されてゆっくりと揺れている。


しの……しの……。


枝葉の擦れる音なのだろう。


だが、聞いているうちに、そうではないような気がしてきた。誰かが歯の隙間から細く息を吐き、こちらに何かを知らせようとしている。


そんな音だった。


真鍋は視線を戻し、先を急いだ。

石段は途中から崩れ、土の道へと変わっていた。日が傾いたことで木々の影が長く伸び、道の境目が分かりにくくなっている。


しばらく歩くと、今度は右手の林から音がした。


く、く、く……。


真鍋は立ち止まった。


く、く……。


笑い声に似ていた。

声を押し殺して笑う子どものようでもあり、喉を傷めた老人が息だけで笑っているようでもある。


林の中へ目を凝らす。

杉の幹と、黒い藪が見えるだけだった。


く、く、く……。


音は先ほどより近くなっている。

真鍋は「誰かいるのか」と呼びかけそうになり、寸前で口を閉じた。


指示書には、祠へ到着するまで発声を控えるよう書かれていた。ここで声を出せば、作業をやり直すことになるかもしれない。報酬を受け取れなくなる可能性もある。


そう自分へ言い聞かせた。

本当は、仕事の失敗を恐れたわけではなかった。

あの笑い声に返事をしてはいけない…そう感じたのだ。


真鍋は足を速めた。


ザッ、ザッ、ザッ。


自分の足音が続く。

少し遅れて、背後でも落ち葉が鳴った。


ザッ、ザッ、ザッ。


真鍋は立ち止まる。

後ろの音も止まった。

振り返るが、細い山道が、鳥居の方角へ下っているのが見えるだけで、誰もいない。


真鍋は再び歩き出した。


ザッ。


背後からも、


ザッ。


歩幅も、間隔も同じだった。

自分の足音が山へ反響しているだけだ。

真鍋はそう考えようとした。


しかし、音は必ず少し遅れて聞こえる。

反響というより、後ろにいる何者かが、真鍋の歩き方を真似ているようだった。


真鍋はボイスレコーダーを持ち上げた。

画面に表示された音量メーターは、自分の足音に合わせて小さく動いている。

だが、林から聞こえる笑い声にも、背後の足音にも反応していなかった。


く、く、く……。


確かに聞こえている。


それなのに、機械は何も拾っていない。

真鍋はボイスレコーダーから目を離した。

考えてはいけない。

早く祠へ着き、機械を置いて帰ろう。

それだけを考え、山道を上り続けた。


やがて木々の隙間に、灰色の屋根が見えた。


小さな祠だった。


石造りの台座の上に、古びた木造の社が載っている。屋根には枯れ葉が積もり、正面の扉は片側だけ外れかけていた。


真鍋は安堵した。

ようやく着いた。


祠の前まで進み、傾いた扉を静かに開く。

内部には、古い布や札の切れ端に混じって、2台の録音機が置かれていた。


どちらも、現在ではほとんど見かけないカセットテープ式だった。


黒い機体には厚く埃が積もり、金属部分には赤茶色の錆が浮いている。片方の蓋には罅が入り、もう片方は内部に入れられたカセットテープが見える状態で止まっていた。


以前にも同じバイトが行われたのだろうか。

それにしては、機材が古すぎる。


回収するのを忘れたのかもしれない。

真鍋はそれ以上考えず、持参したボイスレコーダーを2台の間へ置いた。


これで作業は終了だった。

声を出さず、指示どおりに祠まで来て、ボイスレコーダーも指定された場所へ置いた。


真鍋はようやく肩の力を抜いた。

日が沈みきる前に下山しよう。

真鍋は祠の扉を閉じ、来た道へ向き直った。


その背後で、


カチッ。


小さな機械音がした。

真鍋は振り返った。


祠の中は暗く、3台の録音機は扉の隙間に隠れて見えない。しばらく待ったが、それ以上の音はしなかった。真鍋は古い機械の部品が動いただけだろうと考え、帰り道へ足を踏み出した。


