第四章 大学生活と謎の訪問者
一
四月になった。
大学が始まった。
農学部のキャンパスは緑が多く、実習農場もあり、僕の田舎感覚に比較的優しかった。岐阜から来たと言うと「どこ?」と聞かれることが多かったが、それはいつものことだ。
クラスメイトは個性豊かだった。
特に仲良くなったのは、同じ農学部の三人組。
高橋陽介:埼玉出身。背が高くてよくしゃべる。農業経営学専攻志望で、将来は農業ビジネスがしたいと言っている。
中村さくら(なかむらさくら):神奈川出身。理系女子で、植物病理学に興味があるらしい。無口に見えて、植物の話になると突然うるさくなる。
田中大樹:北海道出身。僕に次いで田舎出身で、「東京は家が狭すぎる」と言い続けている。土壌学専攻志望。
「お前、杉並区に住んでるの?」と高橋に言われた。「良い場所じゃん。家賃どのくらい?」
「二万円」
「はあ?」
「一LDKで二万円」
全員が沈黙した。
「……訳あり?」とさくらが静かに言った。
「まあ……多少」
「幽霊?」
「幽霊じゃない」
「なんか出てくる系?」
「まあ……出てきたかな」
「嘘でしょ」と田中が言った。「何が出てきた?」
「言いにくい」
「なんで言いにくい?」
「信じてもらえる自信がない」
三人が顔を見合わせた。「怖い物件に住んでるのに、なぜか全然怖くなさそうなのが一番怖い」と高橋が言った。
結局、「同居人がいる」とだけ伝えた。詳細は省いた。
二
大学から帰ると、部屋に見知らぬ男がいた。
玄関を開けた瞬間、リビングから話し声がした。みずはの声と、あと一人、低い声。
「……おじゃまします?」
リビングのドアを開けると、みずはがソファに正座し、向かいに中年の男が胡坐をかいて座っていた。
男は五十歳前後に見えた。黒ずくめの和服(といっても汚れた甚平みたいな感じ)で、髪はぼさぼさ、顔に大きなアザがある。しかし目はぎらっと鋭い。
「だれ?」と僕は言った。
男はちらっと僕を見た。「お前が新しい人間か」
「はい」
「みずはをよろしく」
「はい……あの、どちら様ですか?」
みずはが立ち上がった。「河童の叔父です」
「叔父?」
「はい。父の弟で、隅田川のあたりに住んでいます」
叔父。カッパの叔父。隅田川在住。
「河童」と叔父は言った。「武川 隆。みずはの様子を見に来た」
「ああ……はじめまして。片桐悠太です」
「知ってる。大家から聞いた」
「大家から?」
「うちらのコミュニティは狭いからな」
うちらのコミュニティ。妖怪界隈の話か。
「みずはをいじめてないだろうな」と武川が言った。
「いじめてないです」
「変なことしてないだろうな」
「してないです」
「嫌がらせとかしてないだろうな」
「してないです」
「ならいい」
武川はそう言ってお茶を一口飲んだ。みずはが淹れたのだろう。
「カッパとの暮らし、どうだ」と武川が聞いた。
「まあ、普通です。みずはが料理してくれるので助かってます」
「みずはは料理うまいか?」
「魚料理は特に」
武川はふんと鼻を鳴らした。「その才能はお兄さん(みずはの父)から来てる。あいつも料理が好きだった」
みずはが少し目を伏せた。
父の話は、みずはにとってデリケートな部分らしい。
「……お父さんは、今は?」と僕は恐る恐る聞いた。
「川に戻った」と武川は言った。「カッパは人間とは長くいられんのだ。みずはの母親と暮らしていたが、最終的には川に帰った。みずはが生まれて三年後くらいかな」
「みずはさんが覚えてる年齢じゃない」
「ああ。でも良いやつだった、俺の兄は。ちゃんとした男だ」
武川は腕を組み、みずはを見た。
「お前、ここで大丈夫か」
みずはは少し考えた後、「はい」と答えた。
「人間と暮らしてみてどうだ」
「……思ったより、普通です」
「人間が怖くないか」
「悠太さんは怖くないです」
武川はちらっと僕を見た。「なんかしたのか、お前」
「特には何も。普通にしてただけで」
「普通にしてた、ね」武川は少し笑った。笑うと少し人相が柔らかくなった。「みずはが人間を怖くないと言ったのは初めてだ。そういう意味では良い男じゃないか」
「ありがとうございます」
「ちゃんと面倒みてやれよ」と武川は言った。「あいつは強いように見えて、寂しがりなんだ。一人が得意なふりをするが、本当はそうじゃない」
みずはが「叔父さん!」と顔を赤くして言った。
「本当のことだろ」
「そういうことは言わなくていいです!」
「言っとかんと人間にはわからん。お前と違って察する能力が低いんだから、人間は」
「悠太さんは察する能力が高いほうです!」
「高い方でも言っておいた方がいい」
みずはは完全に赤くなっていた。
武川は立ち上がり、「また来る」とだけ言ってドアの方へ向かった。
「窓から帰れよ」とみずはが言った。
「わかってる」
玄関ではなく、窓から。
武川はリビングの窓をさっと開け、二階の高さから飛び降りた(後で聞いたら無事着地していたそうだ)。
「叔父さんって、よく来るの?」と僕は聞いた。
みずはは「たまに……来すぎですが」と言いながら、武川の座っていた座布団を片付けた。
「悪い人じゃないよね」
「……良い叔父です。うるさいですが」
「みずはのことが心配なんだろうな」
みずははちょっと顔を緩めた。
「……そうかもしれません」
三
事件はその翌週に起きた。
大学からの帰り道、僕はコンビニに寄ろうとしていた。その時、スマホにみずはからメッセージが来た。
――お風呂から出られません
「え」
走って帰ると、浴室の前でみずはが床に座り込んでいた。顔色が悪い。
「どうした?!」
「お風呂に入っていたら……急に皿の水がとても少なくなって……立てなくて」
「皿の水? お湯の中にいたのに?」
「お湯の水分と、頭の皿の水は別なんです……皿に直接水が入っていないと」
「なんで急に?」
「気温が高かったので……蒸発が早かったみたいで」
確かに今日は四月にしては異様に暖かかった。
「水、今すぐ補充する」
洗面台のコップに水を汲み、みずはの頭の皿にそっと注いだ。みずはが少し安堵した息を吐く。
「もう少し」
もう一杯。
「……大丈夫です。ありがとうございます」
「起き上がれる?」
「はい」
みずはの手を取って引き上げた。思ったより軽かった。いや、引き上げた時の手の感触が柔らかくて、一瞬変なことを考えてしまった。
(考えるな)
「大丈夫?」
「はい……ご迷惑をおかけしました」
「迷惑じゃない」
みずははちょっと俯いた。「……迷惑でなくても、悠太さんに頼ってばかりで」
「頼っていいよ」
「でも」
「みずは」
「……はい?」
「一人でやってた五年間、大変だったろ。そこに人間が増えたんだから、使えるものは使っていい。それが同棲ってもんだ」
みずはは少し黙った。
「……悠太さんは」
「うん」
「私に、優しくしすぎます」
「そう?」
「……少し、困ります」
「なんで?」
「慣れてしまうと……いなくなった時が大変なので」
その言葉は、なんかぐっときた。
「いなくならない」と僕は言った。「少なくとも大学四年間はここにいる」
「四年間は……長いですね」
「長い間、よろしく」
みずはは少しだけ微笑んだ。
その笑顔が、なんか頭に残った。




