第五章 梅雨とカッパとタコ焼き
一
五月が過ぎ、六月に入ると梅雨が来た。
梅雨はみずはにとって天国だった。
毎日雨。毎日しっとり。毎日機嫌がいい。
「みずは、雨の日は顔が違う」と僕は言った。
「そうですか?」
「いつもより表情が豊かになってる」
「……雨が好きなので」
「どのくらい好きなの?」
みずはは少し考えて「雨の日は、全部が好きです」と言った。「音が好きです。匂いが好きです。皿の水も補充されるので」
「雨が直接皿に入るの?」
「はい。一番おいしい水です」
「雨水が?」
「雨水は……空気の匂いがして、川の匂いがして、とても好きです。悠太さんには味がわかりますか?」
「水の味はあまり」
「そうなんですか」みずはは少し残念そうだった。「水の味は面白いのに」
「みずはが感じてること、教えてくれればわかる気になる」
みずはははっとしたように僕を見た。それから少し笑った。
「……じゃあ、今度雨水を取って、飲んでみてください」
「飲んでみる」
「感想を教えてください」
「うん、教える」
そういう他愛ない約束を、僕たちはよくした。
梅雨の季節、みずはは洗濯物を干す時に傘を持っていかない(雨の日なのに)。近所の公園の水たまりに喜んで入る(靴が濡れる)。窓を開けて雨音を聞きながら料理する(台所に雨が入る)。
「みずはって、カッパっぽいな」と思わず言ったことがある。
みずははちょっと不満そうに「カッパだからです」と言った。
「そりゃそうか」
「悠太さんは雨が嫌いですか?」
「嫌いじゃない。農家だから、雨は恵みのイメージが強い」
「農家と河童は、水の感覚が似てるかもしれませんね」
「確かに。どちらも水がないと困る」
「……悠太さんは、私が水に困っている時に、水を持ってきてくれます。農家みたいです」
「農家みたいって、どういう意味?」
「水が大切なものだと知っている人みたいです」
良い言い方だなと思った。
二
六月の中旬。
高橋・さくら・田中の三人組が、部屋に遊びに来ることになった。
「やばい」と僕は思った。
「みずは」
「はい」
「今日、大学の友達が来る。どうする?」
みずはは少し緊張した顔になった。「……私は、いない方がいいですか?」
「嫌じゃなければいてほしいけど、皿が……」
「帽子があります」
「帽子で隠せる?」
「屋内なら……帽子が自然ではないかもしれませんが」
「病気で帽子が必要な人、って言おうか」
みずははちょっと考えた。「嘘はつきたくないです」
「じゃあ正直に言う?」
「……頭の皿があると言ったら、どう反応しますか?」
「うちの友達なら、まあ、そのうち受け入れると思う」
「そのうち」
「最初は驚くかもしれないけど、悪い人たちじゃないから」
みずはは少し黙った後、「帽子で隠して、様子を見ます。それで大丈夫そうなら……正直に言っても、いいかもしれません」と言った。
「うん、それで行こう」
友人三人が来た。
みずははニット帽をかぶり、リビングにいた。自然に見えるか心配だったが、みずはは案外平然としていた。人間への警戒心が強いと思っていたが、それは外出の時であって、家にいる時はある程度落ち着けるらしい。
「この人が同居人?」と高橋が聞いた。
「うん。みずはって言います」
「へえ、かわいいじゃん」と高橋が無遠慮に言った。
「高橋ちょっと黙って」とさくらが言った。
「あ、すみません。高橋陽介です」
みずはは小さく頭を下げた。今日は特に、お辞儀の角度を浅くしている。皿への意識だ。
「タコ焼き、買ってきた」と田中が袋を持ち上げた。「近くに美味しい店あったから」
「タコ焼き!」みずはが少し目を輝かせた。「食べたことあります、タコ焼き」
「好き?」と田中が聞いた。
「好きです。タコが好きなので」
「タコ好きなんだ」
「水の中の生き物が、全般的に好きです」
会話はなんとなく続いた。みずははあまり多く話さなかったが、それでも時々質問に答えたり、相槌を打ったりしていた。さくらが「植物は好き?」と聞くと「川の藻類が好きです」と答え、そこから水草の話で少し盛り上がった。
食べ終わった頃、高橋が「ところで」と言った。
「その帽子、ずっとかぶってるの? 暑くない?」
「……少し、暑いですが」
「なんかこだわりある? えっと、よく帽子かぶる人って……」
「高橋」と僕が言った。
「なに」
「帽子の理由、聞いてもいい?」とみずはに向けて言った。「正直に言って大丈夫だと思うけど、みずはが決めていい」
みずはは三人を見た。三人はそれぞれ、特に悪意もなく、ただ普通に目を向けていた。