---



祠から30歩ほど離れたところで、真鍋は足を止めた。


指示書に書かれていたのは、鳥居をくぐってから祠へ着くまで声を出さないことだった。祠には無事にたどり着き、持参したボイスレコーダーも、古い2台のカセットテープ式録音機の間へ置いた。仕事はもう終わっている。ここから先は声を出したところで、指示に背くことにはならない。


それでも、真鍋は口を開けなかった。


山の静けさに自分の声を混ぜれば、どこかで息を潜めているものに、まだここにいると知らせてしまう。そんな根拠のない感覚が、喉を固く閉ざしていた。


日没が近づき、山道は急速に暗くなっていた。上ってきたときには見えていた石や木の根も、黒い地面の中へ沈み始めている。真鍋は足元を確かめながら、来た道を下った。


行きに聞こえた笑い声は消えていた。少し遅れてついてきた足音もない。


何もいなくなったのではない。

こちらの様子を窺っている。

そう思った途端、背後で何かが地面に触れた。


ぬしり。


真鍋の肩が強張った。


ぬしり。


人間の足音ではなかった。水を吸った重い布か、形の定まらない柔らかな塊を、地面へ押しつけながら引きずっているような音だった。


真鍋が歩けば、それも動いた。立ち止まれば、同じように止まる。近づいてはこないが、離れてもいかない。振り返れば何がいるのか分かるはずだったが、真鍋には、見えないままの方がまだ耐えられるように思えた。


声を出さなければ大丈夫だ。

指示どおりに終えた。あとは鳥居を越えるだけだ。

そう言い聞かせながら歩いているうち、今さらのような疑問が浮かんだ。


今回の仕事は、環境音の録音だったはずだ。


それなら、なぜ録音したデータを回収しないのか。山の音を調査するのなら、ボイスレコーダーは依頼主へ返却するべきだ。それを機器ごと祠へ置いてこいという指示は、どう考えても不自然だった。


鳥居の前で、氏名、日付、時刻を録音させられたことも同じだった。


作業日時なら、機器のデータにも残る。それなのに、誰も回収しないボイスレコーダーへ、自分の名前と「これより参ります」という言葉を吹き込まされた。


祠の中にあった、古い2台のカセットテープ式録音機が脳裏に浮かんだ。厚く積もった埃。錆びた操作ボタン。中に残されたままのテープ。


あれは回収を忘れられたものではない。自分と同じ仕事をさせられた者が、同じ指示に従い、祠へ置いていったものなのだ。


録音させられたのは山の音ではなかった。


氏名。

日付。

時刻。


これより参ります、という宣言。


誰が、いつ、この山へ入ったのかを本人の声で残させる。あれは作業記録ではない。祠へ差し出す声に、持ち主の名前を付けるためのものだった。


供え物。

その言葉に行き着いた瞬間、背後の音が消えた。

真鍋も立ち止まった。


山全体が、何かを待つように静まり返っている。

やがて、遠く離れた祠の方角から声が聞こえた。


「「真鍋修司」」


鳥居の前で録音した、自分の声だった。


「「2012年10月27日、午後4時12分。これより参ります。」」


小さなボイスレコーダーから届いているとは思えないほど、声は鮮明だった。木々の間を通ってきたのではなく、山そのものが真鍋の声を覚え、同じ形で吐き出しているように聞こえた。


真鍋は急いで山道を下り始めた。


数歩進むと、また自分の名前が聞こえた。今度は祠より近い。右側の林から真鍋修司と呼ばれ、日付は左手の藪から、時刻は前方の木々の間から流れた。

「「これより参ります」」

という最後の言葉だけが、すぐ背後へ落ちた。


録音された声が文章の形を失い、ばらばらに山道を下ってくる。


声には、真鍋が話したときの緊張も戸惑いも残っていなかった。声の形だけを覚えた何かが、発音を確かめるように、真鍋の名前を何度も口にしている。


真鍋は両手で耳を塞いだ。


それでも、自分の名前は消えなかった。

耳の外からではなく、歯の根元や頭蓋の内側から響いてくる。

耐えきれず、真鍋は叫んだ。


「やめろ!」


声が静まり返った山中へ広がり、木々の奥へ吸い込まれた。


声を出してしまった。


そう気づいた直後、祠の方角から、湿り気を帯びた声が返ってきた。


「もらいうけた」


低く、粘ついた声だった。拾ったものを口へ含み、その味を確かめるような、陰険な喜びが滲んでいた。


「もらいうけた」


真鍋はもう1度叫ぼうとした。口を開き、喉へ力を込める。しかし、空気が漏れるだけで音にはならなかった。喉に痛みはない。舌も動く。呼吸もできる。それなのに、声が出るはずの場所だけが、きれいに抜け落ちていた。


