第八章 冬の訪れと心の距離
一
十一月、東京にも秋が深まってきた。
みずははこの季節が少し辛そうだった。空気が乾燥すると、皿の水が蒸発しやすくなる。エアコンの暖房を使えばさらに乾燥する。
「加湿器、買おう」と僕は言った。
「大丈夫です、気を付けますから」
「気を付ける、じゃなくて、環境を整えた方がいい。農業でいうと、植物に『頑張れ』って言うより、ちゃんと水をやる方が確実」
みずはは少し考えた後、「……では、お願いします」と言った。
加湿器を買ってきて、リビングと、みずはが使っている部屋に置いた。
「どのくらい効果がありますか?」
「試してみよう」
しばらくすると、みずはが「……気持ちいいです」と言った。
「よかった。これで冬も乗り越えられる」
「悠太さんが来るまでは、こういうことを考える人がいなかったです」
「自分だけで生活してると、自分が何を必要としているか気づきにくいから」
「……そうなんですか」
「うん。人って、誰かがいることで、自分が必要なものに気づくことがある」
みずはは少し黙った。
「悠太さんは」
「うん?」
「悠太さんは、私が来ることで……何かに気づきましたか?」
少し考えた。
「一人暮らしを全く孤独に感じなかったのは、みずははのおかげだと思う」
「孤独を感じなかった?」
「うん。誰かが家にいるって、こんなに違うんだなと思った。みずはが料理してると、帰るのが楽しみになるし」
みずははまた少し赤くなった。「……ご飯が楽しみなんですか」
「ご飯も。それ以外も」
「それ以外って?」
「帰ったら話す人がいるとか、今日あったことを話せるとか、そういうの」
みずははじっと僕を見た。「……それは、私も同じです」
「そう?」
「悠太さんが帰ってくると……今日どうだったか、聞きたいと思っています」
「聞いてくれていたじゃないか」
「はい。でもそれが……嬉しいんです。あなたが話してくれることが」
その言葉は、素直で柔らかくて、少しだけ胸が痛かった。
(痛いってどういうことだ、僕の胸は)
「じゃあ今日もいっぱい話しよう」と僕は言った。
みずははちょっとほっとした顔をして、「はい」と言った。
二
クリスマスが近くなった頃。
圭介から連絡が来た。
『悠太、クリスマスパーティするから来ない? 近くの友達十人くらいで』
「どうする?」と僕はみずはに聞いた。「一緒に行く?」
「パーティ……人が多いですか?」
「十人くらい」
みずはは少し考えた。「……帽子がある、帽子があれば行けます」
「無理しなくていいよ?」
「行きたいです。クリスマス、よく知らないので」
「クリスマスを知りたい?」
「テレビで見ますが、どんなものかと」
「じゃあ一緒に行こう。圭介も気さくなやつだから大丈夫」
圭介のアパートに行った。
集まっていたのは圭介の友人たちで、みんな工学部や理学部の学生だった。みずははニット帽をかぶり、最初は隅にいたが、圭介が積極的に話しかけてくれた。
「みずはちゃん、悠太から聞いてたよ。えと、カッパ?」
「はい」とみずはは答えた。「カッパと人間のハーフです」
「へえ! すごい! 見せてもらっていい?」
「圭介、それを聞くか」と僕は言った。
「だって気になるじゃん。見てみたい」
みずははちょっと考えた後、帽子をわずかに持ち上げて、皿を少し見せた。
「おお……」と圭介が言った。「本物だ」
「本物です」
「かっこいい! なんか……サメとかイルカの背びれみたいな感じ? 存在感がある」
「……カッパの皿を、そういう風に言ってもらったのは初めてです」
「かっこよくない? 俺は好きだよ、そういうの」
みずはは少し驚いたような顔をした。圭介はあっけらかんとしていて、みずはには接しやすいタイプだったらしい。
パーティは楽しかった。みずははケーキのイチゴを「甘いですね」とやや真剣な顔で食べ、シャンパン(ノンアルコール版)を「ぶくぶくします」と不思議そうに飲み、クリスマスソングに「なんか魚が集まってくる感じの音楽ですね」と謎のコメントをした。
帰り道。
「楽しかった?」
「……はい。人が多くても、ちゃんと楽しめるんですね」
「みずははどんどん外に出られるようになってる」
「……悠太さんがいるからです」
「そう?」
「はい。一人だったら、行けなかったと思います」
「でも自分で行きたいって言ったじゃないか」
「行きたいと思えたのが……変わったんです、最初から」
みずははそっと顔を向けた。「悠太さんが来てから、外に行きたいと思えるようになりました」
「それは……良かった」
「……はい」
二人で夜の道を歩いた。クリスマスの街灯が瞬いていた。みずはの帽子に、小さな光が反射していた。
(こういう時に、なんか言えればいいのに)
でも言葉が出てこなかった。農家育ちは口が器用ではない。
結局、何も言えずに家に帰った。
三
年が明けた。
お正月、みずははお雑煮を作った。あまり食べたことがないはずなのに、どこで覚えたのか、具沢山の美味しいお雑煮だった。
「どこで覚えたの?」
「テレビです。時代劇でお正月の回があって」
「時代劇でお雑煮を?」
「はい。美味しそうだったので、研究しました」
「研究……」
「料理は、研究が必要だと思います。科学みたいなものなので」
「農学部っぽい考え方だ」
「農学部ですか? 私は農学部ではありませんが」
「思考の話。みずはは科学的に料理してる」
「……嬉しいですね、それは」
元日の朝、電話が来た。実家からだった。
母が「悠太、帰ってこなかったのはどういうわけ?」と聞いた。
「いや、色々と事情があって」
「事情って何? 彼女でもできたの?」
「違う違う、同居人がいるというか」
「え? 男? 女?」
「……女の子です」
電話口の向こうで、沙希が「やっぱり!!!」と叫ぶ声が聞こえた。
「違う違う」
「どういう関係なの?」と母が聞いた。
「えと……大家に頼まれてというか」
「大家に?」
「訳あり物件で、もともとそこにいた子で」
「訳あり物件……」
「気を付けて聞いてほしいんだけど」
「なに?」
「カッパです」
沈黙。
「……カッパって、あの?」
「頭に皿がある」
「……じいちゃん! じいちゃんちょっと来て!」
電話口が騒がしくなり、祖父が出てきた。
「悠太か」
「じいちゃん、あのさ」
「カッパと一緒にいるんか」
「え、なんで知ってるの?」
「わかるじゃろ。前に言っただろ、妖怪と仲良くしろと」
「あれ、まさかじいちゃん何か知ってたの?」
「知っとったというより……そういう縁がある子じゃと思っておった」
「縁?」
「まあ良かった。その子に、長良川に遊びに来いと伝えておけ」
「え、じいちゃん、カッパを家に呼ぶの?」
「なんが悪い。ウチは農家じゃ、水は大事にするもんじゃ」
祖父の言う「縁」の意味は、正直まだよくわからなかった。