みずははゆっくり帽子を取った。
頭の皿が現れた。
三人が一斉に固まった。
「……頭に、皿があります」とみずはは言った。
沈黙。
「……え?」と高橋が言った。
「カッパと人間のハーフです」
「……え?」
「え?」
三人の「え?」が重なった。
「嘘でしょ」と田中が言った。
「本当です」
「触っていい?」
「田中、触るな」と僕が言った。
「そうだよ」とさくらが言った。「失礼でしょ」
「でもマジで皿あるじゃん」
「見たらわかる」
「え、ちょっと待って、整理させて」高橋が額に手を当てた。「カッパって本当にいるの?」
「います」とみずはが答えた。
「この部屋に住んでたの?」
「はい。五年間」
「悠太、知ってたの?」
「引っ越し初日に発覚した」
「引っ越し初日に? そりゃびっくりしたろ」
「まあ」
「でも一緒に住んでるの?」
「うん」
「……悠太って、メンタル強いのか鈍いのかよくわからん」
「農家育ちだから」
「農家ってそんな感じなの?」
「うちの実家は特殊かもしれない」
みずはは三人を見ながら、少し緊張した顔をしていた。「……迷惑でしたか?」
「迷惑じゃないよ!」とさくらが首を振った。「ただびっくりした。でも、えと……普通にいい人だなとは思ってたし」
「川藻の話、面白かった」と田中が言った。「農家出身の俺も、そっちの方の知識はなかったし」
「……そうですか」みずははちょっと安堵した顔になった。
「皿の水、乾いたりする?」と高橋が聞いた。「補充するの大変じゃない?」
「夏は少し大変です」
「エアコンの風で乾いたりする?」
「しやすいです」
「じゃあエアコンつける時は言って。加湿器も使った方がいい?」
「え?」
「なんか対策あるかなと思って」
みずははちょっと目を丸くした。それから「……ありがとうございます」とお辞儀しかけて、途中で止めた。頭を少し下げるだけで留めた。
その日から、高橋たちは普通にみずはを「みずはちゃん」と呼ぶようになった。
三
七月になり、暑くなってきた。
「エアコン、つけていい?」と僕は毎回みずはに聞くようになった。
「はい、でも風向きを……こちらには向けないでいただけますか」
「了解」
エアコンの風向きを微妙に調整するのが夏の日課になった。
みずははますます料理が得意になっていった。もともと魚料理は抜群だったが、僕が農家の知恵を伝えるうちに、野菜料理の技術も上がっていった。きゅうりの叩き方、ナスの揚げ方、ピーマンの種の取り方。
「なんでこんなことを知ってるんですか?」とみずはは聞いた。
「農家に育つと、野菜の扱いは小さい頃から覚えるから」
「じゃあ、お米のことも詳しいですか?」
「それはもちろん」
「炊き方を、教えてください。私の炊き方より美味しくなりますか?」
「なるかどうかわからないけど、試してみよう」
米の炊き方レクチャーを始めた。洗い方(研ぎすぎない)、浸水時間(夏は三十分)、水加減(米の種類による)、炊き上がりの蒸らし(十分は待つ)。
「なるほど」とみずはは真剣に聞いた。「蒸らす、というのが重要なんですね」
「そう。蒸らすことで水分が均一になる」
「水が均一に……なるほど。私は水のことを考えていたようで、米に関する水の使い方は考えていませんでした」
「米は水管理が命なんだよ、農業でも料理でも」
「農業と料理は似ているんですね」
「根本は同じだと思う。どちらも自然と向き合う作業だから」
みずははこくんと頷いた。「……悠太さんは、好きなんですね、農業のこと」
「大好き。だから農学部に来た」
「将来は?」
「田舎に帰って、農業をしたい。でもせっかく農学部に来るんだから、何か新しいことを学んで、地元に活かせることをしたい」
「地元に帰るんですか」
「うん。東京は好きだけど、田舎が好きだから」
みずはは少しだけ間を置いた。「……私は、行ったことがない場所が多いです」
「どこに行ってみたい?」
「川の多いところ。山の多いところ」
「それ、うちの実家あたりにある」
みずははちょっと目を丸くした。「……そうなんですか?」
「岐阜の山のほうはかなり川が綺麗だよ。長良川とか、支流も多いし」
「長良川……名前を聞いたことがあります。とても綺麗な川だと」
「カッパ界では有名なの?」
「はい、清流として……憧れている河童が多いです」
「じゃあ、いつか見に来る?」
みずはは少し驚いた顔をした。それから「……いつか、機会があれば」と言った。
その「いつか」が、思ったより早く来るとは、この時は知らなかった。