真鍋は何度も口を動かした。助けてくれ、誰か、と叫んでいるつもりだったが、山へ出ていく音はなかった。


声を取られた。


その事実を理解した途端、静まり返っていた林のあちこちから、持ち主を失った声が滲み出した。


「午後5時」「田中です」「水をください」「駅に着きました」「これより参ります」…


若い男、老人、子ども。声質は違っても、どれにも感情はなく、誰かへ伝えようとする意志もなかった。生きていたときに口にした言葉の一部だけが切り取られ、意味を知らないものによって繰り返されている。


その中へ、今の時代には使われない言葉が混じった。


「日が暮れ申した」「庄屋さまへ申し上げる」「馬が戻らぬ」「戸を閉めよ」


さらに奥からは、古い祈りや子守唄の断片、言葉として聞き取れない声まで重なってくる。


祠に残されていた2台のカセットテープ式録音機は、近い時代にも同じ犠牲者がいた証拠にすぎなかった。録音機も電気も存在しなかった頃から、無音参りで奪われた声は、この山へ積み重なっていたのだ。


真鍋が聞いているのは、死者が何かを訴える声ではない。人間から切り離され、祠のものになった音だった。


真鍋は両手で耳を塞ぎ、山道を駆け下りた。


薄暗い山道で木の根に足を取られ、濡れた落ち葉の上で何度も身体が傾いた。枝が頬を打ち、葉先が首筋を掻いたが、立ち止まることはできなかった。


耳を塞いでも、奪われた声は消えない。頭蓋の内側へ染み込むように、現代の言葉と古い声が入り交じって聞こえてくる。


真鍋は意味を考えないようにした。誰の声なのか想像しない。自分の声が、すでにあの中へ混ざっていることも考えない。


鳥居を越えれば助かる。


声は失ったとしても、山の外へ出ることさえできれば、病院にも警察にも行ける。依頼主から届いたメールも、ロッカーに入っていた指示書も残っている。


真鍋は必死に、山とは関係のないことを考えた。

駅までの道。帰りの電車。3万円の報酬。明日入っている倉庫の仕事。


だが、耳を塞いだことで、外から聞こえていた声よりも、自分の身体の内側で鳴る音の方がはっきりしてしまった。荒い呼吸が頭蓋の奥で膨らみ、その下から、恐怖と疲労で速くなった鼓動が胸を内側から叩いている。


真鍋は、これは音ではなく、ただ身体が動いている感覚なのだと思い込もうとした。駅までの道や帰りの電車、明日の仕事を無理に思い浮かべたが、意識を逸らそうとするほど、胸の奥で鳴るものだけが鮮明になっていく。


【心臓の音が、うるさい】


そう思った瞬間、真鍋は、自分がそれを自分の音として認識してしまったことに気づいた。


すぐ後ろから、湿った声が耳元へ触れるように囁いた。


「もらいうけた」


次の鼓動は鳴らなかった。


胸の奥に、音が来るはずだった間だけが残り、真鍋の身体は力を失って山道へ倒れ込んだ。声はすでに奪われているため、助けを呼ぶことも、恐怖を吐き出すこともできない。


そのまま意識が薄れていくはずだった。


だが、倒れた真鍋のすぐそばで、失われたはずの鼓動が鳴った。

落ち葉の上でも、地面の下でもない。何かが真鍋の顔の近くへ身を寄せ、奪った音を抱えたまま聞かせているような近さだった。


鼓動はゆっくりと耳元へ移り、冷たく湿ったものが頬へ触れた。見えない何かが、自分から奪った心臓の音を楽しむように、すぐ隣で鳴らしている。


真鍋は目を見開いたまま、その音を最後まで聞かされた。


---



それから7年後の2019年、真鍋が応募したものとほとんど同じ内容の求人が、別の会社名で単発アルバイトの募集サイトに掲載された。


応募したのは、心霊スポットや廃墟を巡る動画を配信していた若い男だった。配信だけで生活できるほどの人気はなく、廃村へ向かう様子をライブ中継したその夜も、同時に見ていた者は30人に満たなかったという。


