第六章 皿の上の秘密
一
八月。
夏休みに入った。
僕は帰省するか少し迷った後、帰省しないことにした。理由はみずはだ。
「みずはは、夏休みどうするの?」と聞いたら、「特に予定はありません」と返ってきた。その声が少し寂しそうだったのが気になった。
「じゃあ、どこかに行ってみようか」
「え?」
「二人で。近場でもいいし、少し遠出してもいい」
みずははまた少し驚いた顔をした。「……私は、外が苦手です」
「皿の件があるから?」
「それもありますが……人が多いところは、慣れていなくて」
「じゃあ人が少ないところ。海か山か川か」
「川が……好きです」
「川に行こう」
「え?」
「東京から日帰りで行ける綺麗な川、調べてみる。奥多摩とかどうかな」
みずははしばらく考えた。「……奥多摩は、知っています。水が綺麗だと聞きました」
「行ってみる?」
「……行ってみたいです」
少し照れた顔で言った。
二
奥多摩に行った。
電車で一時間半ほど。みずははニット帽をかぶり、帽子が不自然に見えないように農業用の日除け帽子(広いつばのあるもの)を持っていくことにした。「こっちの方が自然かもしれません」とみずはが言い、確かに川に行くなら日除け帽子は普通だ。
電車の中でみずははずっと窓の外を見ていた。青梅を過ぎると山が多くなり、川が見え始める。
「……多摩川、ですか?」
「そう。奥多摩に行くほど上流になって、水が綺麗になる」
「きれい……」
みずはの目が少し輝いた。川を見ると表情が変わる。それはいつもそうだ。
奥多摩の川べりに降り立つと、みずははしばらくぼーっと川を見ていた。
「……気持ちいいです」
「水の音が?」
「全部。音も、空気も、水の匂いも」
「喜んでもらえてよかった」
みずはは帽子を少しずらして、皿に川の風を当てていた。幸せそうだった。
昼間は川べりを歩いたり、石の上に座って弁当を食べたりした。みずははサンドイッチと焼き鮭のおにぎりを作ってきていた。焼き鮭は絶品だった。
午後、人が少なくなった頃。
「悠太さん、少しだけ目を閉じてもらえますか」とみずはが言った。
「え? なんで?」
「川に入りたいんです。少しだけ」
「ああ、うん。見てない振りするよ」
みずはは川に入った。水音がした。それからしばらく静かになった。
「……開けていいですよ」
目を開けると、みずはが腰まで川の中に立っていた。帽子は岸の石の上に置いてあり、頭の皿がはっきり見えている。皿が太陽の光を受けて、わずかに光っていた。
「皿、光るんだ」
「……晴れた日の川の中では、光ります。皿の水と外の光が混ざって」
「きれい」と僕は言った。
みずはははっとして、少し赤くなった。「……皿のことをきれいと言う人は、初めてです」
「本当のことだよ」
みずはは少し川の中を歩いた。水の抵抗を感じさせないように、すっと動いた。カッパだから水に馴染んでいる。当然といえば当然だが、見ていると自然と見とれた。
「みずは」
「はい?」
「楽しそうだ」
「……楽しいです」
「よかった」
「悠太さんも、入りますか?」
「ちょっと待って、靴脱がないと」
「じゃあ待っています」
二人で川に入った。冷たかったが、八月の暑さの中では気持ちよかった。みずははやっぱり水の中では動きが軽やかで、僕より足が速かった。
「やっぱりカッパだな」と言うと、みずははちょっと笑った。「ありがとうございます」
「カッパを褒めたつもりだったけど、ありがとうって言うのか」
「カッパでよかったと、今日は思うので」
その言葉は、なんかじんわり温かかった。
三
帰りの電車の中。
みずははうとうとしていた。川遊びで疲れたのか、ゆっくりと目が閉じていって、やがて僕の肩に頭をもたせかけてきた。
帽子を被っているが、皿の形が帽子の上に浮き出ている。隣に座っているおじさんが一回それを見て、二度見して、でも何も言わなかった。東京の人はそういうところがある。
みずははすやすや寝ていた。
「……みずは」
答えない。寝てる。
「カッパと人間のハーフで、一人で出てきて、五年間一人で過ごして……大変だったろうな」
小声でつぶやく。答えは来ない。
窓の外に夕焼けが広がっていた。オレンジ色の光が電車の中に射し込んで、みずはの頬を照らしていた。
(きれいな人だな)
メガネを少し直す。
(カッパに何を思ってるんだ、僕は)
でもそれは、カッパだからどうこうという話ではない気もした。
みずははただ、一人で頑張ってきた女の子で、少しずつ人に心を開いて、今日は川で幸せそうに笑っていた。それだけのことで、十分だった。
電車は杉並へと向かった。