男は地方駅のコインロッカーから、地図、指示書、デジタル式のボイスレコーダーを取り出すところから配信を始めた。


交通費込みで日給3万円。廃村を抜けて山中の祠へ向かい、鳥居の前で氏名と日時を録音した後、祠まで声を出さずに歩く。到着したらボイスレコーダーを置き、そのまま下山する。


男は怪しげな仕事を見つけたと笑い、鳥居の前で自分の名前と日付、時刻を吹き込んだ。


「これより参ります」


鳥居をくぐった後は、声を出してはいけないという条件そのものを配信の見せ場にして、表情や身振りだけで山の異変を伝えた。風があるのに木々の音が聞こえないこと、林の奥から笑い声のようなものがすること、歩くたびに少し遅れて足音がついてくることを、携帯電話の画面へ何度も示した。


映像を見ていた者たちには、男が訴えている音のほとんどが聞こえなかった。


演出ではないかというコメントが流れていたが、男が祠の扉を開けたところで、書き込みは急に少なくなった。


中には、古いカセットテープ式録音機が2台と、小型のデジタル式ボイスレコーダーが1台置かれていた。


男はその隣へ自分の機器を置き、両手を広げて任務完了を示した。何も起こらなかったことに安心した様子で笑い、来た道を戻り始めた。


異変が起きたのは、その直後だった。


配信映像の奥から、男自身の名前と日時を読み上げる声が聞こえた。男は何度も振り返り、祠へ置いてきたはずのボイスレコーダーが再生されているのだと身振りで訴えた。


声は少しずつ近づき、やがて林の左右や男のすぐ背後から、名前だけを途切れ途切れに繰り返すようになった。耐えきれなくなった男が悲鳴を上げると、映像の外から、湿った声が入った。


「もらいうけた」


それ以降、男の声は配信に入らなかった。


男は喉を押さえたまま山道を走り、何度も転びながら鳥居を目指した。途中からは、映像の周囲に誰もいないにもかかわらず、複数の人間の声が音声へ混じり始めた。現代の名前や時刻に、古い言葉、祈りの一節、意味の分からない発声が重なり、どの声も感情を失った同じ調子で流れ続けた。


やがて男は立ち止まり、胸を押さえた。


唇の動きを見た視聴者の1人が、心臓の音がうるさいと言っているのではないか、とコメントした。


その直後、男のすぐ近くから声が聞こえた。


「もらいうけた」


男は崩れるように倒れ、携帯電話は地面へ落ちた。映像は濡れた落ち葉を映したまま動かなくなったが、配信はしばらく続いていた。


画面の外では、男の身体から離れた場所で、激しい鼓動が鳴っていた。


視聴者の通報を受けた警察は、翌朝、廃村と山中の祠を捜索した。


男の遺体は、鳥居まであとわずかという場所で発見された。


祠の中からは、1998年、2005年、2012年、2019年に持ち込まれたとみられる4台の録音機が押収された。最初の2台はカセットテープ式で、その後の2台はデジタル式のボイスレコーダーだった。


捜査が進むにつれ、廃村となった後の1998年以降、7年ごとに3人が同じような単発求人へ応募し、そのまま行方不明になっていたことが判明した。真鍋、またカセットテープを置いたであろう過去の2人は未だに見つかっていないのだ。


バイトの掲載元の会社名は毎回異なっていたが、報酬の送金記録やメールの通信履歴をたどった結果、仕事を手配していた複数の元村人が特定された。


彼らは村を離れ、各地で別々に暮らしていた。それでも7年目が近づくたびに連絡を取り合い、架空の会社や担当者を用意し、廃村と何の関係もない人間を1人だけ山へ送り込んでいた。


事情を聴かれた元村人たちは、ほとんど抵抗せず、4人を山へ送ったことを認めた。


無音参りについて記された文献や村の公的記録は見つからなかった。元村人たちの証言によれば、儀式は記録が残るよりも古い時代から、7年ごとに行われていたという。


本来の無音参りは、人間の命を差し出すものではなかった。


参る者に自らの声や呼吸、足音を意識させ、それらを複数の祭具と役目を担う者たちによって分け、決められた順序で祠へ納める。正式な手順が守られていた頃は、音が人間の身体から直接奪われることも、参った者が命を落とすこともなかった。


しかし廃村によって祭具は散逸し、手順を知る者もいなくなった。


それでも元村人たちは、参る者を自分自身の音へ集中させるという部分だけを残した。


なぜ録音機を持たせたのかと問われた元村人の1人は、取り調べの中でこう供述したという。


「村人の声はとっくに認知されてますから…村の中の人間で無音参りしてた際は必要のないものでした。部外者なので、はじめての方々の声をお届けするために持たせました。まあ、お供えとの意味もありますが…それだけではありません」

「本当に重要なのは行った人間に、自分の音を意識させるためです。声を録らせれば、自分が話した言葉を気にする。声を出すなと書けば、声を出さないことばかり考える。静かな山を歩けば、そのうち足音も息も、最後には胸の中の音まで聞こえてくる」


正式な納め方を失ってから、儀式を行えば必ず犠牲者が出た。


それでも1人の人間を犠牲にすれば、その後の7年間は、平穏を奪われることはなかったのだという。


「無音参りを行わなければどうなるのか」、「何が起きるのか」と尋ねられても、元村人は長い間口を閉ざした。その後、唯一語ったことは「全てが奪われる、奪われて終わりではない」だった。


元村人たちが、その後どのような罪に問われ、どのような処分を受けたのかについても、報道は詳しく伝えなかった。2019年の配信者より以前の、真鍋と過去の2人、計3人については死体遺棄など村人の関与は認められず、山に入った形跡はあるが出た形跡がない。元村人も、その件については本当に知らないようで「いつも勝手にいなくなっている」と証言する。

求人によって人を山へ送り込んだ事実はあっても、声や鼓動を怪異に奪わせたという話について、現在の司法がどのような判決を下せるのだろうか。


2019年の元のライブ配信は、間もなく動画サイトから削除された。


配信を録画したという映像もいくつか出回ったが、その多くは途中で音声が途切れており、本物かどうか判断できるものは残っていない。


やがて事件そのものも、廃村を利用した異常な犯罪、あるいは作り込まれた心霊配信として忘れられていった。


ただ、あの夜、配信を見ていた視聴者の1人だと名乗る人物が、数年後、匿名の掲示板へ妙な書き込みを残したという噂がある。


配信者が倒れた後も、画面の外で鳴っていた鼓動を、自分はずっと覚えている。あれから毎年、同じ時期になると、誰もいない場所で自分の名前を読み上げる声を聞く。最初は遠くからだったが、年を追うごとに近づいており、最近では、自分の方があの廃村へ引き寄せられているような気がする、と。


その投稿が本当に存在したのかは分からない。


元の文章は削除され、現在残っているのは、それを読んだという者たちの曖昧な記憶だけである。


配信が行われたのは2019年の秋だった。

無音参りが行われていた周期は7年。


2019年の7年後…つまりは2026年が次の無音参りが実施される年となるが…今年は、無音参りの求人は出ないであろう。

廃村に続く、山道は立入禁止となり、祠の周囲にも封鎖が施された。もう同様の結末をたどる「1人」の被害者はいなくなるであろう…7年で1人だけの犠牲で済むことはなくなるのである…


---


この話をお読みになりありがとうございました。どうか、異変を感じ…また、もし何か聞こえても、音の正体は確かめないでください。


自分の声が出るか試さないでください。息を止めて静かになったか確かめたり、胸へ手を当てて鼓動を数えたりもしないでください。


どうか、自分の音に集中しないでください。


それが自分の音だと気づいた瞬間、向こうにも聞こえてしまいます。

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